§14 11月24日(火) 15時頃 224条?/225条?

文字数 6,849文字

 面会時間の開始時刻ぴったりに顔を出すのはどうなのだろう……。病院の駐車場に車を停めたところで友香里はふと躊躇った。早く衛の顔が見たい。けれども今日はニュースを携えてきてしまったもので、想いの隙間に追い払いようのない腐臭が混ざり込んだ。この三時間も、やはりなにも決められなかった。張り切って署の車を手配したのに――友香里はハンドルの上に額を乗せた。
 そうそう、野上雄一郎のことなんだけどね――なんて、思い出したかのように取ってつけたような言い方になってしまいそうだった。最初に報告だけ終えさせてちょうだい――とか、あくまでも職務上の要請であることを強調してみたところであっさり見破られてしまうだろう。――だけど、それならどうすればいいの? どんな顔をして衛のそばに座ればいいの?
「ごめんね。少し遅れちゃった」
「雨が降ってるの?」
「そうよ」
「気づかなかったな」
「あゝ、音のするような降りじゃないからね」
 コートをハンガーラックにかけて振り返ると、衛が芝居掛かったふうに眉を上げた。
「笑わないで……」
「うゝん。友香里さん、すごく綺麗だ」
「……ありがとう」
「今日はお祝いだから?」
「お祝い?」
「だって野上の送検が確定したんだろう?」
「もう知ってるのね」
「知っているわけじゃないけど、そうなるであろう背景の出来事は聞かされてるからね。でも理由がなんであれ、友香里さんが綺麗なのは無条件に素敵なことだよ」
 ベッドの足元を回り込み窓辺の椅子に腰かけたとき、まったく不必要だったらしい逡巡に胸の内で苦笑しながら、ふと、いつもより椅子の位置がずいぶん衛に近いように感じた。衛から手が届く位置、衛の手を抱き寄せることができる位置――この距離をとる人間が友香里のほかにもいるのだろうか。
「どうしたの?」
「ん? あゝ、なんか椅子の位置がいつもと違うな、と思って」
「椅子の位置?」
「うゝん、なんでもないわ」
「いや、なんでもなくはない。椅子の位置には重大な秘密が隠されている。あるいは重大な秘密の存在を示唆している。――教えてあげよう。実は今朝ね、木之下さんが大きなおっぱいを触らせてくれたんだよ。そのときに近くに引き寄せたままになっていたというわけさ」
「……え~と、それって、なに?」
「師長さんがきて金曜に病棟を移る際の説明を始めたんだけどね、そこで『回復期リハビリテーション病棟』だとか言うもんだから、僕びっくりしちゃってさ。『回復期』とはどういう意味か?なんて師長さんに迫って困らせたわけ。結局は意味なんて全然なかったんだけど、そのあと木之下さんが残ってくれて、僕の手を大きなおっぱいに押しつけてくれて、その上なんと泣いてもくれた。きっと僕と離れちゃうのが寂して堪らなくなったんだろうな」
 衛は恐らく実際にここで起きた出来事をわずかに歪曲すると同時にかなり誇張もしている。それは間違いないと思うのだけれど、どこで、なにが歪曲され誇張されているのか、なぜそれを歪曲し誇張するのか、すぐには読み取れなかった。友香里はふたたび迷路から抜け出せなくなってしまう前に、衛の仕掛けた罠の表層的な側面のみを拾い上げ、衛がどこでなにをなぜそうするのかを――いや、そうではない。ただ単にきっと疑心暗鬼に過ぎないのであろう己の胸の内の底を覗き込み、どうすればそれを追い払えるものか確かめようとした。まるで十七歳の女の子がこうしたときにそうするように、ちょっと拗ねてみせるような態度から始めることによって。要するに友香里は無意識ながら気づいているわけだ、衛がわざと嫉妬心を煽るために物語を歪曲し誇張したことを。拗ねたような態度でそれに応じることが、二人にとって愉快で幸福なやり取りへと変じるはずだということにも。
「ふ~ん。それで下のほうはどんなことをしてもらったの?」
「下はなにもしてくれなかったよ」
「じゃあ、大きなおっぱいを鷲掴みにしただけ?」
「鷲掴みにもさせてくれなかったな」
「それなら木之下さんはどうしてそんなことをしたのかしら?」
「病棟を移る僕へのささやかなる餞別といったところだろう」
