§16 11月24日(火) 26時頃 午前二時の底

文字数 4,524文字

 しかしこの日はこれで終わらなかった。夜更けて衛がナースコールを押した際――例によって小用を足すのを怠っていたからだ――開いた扉から今朝見たはずの顔が現れた。
「あれ? なんで木之下さん?」
「夕方にすごい事故があったの。玉突きで六台だって。それで人手が足りなくなっちゃって、呼び出された」
「不満そうだね。彼氏が泊まりに来る予定だったとか?」
「そういう予定は半年前に消えたから。――そうだよ、酷いと思わない? これから夏本番!てときに乗り換えられちゃうとか。私ほんと酷い人生送ってると思う。衛くんみたいなおかしな少年まで押しつけられてさ」
「それはおかしいぞ。私にとってこんな名誉なことはありません、て言ってなかった?」
「誰がそんなトンチキなこと言ったの?」
「もしかすると『光栄なこと』だったかな? どっちにしてもいつかきっと、あのときが人生のハイライトだったなあ、なんて思い返すことになると思うよ」
「どんな人生よ。ほら、おしっこでしょ。自分で下ろしなさい」
「八つ当たりはやめよう」
「もう一人でできるんじゃないの?」
「それを禁じたのは君たちじゃないか」
「失敗されたら後始末が面倒だからね」
「驚いたな、そんな身勝手な理由だったとは……」
 それでも木之下は、大袈裟に呆れ顔をつくって見せる衛の布団をまくり、パジャマとトランクスを下ろして尿瓶をあてがった。
「そういえばさ、夜中のこれって私ばっかり呼び出されてない?」
「それはきっと It never rains but it pours. てやつ」
「なにそれ?」
「私が出かけるときっていっつもどしゃ降りになるんだよねえ、て意味。今日だって木之下さんがいるなんて僕はまったく知らなかったよ」
「そっか。確かにね」
「あ、そうだ。せっかくだからひとつ木之下さんに吉報を教えてあげよう」
「なに?」
「あのね、病棟移った先でも個室になりそうなんだ」
「へえ、そうなの。でもそれ、私と関係なくない?」
「こっそり遊びに来てなにをしてもバレないって話だよ」
「終わった? ぜんぶ出た?」
「あ、うん、ありがとう」
「私、遊びになんて行かないけど」
「まさか! だって今朝は僕がいなくなるのがさびしくて泣いたんだろう?」
「さびしいけど、泣いたのは違う理由」
「あ、そうなんだ」
「ちょっと待ってて」
 木之下が尿瓶の片づけに退室するあいだ、衛は腕を上げ肩回りのストレッチをしながら待った。すぐに戻ってくるものと思っていたのだが――扉も中途半端に開けたままだったし――、木之下はなかなか姿を見せなかった。大きな事故があったと話していたことでもあり、なにごとか緊急に対応しなければならない実態が勃発しているのかもしれない。衛はストレッチを肩回りから背中へと移しつつ木之下が戻ってくるのを待った。時計は今が午前二時をいくらか回ったところ、夜にも朝にも割り当てられることのないデッドストックのような時間であることを示している。夜が終わり、しかしまだ朝の始まる気配もない、行き場のない時間――
「金曜、日勤にしてもらった。ちょうど師長がいたから。ちょっとキツイいんだけど、今週は頑張るしかない」
「いま調整してくれたの? 嬉しいなあ。でも木之下さん、今度は泣かないって約束してくれる?」
「それは、なんとも言えないわね」
「目の前で女の子が泣くのは世界でいちばん酷い懲罰だよ」
「懲罰ってことは、泣かせたってことよね?」
「だって僕のせいで木之下さんは泣くわけだから」

