§02 11月11日(水) 16時頃 フルサワ精器代表取締役

文字数 7,010文字

 エレベーターを待っているあいだにふと気がついて、友香里はトイレに寄り念入りに手を洗ってから個室に入った。ブラが居心地悪くズレてしまっている。きっと最後に衛が強く握りしめたときだろう。そのせいで、今日もシーツを汚してしまったのだ。なにか上手い方法を考えなければいけない。真っ直ぐにしていればいいなんて、そんな難しいことを言わないで欲しい。
「紺野さん」
 エレベーターを降りてすぐに呼び止められた。声は広いエレベーターホールの真向かいの壁に立つ小柄な少女が発したものだった。三十分ほど前に立ち去ったはずの久瀬薫である。歩み寄ると、少女はわざとらしく腕時計を確かめるふりをして見せた。
「ごゆっくりとは言いましたけど、こんなに長くお話しするような進展があったんですか?」
 小柄な少女が見上げる丸い瞳は、恐らく根拠を持たない猜疑に満たされて、きらきらと怪しく煌めいている。
「私たちの話なんていくら聞いても意味ないですよね? あれは事故で、ただの事故で、野上は衛と承知して撥ねたわけじゃないんだから。そうでしょ?」
「その通りね。でも薫さん――」
「じゃあなんのために――」
「私は臨床心理士の資格を持ってここに来ているの」
「だけど衛はそんなの――」
「十七歳の男の子は将来に希望を抱かないといけないわ」
 同じセリフをすでに少なくとも二度は口にしているはずだった。それでもこの少女はまた同じ言葉を――この取って付けたように空疎な言葉を――誰かの口から聞きたくて待っていたのだ。だからまったく同じセリフであったとしても、三度でも四度でも、求められる限り少女に向かって口にしなければならない。それがどれほど空疎であったとしても、反復することの意味まで無効化されはしないはずだ。
 薫は見開いた目を最後まで逸らすことなく、あるいはもしかすると瞬くことすらせずに、ふいと顔を背けて歩き去った。ちょうど外来が閉じたばかりの時間である。人気のないロビーの太い柱の先で薫が左に折れ、時間外の出入り口を目指して壁の向こうに姿を消すまで見送ってから、友香里はカップベンダーのコーヒーを手に、自動精算機の前に並ぶロングソファーのひとつに腰を下ろした。
「警察の方ですか?」
 ややあって、ほっと息をついたとき、今度は腰掛けている左手から声を掛けられた。見れば、ついさっき薫が姿を消した廊下からロビーに入ってきたところに、体格がよく身なりのいい壮年の男が立っている。見覚えがない。それでも友香里は腰を上げ、歩み寄る男を迎えた。このタイミングで自分を警察の人間かと尋ねたのだ。久瀬衛に関係する人間であることは疑うべくもない。間合いもなく差し出された名刺を受け取って、だが、友香里は思わず目を見張った。
「久瀬とは高校からの付き合いです。今そこで薫と擦れ違いました。あなたとお話しされていたらしい。そうですね?」
「えゝ。あ、私は――」
 と、慌てて友香里もバックから名刺を取り出した。男はしっかりと頭に刻み込むように見入ったあと、上質なスーツの内ポケットに収め、小鬢に白髪の交じった色黒の顔を柔らかに崩した。
「紺野さん、少しお話させてもらっても?」
「こんなところでよろしいのですか?」
「むしろここのほうが人目につかなくていい」
 男は笑いながらロングソファーの端に腰掛けた。友香里もあいだに一人分ほどの距離を空けて座ると、改めてまだ手にしていたままの名刺を確かめた。「フルサワ精器株式会社 代表取締役社長」とあるのは、県内の有名企業として間違いなく筆頭に名前が挙がる大手精密機器メーカーの、目の前の男が最高責任者だという意味だ。――友香里ははッとして名刺入れにそれを収め、古澤に顔を向けた。