「あなたの手をおっぱいに押し当てることが?」
「そうだよ。なにしろ木之下さんのおっぱいは僕の見立てではこの病棟でも二番目に大きいからね」
 二番目と聞いて、それが一番目でないことを知って、二番目だと口にするおかしさに安堵して、やっぱりそうだったのかとほっとして、友香里の態度は同い年の拗ねた少女のようなそれから年上の女の本来的な余裕を取り戻すと、奪うように衛の右腕を引き寄せると同時に、掛け布団を捲り上げた。
「でもこの手はその大きさをちゃんと確かめるところまでは許してもらえなったのね」
「きっと誰かさんと違ってその方面での欲求は充分に満たされてるんじゃないのかな」
「つまり誰かさんのほうは今日はもうお腹いっぱいだって言いたいのかしら?」
「そう言う誰かさんのほうは空腹で今にも倒れそうな感じみたいに見えるねえ」
「この四日のあいだに自分でした?」
「とんでもない。僕は金曜も土日も昨日だってずっとずっと友香里さんを待ってたんだよ」
「ほんとうに?」
「ものすごく頑張って我慢してたんだ。昨日なんかもう危うく失神しそうなくらいだったよ。なにしろ友香里さんのこれは鍛錬に鍛錬を重ねた匠の技とも形容すべき――あうッ!」
 発話が困難になるその瞬間に、こんな戯言を口にする小憎らしさに、友香里はわざと軽く歯を立ててやり衛に小さな悲鳴を上げさせてから、空腹を満たすために働く器官を魂の渇望を癒すために使い始めた。そのまま椅子をギリギリまでベッドの頭のほうに近づけると、友香里の要求はすぐに理解され、衛の手がベッドサイドより下方にまで降りてきた。そこで衛の手が自由にその働きの場を得られるよう、病院を訪ねる日の友香里はパンツスーツはもちろんタイトスカートも避け、十一月の寒さを凌ぐことのできるギリギリまでの薄さと柔らかさとを求めて服を選んでいる。あるいはセーターの色合いや化粧の入念さに加え、そんないささか場違いに見えるふわりとしたスカートを着けて座っていたこともまた、二度にわたる豊田の接近を招いたのかもしれない。しかし衛の布団が捲り上げられていることの説明は如何様にでも創作できる一方で、友香里が衣服を下ろしていることの理由なんてどこをどう探したって発見できそうもないのだから、そうした選択をするよりほかないのだった。
 往々にしてこうしたことは、当人たちにとっても思わぬ時間が経過するものである。友香里は署に戻り同僚たちに顔を見せ病棟を移る前の最後の訪問であった旨を上長に報告する考えでいた。実際そのための時間の余裕は充分にあった。けれど、きっと帰りたくなくなるだろうことは予想していたし、それは衛と会った日はいつだってそうなのだが、今日は正木から組織を擁護するような文面を読まされてしまい、さらに豊田の意気地のないアプローチに二度までも曝されてしまい、許されることならこのままここから衛を車椅子に乗せ、見知った顔がひとつもない街への逃避行を図りたいような気分だった。――「未成年者略取及び誘拐罪(刑法224条)」――半身不随の少年であってみれば略取は容易であり、衛が同意したと主張しても退けられる可能性は高い。友香里は警察官であり臨床心理士であり言い逃れようのない性的関係までも持ってしまっている。従ってここでは225条を適用されるかもしれない。
「ねえ、師長さんとなにがあったの?」
 後始末を終え、そうは言ってもなにが行われていたのか瞭然であるほどに乱れてしまった服を整えて、椅子を適切な位置に戻すと、友香里は衛の右手をベッドの端で包み込み、改めて落ち着いた心持ちで話を聴こうと思った。なんとなく、説明はできないのだが、衛が大事なことを口にしたように感じていた。時間を忘れて魂の餓えを満たそうとしていたそのあいだにも、胸騒ぎが蠢いていた。
「さっき話した通りだよ。僕を『回復期リハビリテーション病棟』に移すとか言うからビックリしてさ、『回復期』と言うからには歩けるようになるということか?て詰め寄ったんだ。そしたら必ずしもそうしたことを意味するわけではないとかなんとか口ごもったわけさ。外科的に可能な処置が終わったに過ぎなくて、その結果ステージを変えるという手続き論に過ぎなくて、つまり世界の姿が変わるような話じゃない。なんでそんな決まりがあるのか知らないけど、法律の定めに従って病院を変える。ただそれだけのこと」
