§17 03月14日(水) 10時頃 清算すべきこと

文字数 4,198文字

「学校に週二、企業に週二、十時~三時ね」
「あと、個人が数件あります」
「そんなんで食えるの?」
「まあ、実家なので」
「暢気でいいなあ」
「しょってるものもありませんし」
「羨ましい限りだ」
「でもこれってすごく恵まれた話なんですよ。警察にいたというキャリアが思いのほか信用高くて。正式にはもちろんこれからなんですけど、早ければ六月くらいから始まりそうなんです」
 コネというほどではないにしても、地元の国立大学だからちょっとした口利きがあったのは事実であり、そんな経緯を知っている者もいて、針の筵とはさすがに言い過ぎだが、万人が納得する理由もなく退職する友香里を心良く思っていない人間も、少なからずいることは承知していた。だから、出勤して程なく正木に声をかけられた友香里は、正直なところ首をすくめてカフェのテーブルの向かいに腰掛けた。が、正木はいつもの正木となんら変わりなかった。
「私、てっきり怒鳴りつけられるのかと思ってました」
「俺に? この俺が? なんで?」
「なんとなく、正木さんぽいかな?なんて」
「勤労は国民の義務だ!とか叫ばないよ、俺」
「はい。ですよね、確かに」
「宝くじ当たったらその日のうちに辞表出すよ」
「買ってるんですか?」
「宝くじ? いや買ってない。当たる気しないから。競馬のほうがよっぽど当たる」
「へえ、すごいですね」
「いや競馬も当たんないから最近やってないけど。――いや俺のことはどうでもいい。なにがあった? セクハラか? パワハラか?」
「仮にどっちかだったとして、それ言うと思います?」
「言わないわな。てことはどっちかなんだ。な?」
「心配しなくていいですよ、正木さんは登場しませんから」
「直接的には、だろ? 間接的には登場するだろ?」
「どうしてそう思うんですか?」
「紺野とはちょくちょく絡んでるんだよ、なんでか知らんけど。だからおまえの様子はなんとなくわかるわけ。バイオリズムって言うかさ、今あんまり調子よくないみたいだな、とか、そういうの。だけどそんなに長く引きずらないんだよ、おまえは。なにしろ臨床心理士様だからな、自分でもうまくコントロールできるんだろうな、て思ってたわけ。ところが野上の一件以来、ず~と良くならない。確かにクソ忌々しい話がてんこ盛りだったし、久瀬衛はこのまま車椅子だ。酷い話だ。それにしてもちょっと長過ぎやしないか?と怪しんでいたところに辞めるって言うじゃないか。それとこれを繋いでみれば俺も登場せざるを得ない。そうだろう?」
 速やかに否定すべきか、あまり速過ぎてもおかしいか、そんな迷いが中途半端な間をつくり、結果として正木の勘繰りを肯定する表情になった。そうなってしまえば正木の想像を思う存分に拡げさせたあとで、まあ大体そんな感じです、くらいに応じて終えるほうがいい。友香里は曖昧な表情を維持したまま、正木が勝手に言葉の先を継ぐのを待った。
「やっぱりか。ああいうどこに救いを求めればいいのかわからんヤツは確かにキツイよ。後味も無茶苦茶に悪かった。おまえちょっとあの少年に入れ込んでるとこあったしな。野上は争わないらしいから、そいつが唯一の慰めみたいなもんだよ。滅多にあることじゃないけど、こういうのは心を削り取られる。我慢して騙し騙しやってくのは得策じゃない。もうこんなのうんざりだ、て思ったんなら辞めるのが正解。俺もそう思う」
 しかし、友香里はそこでふと、不用意にも首を傾げてしまった。
「……うんざりというのとは、ちょっと違うんですよね。私は警察官として、職務として接してきたわけですけど、久瀬衛のほうは終わりがないんです。まだ野上雄一郎のほうが終わりがあるだけ幸せなのかな、とか変なこと考え始めちゃって。でもそうじゃありませんか? 加害者のほうには刑期という明確な区切りがあるのに、被害者のほうにはない。久瀬衛にはほんとうにそれがない。だから私、どうすればいいのかわからなくなっちゃって――」
「野上だって一生背負ってく。背負わされる」
「心持ちの問題にすぎません。久瀬衛とは違います。当事者でなければニュースで書かれる以上のことは知り得ないし知る必要もないのに、ほんとうは警察官は当事者になってしまってはいけないのかもしれませんけど、私は久瀬衛に対して当事者になってしまいました。だから、辞めるんです」
「それって、おまえ――」
「実を言えば臨床心理士という資格要件でもアウトなんですけどね。あくまでも個人として契約してくださるので、まあバレなければいいというか。――つまり、そうです、私は衛くんに寄り添って生きていくことを選択しました。警察官でもなく臨床心理士でもなく。だから、そのうちもう要らないとか言われちゃうかもしれないけど、いつか終わるのであればそういう終わり方をしたいんです。もちろん今は終わりがあるなんて考えてませんよ」
「嬉しそうな顔しやがって」
 あれ? どうしてこんなことを口にしてしまったのだろう?