じゃない、

よ。だから懲罰なんかじゃない」
「そうなのか……。なんだか益々謎が深まっていく感じだけど、懲罰じゃないなら泣いてもいいよ」
 そこで木之下が珍しく目を伏せて、なにやら言い難そうに口ごもりつつ言った。
「……あのさ、ちょっと変なこと訊くけどさ」
「なに?」
「衛くん、あの警察の女の人と、よくないことしてるよね?」
「いいことって言うべきだな。でも知ってたんだね」
「私だけじゃないよ。佐々木さんとか、ほかにも。師長には言ってないけど」
「友香里さんは僕を午前二時の底から救い出してくれる人だよ」
 木之下がはッとしたようにサイドテーブルの上に視線を向け、デジタル時計に見入った。衛が口にした「午前二時の底」という言葉の意味を、意図を、測りかねているように思えた。だから衛は、友香里が「午前二時の底」から救い出してくれる人なのであれば、必然的にそこには「午前二時の底」に突き落とした人がいなければならず、しかしそれは間違っても木之下ではないことを、慌てて伝えるべきではないだろうかと迷った。けれども、木之下がなにを思って時計に見入っているのか判然としないのに、それこそ余計なことを口にしてしまう結果になるかもしれず、つまりは考えてもいなかったことを考えさせてしまう結果になるかもしれず、今朝(すでに昨日となった朝)、木之下があのように不可解に泣いたことでもあるし、ここは黙って待ったほうが良さそうだとの結論を下した。
「午前二時とかにこんなふうにおしゃべりしてるのって、なんて言うのかな、やっぱりちょっとおかしなことだよね。ずっと続くはずないし、ずっと続いちゃ困るし、それは悲しいし。でも衛くんと私のおしゃべりはいつもこんな時間。昼間はやることいっぱいあるから仕方ないんだけど。――私ね、この仕事始めて最初の頃ね、これってすごく特別なことみたいな感じがして、ちょっと得意になってたんだよね。普通は絶対に触れることのないその人の特別な時間に接してるみたいな。これまで誰にも話したことないんだけど…みたいなことも聞かせてもらったりして。――でもあるときふと気づいたの。あゝ、この人たちは別に私に話しているわけじゃないんだ、て。木之下真由に話してるんじゃなくて、木之下看護師に話してる。木之下なんて付ける必要もないただの看護師に話してる。もっと言えば看護師は人形でも写真でもよくて、結局のところ自分自身に話してるだけなんだよ。私たちってそういう存在に過ぎないわけ。言ってる意味わかるでしょ?」
「わかるけど、僕は違う」
「一緒よ」
「いや違うね。さっき僕は木之下さんを新しい病棟に招待した。それは看護師として来てほしいという意味じゃない。木之下さんとして来てほしいと思ってる。僕は看護師とおしゃべりがしたいんじゃない、相手は誰でもいいわけじゃない、人形や写真でいいはずがない。僕は木之下さんとおしゃべりがしたい。だから木之下さんが夜勤の時にわざとおしっこを我慢してナースコールをしてきた。友香里さんが警察官としてやってくるわけじゃないのと同じだ」
「やっぱりわざとやってたんじゃない」
「でも今日は違うよ」
「じゃあ私にもエッチなことして欲しいって意味?」
「それも違う。木之下さんのおっぱいが大きいからじゃない。でもまあ、木之下さんがしたいなら拒絶はしないけどね」
「したくないし!」
「でも、そっか。木之下さんはちょっと難しいかもしれないな」
「なにが?」
「だってほら、もう散々あちこちあれこれ見られちゃってるからさ、新鮮味が薄れてるって言うか、僕ら倦怠期に入ってる感じあるよね、正直なとこ」
「人を古女房みたいに……」
「だってさっき古女房みたいになっちゃうから悲しい、て話をしたんじゃないの?」
「違うわよ! もおさっさと寝なさい」
「うん、寝る。――ねえ木之下さん、おやすみなさいって言ってくれない?」
「ん、うん。…じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
 急に十七歳の少年のような顔をした。それも、回復の見込みが薄い怪我で入院している少年が深夜に見せるような表情で、そんな毒気のないセリフをまっすぐに口にして。――木之下は目を閉じた衛の上に手を伸ばしヘッドライトを消した。ゆっくりと暗闇に視覚が慣れて行く。木之下が立ち去っていないことを衛は間違いなく認識しているはずで、しかし求めに応じておやすみなさいを言ったから目を開けるようなことも口を開くようなこともしないのだと、木之下はそう承知した上で残り二日余りで見納めとなる衛の顔を、天井の小さな常夜灯と、窓の厚いカーテンを透り抜ける街灯の薄明りの中で、しばらく眺めていた。
 わかるけど、僕は違う。――信じるか否かという設問にはたぶん答えがない。信じると答えても信じないと答えても胸の同じところが痛むからだ。衛が病棟を移ってしまえば顔を合わせる機会はなくなる。回復期リハビリテーション病棟はバス通りを渡った先にあり、日常的に業務上の往来も少なくない関係だから、退院するまではばったり出くわすこともあるかもしれないけれど、通院に移行したあとはそのような偶然はまずやってこないだろう。病院は入ってきた人間をなんらかの形で出すところにゴールが定められている。だから決して心を寄せてはいけないのだと言う人もいる。間違った考え方だとは思わない。ここのように大きな総合病院であればむしろ正しい姿勢かもしれない。
 しかし厄介なことに心というやつは自分のものでありながら完全な統制下に収まってくれないのだ。それはたぶん「私」と「心」とが不可分に結びついているからだろう。神経細胞は入れ子構造であり、その結果なのかわからないけれど、「私」が「心」を痛めているときには「心」も「私」も同時に痛い。それでも「私」が「心」の痛みを見るのであり、確かにそのときは「私」も一緒になって痛いのではあるけれど、「心」が「私」の痛みを見ることはない。「私」は「心」と一緒に痛みながら「心」の痛みを見るのだ。そのように「心」の痛みを見つめる人たちを、木之下も短い経験ながらもすでにたくさん目にしてきた。痛みに耐えているたくさんの眼差しだ。
 衛の不思議なところはまさにその眼差しにあった。衛はどうしてこんなところにそんなものがあるのだろう?と首を傾げるようにしてそれを見る。まるで手のひらの上に取り出して矯めつ眇めつするかのように見る。木之下は時々「それはあなたのものよ」と声を掛けたくなることがあった。「これは誰のだろう?」と尋ねられる前に、そう尋ねられることから逃れるために、いや、衛がうっかりそんなことを尋ねてしまうことのないように。けれどもきっと衛はそう聞いてずいぶんと大袈裟に驚いてみせたあと、今度はいかにも興味津々といった顔つきをするに違いない。「へえ、こんなものがここにあるとは知らなかったなあ」なんて不謹慎なセリフを口にしながら。
 そうだ。言ってしまえば衛は不謹慎なのだ。腹立たしく、憎たらしく、鼻持ちならず、そして愛おしい。これが七歳の男の子であれば、せめて十歳の男の子であってくれたなら、どんなに可愛かったことだろう。胸に抱きしめたいのを我慢できずにこっそり毎日でも顔を出してしまったろう。しかし衛は十七歳で、すでに充分な第二性徴を示している。衛が口にしたように、木之下は散々あちこち見てしまった。あれこれと見てしまった。あゝ……。
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