「それだけとか言うから木之下さんに叱られるのよ」
「違うよ。木之下さんは僕を叱ったんじゃない、懇願したんだ。私たちの仕事の意義を否定しないでほしい、て。もちろん僕はそんなことはしない。勤労感謝の日の『ありがとう』も伝えたし、大きなおっぱいに僕の手を押し当ててくれたことに関しても素直に嬉しいと伝えた。でも木之下さんは泣いてしまった。僕にはどうしてだかよくわからない。――確かに、そうだね、木之下さんは僕を叱ったのかもしれないな。僕が叱られていることにちゃんと気づかなかったから、それで泣いたのかもしれない。でもなんで叱られたのかは謎のままだ」
 友香里は木之下が泣いたことの意味になど興味がなかった。それよりも、自分たちの仕事の意義を否定しないでほしいと懇願したという解釈に、勤労感謝の日の「ありがとう」の言葉に、胸に手を押し当ててくれたことが素直に嬉しかったという衛のセリフに、友香里は戦慄した。――衛はいま私が彼にしたことにも「ありがとう」と言うのだろうか。素直に嬉しかったと言うのだろうか。それを私の仕事の意義に結びつけるのだろうか。――仕事の意義? 友香里は組織を擁護しようとした正木の言葉をまたも思い出した。こんなときに、衛の性器を咥えるような振る舞いを終えたあとに、それでもなお私は警察官として今ここに座っていると言うのか。それは、余りに惨い。
 しかし、衛のほうには自分がなにを口にしたのかという認識などまったくなかった。昨日がたまたま勤労感謝の日に当たり、今日がたまたま転院を告げられる日に当たり、そこで木之下が「嘘じゃない」と訴えながら泣いたものだから、それらの表層的なイメージの連鎖を捉え、出まかせに「仕事の意義」だなんて言葉を口にしたに過ぎない。無邪気であることはそれだけですでに罪なのだと謂われる事例の、これはひとつの典型だと言っていいのかもしれない。事実、今朝も衛は木之下の痛みに気づかなかったし、今もやはり友香里の痛みに気づいていない。しかし無邪気であることは同時にまた救いにもなる。あゝ、もちろんこれは皮肉である。
「そうだ。それでちょっと思ったんだけどさ」
 知らず知らず俯きかけていた友香里の顔を衛が呼び戻した。
「僕が病棟を移っても友香里さんは来てくれるの?」
 あまりに唐突だったために友香里は応答にしくじった。
「警察官としては、頻度は減ってしまうかも……」
「警察官として? それはつまり友香里さんはあくまでもここには警察官として――」
「違う! 違うわ。警察官としての頻度は減るって言ってるだけ」
「そうでないものが増えると言っているみたいに聴こえるけど」
「……ん。……まあ、そうね」
「本当に? じゃあ今よりもっと来てくれるようになるの?」
「そうしても、いいのかしら」
「なにを?」
「だから、ここに来るのを、もっと増やしても」
「一日おきとか?」
「たとえば……」
「毎日になったりする可能性もある?」
「毎日は、ちょっと、難しいかも……」
「警察官だから?」
 友香里はひとつ大きく息を吸い込んだ。
「私が、警察官でなくなっても、会いに来ていい?」
「警察、辞めるの?」
「うん、辞めるかもしれない」
「そしたらもっと会えるようになる?」
「そうできる仕事にする。……私は、そうしたい。……衛くんも、望んでくれるなら」
「僕はずっとそう言ってるよ。僕の車椅子を押すのは友香里さんだ」
 あまりにも嬉しそうな笑顔を見せるものだから、友香里は思わず腰を浮かせ衛の首に抱きついていた。午睡に見る夢のように目覚めにくい接吻が続き、繰り返し繰り返しそれが続き、ところがふと、そういえば今日はいつもより入念に化粧を施してきたことを思い出し、そのあとにもついさっき衛を咥えていた口を離した後に化粧を直したことを思い出し、そこでもやはり今日の衣装や気分に見合った化粧に戻したのだから、案の定、衛の口の周りに友香里のリップが淫靡どころか滑稽なほど醜悪に拡がっている様を見出してしまい、友香里は慌ててサイドテーブルからティッシュペーパーを抜き出すと、鼻の頭が触れるほどの間近で丁寧にそれを拭い取った。