「いくつ違う?」
「十歳、です」
「親御さんに訴えられたら俺が担当してやる」
「お手柔らかにお願いします」
「ショックを受ける男がわんさか出るなあ。いずれバレるぞ」
「退職後なら、別に」
「ま、そうだな。いや俺の口は堅いよ。疑わし気に見るなって」
 紺野とはちょくちょく絡んでるんだよ、なんでか知らんけど――正木はとぼけたのか、本当に意識していないのか計りかねるが、友香里と関わることが多かったのにはきちんと説明のつく理由がある。偶然ではない。被害者に会ってほしいと正木のほうから求められてきた。捜査・送検に必要な事柄を超えて接するのが苦手なのである。気持ちのやさしさの裏返しだということにしておいてあげよう。実際、久瀬衛の予後に関しても二週に一度くらいは必ず照会がある。こんなふうにカフェのテーブルで話を聞きたがる。それでも同行はしない。そうでなくとも元より熱くなるタイプだから自重している。不必要に被害者の心情に寄り添えば目が曇る。正木は物語の創作を好まない。
「正木さん、お世話になりました」
「うむ。困ったことになったら遠慮するなよ」
「困ったことになる、て言い方は如何なものかと」
「ごめん、間違えた。困ったことがあれば、だ」
「奥様を大切になさってください」
「大切にしてるさ」
「お酒も少し控えめに」
「言われると思った」
 友香里を署の前で降ろすと正木はそのまま税務署に向かった。カネの話は面倒臭いとぼやきながら。デスクについた友香里には過去の資料の整理くらいしかすでに仕事がない。継続中の「久瀬衛」についてもこの日のうちに仕上げてしまうつもりだった。今度の土曜日に退院、新年度より復学(留年)、運動機能の回復は見られない、精神状態は極めて安定的、家庭は裕福、今後の訪問は不要――
「紺野さん、これ」
 声に顔を上げると沢邊保奈美がなにやらメモを差し出して、友香里が受け取る前にぞんざいに机の上に放った。沢邊はきつい眼差しで友香里が戸惑うくらいに長い時間、じっと睨みつけてきた。いくらか瞳が潤んでいるようにも見える。と、そのままふいっと席を離れてしまった。
 ――二人で話をする時間がほしい
 豊田からのメモに友香里は溜め息をついた。どうして沢邊さんに頼むのか。誰が見たって豊田に惹かれている沢邊さんに。私に脈がないことは明らかなのに。友香里は新しいメモ紙を一枚手に取ると「ごめんなさい。お話することはありません」と書き記して腰を上げ、沢邊がしたのと同じようにぞんざいに、しかし豊田の顔も見ずデスクの上に置くとそのまま自席に戻った。
 驚いたことに、その沢邊保奈美から昼食に誘われた。休憩スペースの隅の丸テーブルで保奈美は友香里の向かいではなく隣りに腰掛けた。内緒話をしたいという意向表明だ。友香里はさすがに少しばかり緊張した。保奈美の眼差しは先ほどのように険しくはなかったけれど。
「バッサリぶった切ったのね」
「ん? あゝ、そうね」
「呆然としてたよ。私うっかり吹き出しそうになっちゃって」
 どのように受け取ればいいのか迷わされつつ友香里は保奈美の顔を見た。
「ダメだわ、あの人。なんかよくわかった。醒めるのって一瞬だね」
「なんとも応えようがないわ」
「どうせあれでしょ? ちょっと時間くれない?みたいな」
「その通り」
「このフロアきてからずっとそれやってない?」
「やってるかも」
「中学生かよ。中坊ならいくら引っ張ってもいいけどさ。ねえ?」
 あゝ、いま沢邊さんは清算を始めようとしているのか。このまま部屋には持ち帰りたくないし、結局はどうせ泣くのだとしても、尖った部分はいくらかでも削っておきたい。怪我をするのは仕方のないことだとしても、軽い消毒と絆創膏くらいで済ませたい。みんな同じことを考える。――え、あ、ちょっと待ってよ! 私は違うわ。私は違うでしょう?
「でも今日は覚悟決めてたかもしれないね。紺野さん辞めちゃうわけだし。卒業する前に、ていうのと一緒だ。やっぱ中坊のやることだわ。このタイミングって絶対にダメなやつなのに、そんなのも知らないなんて、三十過ぎた男が、呆れちゃうよ、ほんとに」
 申し訳ないけれど、その話に付き合っている義理は自分にはない。
「沢邊さん、午後出かける?」
「試験休み入ったからね、おバカな青少年どもがうろついてるわ」
「何時?」
「三時半」
「車?」
「どっか行きたいの?」
「県立病院なんだけど、リハビリのほう」
「いいよ。乗せてってあげる」
 二人が弁当を食べながら話しているあいだに、一度、豊田が休憩スペースに入ろうとして慌てて引き返していた。友香里が豊田を鬱陶しく感じていたのと同じく、豊田は沢邊を疎ましく思っていた。なにかにつけ自分の周囲をうろついてくる沢邊保奈美という大して美しくも可愛らしくもない女のことを。しかし二人が自分の話をしているのは間違いない。門前払いされた自分を嗤っているのだろう。紺野友香里の姿はまもなく視界から消えてなくなるが、沢邊保奈美とは今後も同じフロアで顔を合わせる。想像しただけで職場の景色が曇り、空気が澱んで見えた。しかし、そう言えば、紺野友香里はなぜ辞めるのだろう? 豊田は初めてその理由なり事情なりに疑問を抱いた。メールを避けてメモを渡すようなことは真っ先に思いつく癖に、こうしたことは後になってから考えるような男だった。
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