「時間が空いたものだから衛の見舞いに参ったのですが、運悪く薫と出くわしてしまった。しかしそれで運良くあなたと巡り会えた。これはなにかの縁だろうと思いましてね」
「あの姉弟をご存じなのですね?」
「そう。よく知っている。この手でおむつを替えたとまでは言わないが、おむつを替えてもらっている様子は見ている。久瀬とは高校の同窓でしてね、私はずっと薫にラブコールを送り続けているのですよ」
「……は、はい」
「修士を終えたら我が社に来てほしいという話です」
「あゝ。――薫さんはとても優秀だと聞きました」
「息子がいれば嫁にくれと申し入れたいところなんだが、生憎うちは娘ばかり三人」
「え、では衛くんを?」
「まさか! 衛のような色男がうちの娘なんぞをもらってくれるわけがない。紺野さんもそう思いますでしょう? 誰に似たのか、衛はえらいイケメンになった。確かに久瀬は高校時代から人気者でしたがね。高嶺の花を攫って行ったのですよ、手を伸ばす勇気を持ち得なかった我々の目の前から」
 古澤はおしゃべり好きと見えて、久瀬家とのあれこれを次々と話し継いだ。どうやら二人とも久瀬の姉弟が通う名門校の先輩であり、共に仙台で学んだ悪友であったらしい。久瀬は転勤族となったが古澤のほうは地元に戻り、父親が起こした日本でも有数の精密機器メーカーをさらに成長させた。転勤族とはいえ東北を地盤とする大手地銀に勤める久瀬とのあいだには、ずっと途切れることなく交流が続いてきたという話である。――少しばかり時間が空いたと言ったのに、これでは衛を見舞う暇がなくなってしまうのではないかと友香里が気を揉み始めたところで、古澤はふと表情を硬くし、いきなり核心を衝いてきた。
「臨床心理士として衛を訪ねているとはいえ、紺野さん、あなたも警察の人間だ、むろん野上の件はほぼほぼ耳に入っているのでしょう?」
「えゝ、まあ……」
「口裏を合わせている連中は私にもおよそ想像がつく。偽証の罪は軽くない。法廷で同じ証言ができるのかと脅かしてやればいい。もしや警察や検察にも鼻薬を効かせられている人間がいるのかな? さっさと送検されないのはそのせいか。いい加減埒が明かないようであれば私にも考えがある。第三工場の移転先を白紙に戻してもいい。上のほうまで見据える必要があるということなら、県境を越える案もあると嘯いてやっても構わない。野上など、たかが市議ではないですか。厄介な親父さんだって数年前に亡くなっている。私の不興を買っていると聞いて泡を食うのは野上のほうですよ。恐らく久瀬と私が旧友だなんてあの男は知らんでしょう。どうですか? 妙案ではありませんか?」
「古澤さん、私は心理員で、捜査に意見する立場にありません。確かに古澤さんのご発言の影響は大きいでしょう。ですが、私個人としては賛同しかねます」
「なぜです? あなたは衛の将来を憂慮されているのでしょう? あのような少年にこんなみっともない大人たちの姿を見せるべきではない。違いますか?」
 その通りだ。先ほど薫に対して、友香里もまったく同じことを口にした。フルサワ精器が創り出している雇用と納めている税金とが揺らぐという話になれば、その重大性は県のトップレベルで取り上げるべきとてつもない事案になる。仮に野上と通じている人間が要職に幾人かいるとしても、一市議の息子の愚かな過失などにいつまでもかかずらうべきではない。自分が口にした実効性もなく慰めに過ぎないセリフとは、この男の言葉の響き具合はまったく違う。
 しかし、私のような立場の人間がこんな話を聞いていいのだろうか?
「もしかして私は紺野さんを困らせているのかな?」
「私にできるのは衛くんの心のケアまでです。もちろんそこでもあの事故の始末がどうなるかは重要な問題ではありますけれど、私はそれ以上の立場にはないのです」
 しかし、私は実質的に古澤の意向を支持しているではないか?