「……衛くん、大好きよ」
「そんな食後の吸血鬼みたいな顔で言われてもなあ」
「え、あ、やだ……」
「そうか。僕いま気がついたんだけど、気がついたというか発見したんだけど、そうしてティッシュで口紅の跡を拭うのは今日はもうキスはしないという意思表明になるわけだね。歯磨きをした後はもうなにも食べちゃいけないのと同じだ」
 椅子の上に戻っていた友香里は思わず自分の口元を拭っていた手を止めた。
「そんなことないわ。またキスしてもいいのよ。歯磨きとは違うもの」
「まだ変だよ。右側に残ってる。友香里さんの右側。ちゃんとしとかないとあらぬ誤解を招くことになるから、ちゃんとしよう」
「あらぬ誤解って?」
「未成年者を拐かす行為を淫行って呼ぶんだ」
「知ってるわよ、それくらい。警察官なんだから」
「ほんとうに辞めるの?」
「わからない。今度ちゃんと話すわ。…あ、でも週に二回は必ず来るから、最低でも。約束する」
「友香里さん、あのね、僕も友香里さんが大好きだよ」
 衛がまたもやあまりにも嬉しそうな笑顔を見せるものだから、友香里は今度も思わず腰を浮かせそうになった。けれどもリップの跡を拭ってしまった後にキスを再開してはいけない。ここが病室であることを忘れてはならない。――そうか。病室はどうなるのだろう。移った先の病棟で衛が個室を維持するとはちょっと考えにくい。車椅子のスペースなども勘案すれば恐らく四人部屋で、同じように脊髄などを損傷し、程度の差こそあれ運動機能障害を抱える複数の人間と同室になる。カーテンを閉めたところできっともう同じ行為を続けるのは難しい。決してそれがしたくて来るのだとは言わないけれど、それが制限されるのも正直なところさびしい。いや、率直につらい。
 友香里は夕食が終わるまでずるずると留まった。食事をする衛を眺めるのは形容し難いほどに幸せだった。この日は木之下という看護師の顔を見なかった。やってきたのは佐々木というやはり若い看護師で、友香里の存在に酷く緊張している様子だった。衛が軽口をたたかないばかりか一言も発しないものだから、それもさらに佐々木の緊張を高めたようで、配膳とベッド周りの簡単な片づけを終えると、そそくさと逃げるように部屋を出た。その後ろ姿を見送る衛がにやにやと笑みを浮かべているのを見れば、どうやらわざとそのような気配をつくって見せたらしい。恐らくいつもは気安く言葉を交わす仲なのに違いない。友香里は胸の奥ではっきりと強い嫉妬心を意識した。
 衛との邂逅は偶然に過ぎなかったが、それはミラン・Kが言うところの人生のモチーフをなす偶然へと、あるいは物語を生成する貴重な暗号へと、友香里の中で変貌を遂げた。もはや己の感情の綾に戸惑うことも、葛藤やら懊悩やらの御し難い起伏に翻弄されることも、私たちが「自由」を手に入れた事実の証に違いないと友香里は思った。これを社会的・道義的に好ましからざる事態であると騒ぐ人間はいるかもしれないが、その時はすっきりと警察を辞める。むしろ踏ん切りがつく。寮内にそんな囁きが聞こえれば、署内に噂が広まるのは早いだろう。しかし女子寮は「寮」と言っても実質はワンルームマンションであり、プライバシーの壁は思いのほか厚い。だから自分から同僚に漏らしてみようか、と大胆な考えも浮かんだ。そんな想像も愉しかった。
 二人は重傷を負った交通事故の被害者と臨床心理士の資格を持つ警察官という関係ではなくなった。いつ、どんな衣装を身に着けて訪ねて来てもいい。訪問事由を用意する必要もない。友香里はこの日、朝からそのことに慌てふためいていた経緯を、すっかり忘れてしまった。確かにもはやどうでもいいことではある。そもそも二人のあいだに大きな障害などあったろうか。入院患者が医師や看護師と結ばれるような話と、どこか違いがあったろうか。たぶんそんなものはなかった。なくて当たり前なのである。これは久瀬衛と紺野友香里の物語なのであり、重傷を負った交通事故の被害者と臨床心理士の資格を持つ警察官という関係性は、二人を引き合わせるために用意された道具立てに過ぎなかったのだから。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み