§10 11月16日(月) 26時頃 気の毒な少年という神話

文字数 4,278文字

 日勤が終わる間際に佐々木がちらりと顔を出し、木之下が夜勤であることを教えてくれた。しかし夕食の配膳は木之下ではなく、そのうえ衛は消灯と同時にすこんと眠ってしまった。ところが午前二時前に目が覚めた。日中なにもすることがなく、ただベッドに横たわり漫然と本のページを繰っているようであれば、九時に寝た少年が二時に目覚めるのは致し方のないところだろう。ヘッドライトを点け、世界の終末のように静まり返った病棟にしばらく耳を澄ませてから――蛇足ながら衛はそうした際いつもアンナ・カヴァンの『氷』をイメージするのだが、灼熱より極寒を選ぶのは土地柄というやつかもしれない――やおらナースコールを押すと、祈るように目を閉じて近づいてくる足音を待った。ゆっくりと扉がスライドし、呼びかけた声が、衛の祈りが通じたことを報せてくれた。
「衛くん、どうしたの?」
「木之下さんが同じ屋根の下にいるのかと想像したら眠れなくなってしまった」
「あ、そ。ちょっと待ってね」
 木之下はこの夜もマグカップを手に戻ってきてくれた。足元からベッドを回り込み、窓側の椅子に座ったということは、休憩時間をここで過ごしてくれるわけである。腰を下ろした木之下ににっこりと微笑みかけると、衛は自分の手でコントローラーを使い少しばかりベッドを起こした。
「今夜は木之下さんがいるって佐々木さんが教えてくれたんだよ」
「うん。そう聞いてたから私が来てあげたんだよ。でもまさかずっと起きてたわけじゃないよね?」
「さっき目が覚めたところ。日に日に睡眠障害が悪化していく。これはすなわち木之下さんへの募る思いが嵩じていることの紛れもない――」
「衛くんは心配するほどじゃないよ。今日はちょっと寝つく時間が早過ぎたんじゃない? 昼間なにか特別なことがあった?」
「あった。でもちょっと木之下さんには言えないな」
「どうして?」
「ショックで泣き出しちゃうかもしれないからさ。目の前で女の子に泣かれるのはツラいことだよ」
「私が泣くってどういうことよ?」
「仕方ないな、教えてあげよう。あのね、僕のことを憎からず思っていると思われるそれはそれは美しい女性が訪ねてきて僕の苦しみをやさしく包み込むように――」
「あゝ、警察の美女ね。あの人来たんだ。で、なんで私が泣く?」
「逆立ちしても叶わないから」
「私、戻ってもいいかな?」
 と、木之下が腰を上げるふりをして見せた。
「うわ、行かないでくれ!」
「だったらもっとやさしくしなさいよ」
「あのさ、僕ずっと思ってたんだけどさ、木之下さんておっぱい大きいよね?」
「それ、褒めてるつもり?」
「もっとやさしくしろって言うから、無理くりいいところを探し出したんだよ」
「どういう発想よ。でも衛くん見てるよね。それってバレバレなんだよ、知ってた?」
「バレると困るのかな? 嬉しいことなんじゃないの?」
「まあ、相手に寄りけりか」
「あのね、久瀬家は伝統的に小さいんだよ。いや伝統じゃなくて遺伝か。おっぱいのサイズは文化的遺産として受け継がれるものじゃないからな」
「見るだけならいいけどさ、触ってくるおじさんとかおじいちゃんとかいるのよ」
「ほんとに? 僕のやさしい木之下さんのおっぱいに触るなんて言語道断だな。即刻防犯カメラの取り付けを師長殿に具申しよう」
「それ思うよね? でも病室ってふつうに着替えたりするし、排便とかもするでしょ? だからプライバシーの侵害になるとかで付けられないの。ICUとかは付いてるけど。衛くんだってここにカメラ付いてて私たちから見えるのイヤじゃない?」
「木之下さんだけならいいよ」
「私がずっと見てるの?」
「寝る時間がなくなるか。じゃあ佐々木さんと交替で見ればいいんじゃないかな」
「いや衛くん別に見てる必要ないから」
「でも今どっちが見てるのかわかるようにしてほしいなあ。赤と青のランプが付いててさ、赤は木之下さんで青は佐々木さんとか。色はどっちでもいいけど」
「それわかってなにが嬉しいの?」
「ランプは三種類必要だな。どっちでもないときは白が点くようにしよう。そうすれば僕は二人のどっちかがいるときを狙ってナースコールできるようになる。いいアイデアだと思わない?」
「それってもうそういう運用になってるから、実質的に」
「あ、そうだった。佐々木さんが今日そんなこと言ってたな」
 ふうっと溜め息をつき、木之下がちょっと真面目な顔をつくった。
「あのさ、佐々木さんか私じゃないと寝たふりするとかって、ほんとなの?」
「そうだよ」
「なんで?」
「木之下さんと佐々木さんは僕を気の毒な少年を見るように見ないから、気の毒な少年と話すように話さないから、気の毒な少年と――」
「私たちだって衛くんは気の毒だって思ってるよ?」
「でもそんなふうな目で見ないでしょ? そんなふうな声でしゃべらないでしょ? でも彼らは違う。気の毒そうな目で、気の毒そうな声で、気の毒そうな話題を口にする。これに抵抗するのは難しい。なにしろ僕が本当に気の毒な少年であることは事実だから。甘い甘い誘惑の罠なんだよ。僕がそれを受け入れたらお終いだ。世界はそこで閉塞する。だけどこの誘惑は本当に甘そうないい匂いがするんだよね。だから僕は捕まらないように逃げ回るしかないのさ」