「衛とはどの程度お話しを?」
「少なくとも週に二度は時間をつくっています」
「専門家のあなたの目に、衛は心配な様子に映りますか?」
「いゝえ。今は心配な状態にあるとは見えません」
「そうでしょうね。しかし紺野さん、衛は決して表には出しませんよ。むろんあなたもすでに承知していらっしゃるでしょうが、衛という少年は己自身に価値を置く行動をとらない人間です。欲がないという意味ではなく、どう言えばいいか、まるで自分の人生をおもしろく眺めているようなところがある。車椅子での生活というのもなかなか面白そうだ、そんなふうに考える男なんですよ。――しかし野上をこのまま許すわけにはいかない。そこは衛も同じだ。あいつのほうが私なんかより非情な策を練っている可能性だってある。まるで自主制作映画のシナリオでもこしらえる感覚でね」
 そこで、古澤の顔が険しくなった。
「紺野さん、衛への注意を怠らないよう、私からも切にお願いしたい。薫は優秀だが頭に血が上ると正しい判断ができなくなる。衛はそれをよく知っている。あの姉弟に考え事をさせてはいけません。所詮は高校生の考えることだ、浅はかな愚行に終わることでしょう。私の言わんとするところはご理解いただけますね?」
 友香里は気圧されるように頷いた。実績を伴う地位ある人間が放つ威圧を初めて正面から受け、縛りつけられ押さえつけられた体も脳も、思うように動かせなくなった。動けない…と息を呑み、相手が力を解いてくれるのを待つよりほかにない感覚を初めて知った。
「あゝ、もうこんな時間か」
 唐突に立ち上がった古澤は、腰の抜けてしまったように見上げる友香里に笑みを向けた。
「今日の衛の様子はどうでした?」
「いつもと変わりなく、穏やかでした」
「そう。それはよかった。――私はこのまま引き上げます。あなたとお話しできてよかった。衛のほうは週末にでも顔を出しますよ。…あ、いや、週末はベトナムだったか。…まあ、そのうち時間がとれるでしょう。寿命を削られているわけではありませんしね。…では、失礼」
 寿命を削られているわけではない? あゝ、そうした病気などで入院しているわけではないという意味か。目の前の時間を惜しむ必要はない、と。――確かにそうだ。久瀬衛は寿命を削られているわけではない。確かに、そうではあるけれど……。

     *

 紺野という警察官と話している最中にメッセージが届いたのは承知していた。どうせ車に乗るのだからと思いコートを羽織らずに建物を出たところで、十一月の冷たい風に思わず首をすくめた。それでもコートは腕に抱えたまま、胸の内ポケットからスマートフォンを取り出しメッセージを一読した古澤は、がらんと空いた駐輪場を突っ切って駐車場に向かいながら第三工場に電話をかけた。
 大した用件ではなかった。事後報告で構わない、それも月次報告の一行で済む程度のトラブルだった。この夏に移転の話が公になって以来、どうやら工場長は疑心暗鬼に陥っているらしい。毎月の稼働報告にも不必要な言い訳がましい文句が目立つ。第三工場の歩留まりが悪いのは決してマネージメントに問題があるからではない。そんなことは役員はみな承知している。だからこその移転計画であり、むしろ老朽化した製造装置でここまでの稼働を維持していることに我々は驚いているくらいだ。しかし五十も半ばを過ぎた工場長にしてみれば、移転はすなわち己のキャリアの終了を暗示するものと映るのだろう。
 実際、新工場の責任者には別の人間を決めてある。けれども現工場長の力添えがなければ立ち上げに混乱が生じることは火を見るより明らかだ。彼が現場にいるといないとでは空気がまったく違う。働く者の不安感が空気を変えてしまう。つまらないミスへの誤った対処が事態をさらに悪化させる。俺がいなければ半年経ったってまともに動きゃしないよ!――それくらいのセリフを吐いても構わない。それくらいのセリフを吐いてほしい。むろんそれをしないから、彼は大勢の若者に信頼され慕われる工場長であり続けてきたわけだが。
「なにかいい話が聞けたの?」
 間近にやってくるまで気づかなかった。
「待ってるならキーを渡したのに。寒かったろう?」
「気が変わったの。ねえ、紺野からなにか聞けた?」

と呼びなさい。送っていくよ」
 ロックを解除すると薫はするりと助手席に滑り込み、古澤がヒーターを入れるのを送風口に手をかざして催促した。ハイブリッドエンジンが音もなく動き出し、車が駐車場から県道に出るまで薫は冷え切った両手を擦り合わせながら、古澤が口を開くのを黙って待った。どうやら古澤は薫がずっとここに立って自分を待っていたものと受け取ったようだが、そんな間抜けなことをする少女ではない。古澤の声には張りがあり、ロビーにすっかり人気がなかったこともあって、柱の影からでも充分に聞き取れた。しかし紺野友香里の声までは聞き取れなかった。もちろん薫は立ち聞きしていたことを悟られぬよう、この先のやり取りを慎重に運ばなければならない。
「警察に臨床心理士がいるという話は聞いたことがあったけど、あんな若い女性だとは驚いたよ」
「相手が衛だからじゃない?」
「美少年だからか?」
「若いからよ。そうでないと話題に困るでしょ?」
「なるほど。確かにそうした配慮は必要だろうな」
「ねえ、紺野は――紺野さんは、おじさんになんて言った?」
「彼女は警察官だよ。進行中の事件に関する情報を口にするはずがない」
「じゃあなに? ただ鼻の下伸ばして世間話してきただけ?」
「確かになかなかの美人だった。いや、なかなかどころか、あれは滅多にお目にかかれない」
「あの人まで野上に買収されたら、おじさんも衛もあっさり篭絡されちゃうのか」
「衛はそんなことないだろう。あいつは綺麗な女の子には慣れっこだよ」
「つまりおじさんのほうはちょうど今あっさりと呆気なく陥落したところ、てわけね」
 わざとらしく音を立て、薫は大げさな身振りで背中をシートに投げ出した。古澤は苦笑しつつ薫の横顔を見て、すぐに視線を前方に戻した。風は冷たいけれどすっきりとよく晴れた一日だった。しかし陽射しの傾きはもう間もなくこの土地が寒気に包まれて、降雪と曇天とを繰り返し始めることを告げている。国道と交差する交差点の信号で車を止めた。
「彼女も野上のことはおもしろく思っていない。そうだね?」
「当たり前よ」
「それならもしかすると少しばかり動かせるかもしれないな」
「なにをしたの?」
「薫、おまえは東京に行く。そう約束したら話してやる」
「それは無理」
「野上が罰金刑なんかで済んでも構わないのか?」
「それはイヤ」
「だったら約束しろ」
 信号が青に変わった。薫はきつく唇を結んだまま前を走る車を睨みつけている。まるでその車がついさっき弟を撥ねて逃走中であるかのように。車内はすっかり暖まった。古澤はヒーターの出力をいくらか下げた。途端に静かさが痛いほどに二人を包み込み、薫が居心地の悪そうに座り直した。――と、さっと両手で顔を覆い、俯いた声が震えた。
「そしたら誰が衛の車椅子を押すの?」
「誰かが押すさ」
「誰かじゃイヤ。…知らない誰かじゃイヤ。…そんなの、イヤ」
「おまえが一生それをするわけにはいかないんだぞ」
「そんなことない。私がする」
「薫がずっと背中に張りついてるなんて、衛は想像もしたくないだろうな」
「降ろして!」
「走行中はドアは開かないようになっている」
「降ろして!」
「開かないと言ってるだろう?」
 薫がどれほど乱暴にドアハンドルを動かしても、走行中のそれはまったく反応しない。古澤がさらに運転席からロックを掛けたので、たとえこの先で信号に停まったとしても同じことだ。薫にそれが理解できないはずはなく、しかし薫はそれを理解できなくなってしまう。古澤は目についたロードサイドのファミリーレストランの駐車場にゆっくりと車を入れた。薫がいつ運転席の古澤に向かって掴みかかってこないとも限らない。姉弟がそろって入院するほどバカバカしいことはない。
「おまえが約束しなくたって、野上は必ず私が潰す」
「降ろして」
「つまらないことを言ってすまなかった」
「……降ろして」
「風邪をひくなよ」
 バックミラーに映る薫の後ろ姿は県道を右に折れて消えた。いま来た道を引き返すつもりらしい。いや、違う。激情に駆られ、溺れて右も左もわからなくなっている。いや、それも違う。左に折れたらこの車に追い越されることになり、追い越して行くこの車を見ることになるから、薫は敢えて右に折れた。きっと、それが正しい。絵に描いたように温厚だった我らがマドンナからどうしてこんな姉弟が生まれたのか。確かに美しく理知的ではあったけれど、穏やかで柔らかな印象しか記憶にない。そうであれば、彼女からこの姉弟が生まれたことの理由ははっきりしている。
 薫の思惑の裏をかいたりはせず、車を動かした古澤は県道を左に戻った。バックミラーにはすでに人影は映らない。薫はどこか路地に入ったのか、あるいは小柄な体を視認するには難しいところまで足早に遠ざかってしまったのか。この道はバス通りだが、夕方に何本のバスが、そもそもどこへ向かうバスが走っているのか、古澤は知らなかった。そうした事柄にはまだ車を持たない高校生のほうがよく通じている。夕食が終わる頃合いを見計らって久瀬の家に電話をかけよう。数年前に銀行をやめて郷里に戻り、自宅で税理士事務所を開いている久瀬の家では夕食の時間は毎日ほぼ決まっており、むろん古澤はその正確な時刻を承知していた。
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