「ごめん、よくわからない」
「大丈夫。わからなくていい。木之下さんと佐々木さんは大丈夫だよ、どんな話題を口にしてもね」
「それじゃあ衛くんのただの好き嫌いって話にならない?」
「そうだよ。その好き嫌いを決する要因がちゃんとあると僕は言ってるのさ。――あのね、気の毒っていうのはね、相手の痛みを自分の毒として受け取るということだよ。問題はそのときに、そいつをどう始末しようとするのかってところなんだ。あの人たちはしっかり消毒液を握り締めて僕のそばに座る。そして僕の一挙手一投足に、僕の一言一言に、その都度いちいち消毒液を吹きかける。僕の目の前でそれをする。僕に気づかれていないと思ってるんだろうけど、そんなの簡単にわかる。僕にはそのスプレーボトルが見えてるんだからね」
 衛が寝たふりをすると強く訴えたのは井上である。木之下のひとつ先輩の看護師だ。これまで少なくとも木之下が知る限り、他の患者から井上に関する苦情を聞いた記憶はない。いや、衛だって苦情を上げてきたのではない。ただ寝たふりをした。あなたとおしゃべりをする考えはないと、それとなく、いやはっきりと表明した。佐々木と自分のなにが、井上とどう違うのか、衛の説明は木之下には理解されなかった。衛自身が理解できていないのではないかと疑ってみるのは無駄なことではないだろう。実際、衛は日中に佐々木に話したのとは異なる説明を木之下にしている。当人は同じだと考えているのだとしても、十七歳の少年が成すディスクールが時と場所と相対する人間によって姿を変えることには、なんら不思議も不可解もない。怪しむべきでも疑うべきでもない。衛はまさに十七歳の少年という局面に於いて、あるいは両脚の自由を失った入院患者という事態に於いて、正しく新しい世界の在り様を模索し、言語化を試みている最中なのだ。
 このとき木之下はナースセンターに戻ると少しだけ仮眠を取った。他方で衛は閉じた目を薄暗がりの中で開いていた。木之下のことはもう忘れている。言うまでもなく紺野友香里のイメージがやってきて追い払った。今日もまた、僕の車椅子を押すのはあなただと言ってみたけれど、やはり今日もまた、伝わったのか響いたのかわからなかった。そもそも望んでいいことなのかどうかも判然としない。紺野友香里は本当にただ単に綺麗な顔をした少年に欲情しているだけなのかもしれない。もしそうであれば、僕の車椅子を押すのはあなただなんていうセリフは、みっともないばかりだと思った。こないだはそうは思わなかった。単なる欲求不満のお姉さんでぜんぜん構わないと思った。だけど今日は違う。ドキドキしながらやってきたと、彼女はそう口にしたのだ。僕がドキドキしながら待っていたのと同じように。――いや、同じ、なのだろうか? もしかすると手ではなく口を使いたいと思いついてしまい、そのことにドキドキしていただけなのではないか? そのほうがよりいっそう性的に興奮させられるからという、本当にただそれだけだったのではないか? そうであれば、彼女の姿勢は首尾一貫しているということになる。欲しいのは十七歳の少年の肉体であり、十七歳の少年の欲情に過ぎないのだ、と。紺野友香里は言ってしまえばただの痴女に過ぎないのだ、と。
 ……痴女、か。もうちょっと優雅な言葉遣いが欲しいな。そう思ったが、さらに下品な言葉しか思い浮かばなかった。そもそも品がないという意味合いを多分に含んでいるのだから、これは当たり前なのかもしれない。けれども衛が抱いている紺野友香里には、この日の夜になっても猶、煽情的なイメージは混ざり込んでいなかった。それこそ所詮は思春期の少年に過ぎないのだと憫笑することもできるだろう。あるいは美しさの持つ両義性、または多義性について、いささか衒学趣味的な議論を展開すべきタイミングにあるのかもしれない。しかしここでは衛が立っている視座に踏みとどまるべきではないだろうか。なぜなら紺野友香里を貶めることならいつでもできるからであり、久瀬衛を生かすにはここを放置してはならないからである。――事故から一ヶ月余りが経過したこの日、いきなり屈曲してしまった世界線の遥か向こうに、桟橋の果ての情景が仄かに見え隠れし始めたのだ。これまで冗談のように、恐らく最初は本当に冗談のつもりで口にしてきた、「僕の車椅子を押すのは友香里さんだよ」というセリフが、実際そこは「木之下さん」にも「佐々木さん」にも容易に入れ替えができるものだったのに、この日、はっきりと「友香里さん」という桟橋に係累され固定されてしまったのだ。むろん、そこに辿り着くためにはこの夜のように、午前二時の底をいくども通過しなければならない。午前二時の底には見てはならないもの、触れてはならないものがある。だからこそ衛はそれを見なければならないし、それに触れなければならない。そして、衛はすでに午前二時の底に突き落とされている。しかし、私たちはひとつこれだけは忘れずにおこうではないか――桟橋とは本来的に船をつけるために用意されているのだという当たり前の事実を。
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