§11 11月24日(火) 08時頃 奇蹟の瞬間

文字数 4,378文字

「今日は日が暮れるまで木之下さん?」
「そうよ」
「嬉しいなあ。木之下さんはいちばんやさしいしいちばん可愛いしおっぱいも二番目に大きい」
「二番目?」
 足元でシーツを取り換える手を止めた木之下が、キッと鋭い眼差しで衛を振り返った。
「病棟移る餞別に見せてくれたりする?」
「しない」
「僕はあれ以来ちょっと想像してみてるんだけど、きっと最高に素敵なおっぱいだと思うんだよね」
「勝手に想像しないでくれる?」
 さっとシーツを引き抜いた木之下は衛の体を動かしながら手際よく交換を終えた。むろん不自由をしているなりに衛も協力を惜しまなかった。左右に軽く体重を移動させたという程度のことだが。
「ケーキカットが終わるまでお預けというわけか」
「またヨーグルト残してるし」
「発酵食品とは消費期限切れの商品を現金に転換させる偉大なる発明品である」
「私が支度する朝食のテーブルには必ずヨーグルトかチーズが並んでると思うなあ」
「なんだ、早く言ってくれよ。明日から徐々に胃を慣らしていけば間に合いそう?」
「なにに?」
「僕らの初めての朝の食卓にさ」
 木之下は枕カバーを交換したり布団の汚れを粘着性のクリーナーで拭い取ったりする週初めの朝のルーチンを淡々と迷いなくこなしつつ、衛の相も変らぬ軽薄なおしゃべりに応じている。思わず息を呑むほどに綺麗な顔立ちの少年が口にするから許されるなんて言ったら、ちょっとぶっちゃけ過ぎだろうか。その美少年に、性格は大いに捻くれているとは言うものの、なぜだか木之下は気に入られてしまったものだから、機嫌よく話をしてくれるのだ。散らかったサイドテーブルの上には、どうせもう一度二年生をやるのだから教科書を開いてもしょうがないと、いつものようにSFやミステリーなんかの文庫本が雑然と積んである。本を読まない木之下には聞いたこともない海外の作家のタイトルばかりだ。
「あれ? 今日って火曜日?」
「そうよ。昨日は祝日。勤労感謝の日」
「僕が木之下さんに感謝する日だね。キスとハグ、どっちがいい?」
「どっちも要らないわよ」
「じゃあ――いつもどうもありがとう」
「……ん、うん、どういたしまして」
 真面目な顔で頭を下げられてしまい、木之下は慌てて少し照れ臭そうな顔をした。と、スマートフォンがメッセージの着信を報せた。衛がそれを確かめているあいだに、木之下は逃げるように病室を去った。メッセージは紺野友香里からで、今日の午後に面会に行くと告げている。じっと見つめるほどの文面ではないのだが、衛の目は木之下が病室を去るくらいの間、ディスプレイの上に留まっていた。待ってます、と返信して衛はこの週末の姉の訪問を思い起こした。古澤が野上雄一郎の父親に脅しをかけたという話である。直接にではなく間接に。遠いところから、遥かに上のほうから。
 衛は友香里が送ってきた殺風景なメッセージを眺めながら、彼女はきっとその「吉報」を届けに来るのだろうと考え、途端にガッカリした。野上雄一郎なんかどうでもいい。死刑になろうが無罪放免となろうがどっちだって構わない。この先あの男が何人の無辜な人間を病院送りにしようが知ったことではない。友香里はそれを理解してくれているはずではなかったか。理解してくれる人間と出会ったと感じていたのは一方的な幻想に過ぎなかったのか。それならどうして彼女は――
 現時点における紺野友香里は、わかりやすいゴールを定めた具体的なプロセスのひとつに過ぎない。定期的に更新される感覚器官の鮮明な記憶を衛はすぐに取り出すことができる。衛の右手が友香里の左胸を(このところ直接に)つかむ触覚的受容、友香里の右手が(あるいはこのところ口が)衛の陽物を撫でる(あるいはこのところ咥える)際の同じく触覚的受容、友香里の髪や化粧が微かに漂わせる嗅覚的受容、友香里の吐く声とも溜め息ともつかぬ呼気が微かに震わせる聴覚的受容、友香里の美しい横顔で頬が触覚的受容に呼応して動く視覚的受容、同時にその頬が微かに染まる同じく視覚的受容、それら外受容感覚が総出で招く内受容感覚の昂揚と爆発と弛緩、そして外とも内ともつかぬ相互交換的な味覚的受容――
 これらは極めて具体的なプロセスであり、衛の一方的な幻想に過ぎないわけでもなく、衛の脳内でのみ起こる主観的経験に過ぎないわけでもない。このプロセスは二人のあいだで繰り返し交換される象徴的行為である。ただし、これらの感覚受容の総合は、今のところ明確な意味を衛に約束してくれないのだ。機序はまさしくこの通り疑いようがないとはいえ、意味はどうすればつかむことができるのか。そもそも

なんてことができるものなのか。この右手が受容する友香里の左胸のように「意味」は

ことができるものなのか。もしこの手に

のだとすれば紺野友香里とはいったい――
「久瀬さん、失礼します」
 思わぬ声に、右手のひらを見つめていた衛は夢から覚めたばかりの人間がするような不確かな顔つきで、ふと首を傾げた。師長のお出ましとはいったい何事だろう。大柄な体躯の後ろに隠れて小柄な木之下の姿が見えた。衛はほっとしていつもの穏やかな笑みをつくると、その昔は少なからぬ男性患者たちの妄想を刺激したであろう牟田看護師長の予期せぬ来訪を歓迎する姿勢を示した。
「久瀬さん、金曜日の午前中に病棟を移りますからね」
「はい」
 それはすでに聞いている。午前中に終えるのか。
「次は回復期リハビリテーション病棟になりますので――」
「回復期?」
 予想もしなかった言葉につい声を上げ、目を見張ってしまった。不意を衝かれた牟田看護師長が言葉を切り、その隙間を狙って衛がまっすぐに疑問符を投げ込んだ。
「回復するんですか?」
「え…?」
「僕は回復するんですか?」
「ええ、もちろん。ただ、久瀬さんの損傷がどこまでの――」
「歩けるようになるって?」
「……それは、まだわかりません」
「なんだ。ビックリした」
 引き続き驚いているのはむしろ牟田看護師長のほうであることを見て取って、衛は説明途中で言葉を遮ってしまったことを、安堵を含む苦笑いとともに詫びた。
「すみません。どうぞ先を続けてください。ちゃんと黙って聴きますので」
 まったく驚かせないでほしいものだ。外受容も内受容も、感覚と呼べるものなんて吝嗇な老婆の出す出がらしのお茶の香りほどにしかないこの両脚が、いわゆる理学療法なり作業療法なりで機能回復するなんて御伽噺を聞かせられるのかと思った。要するに切ったり繋げたりのフェーズが終わったというだけの話であり、外科的な医療行為に於いては人事を尽くしたという話であり、ここから先はお馴染みの神様の領分に移るというだけの話だった。
 淡々とした語り口の牟田の声を聴き流しながら――もちろんここは淡々としてあるべき場面だろう――、仮に奇蹟が実現される感動的場面が訪れるとした場合、そのとき自分の傍らに立っているのは誰なのかと衛は想像した。残念ながら木之下と佐々木の両看護師とはこれでお別れというわけである。この春の受験をスキップする姉はおもしろくないことに候補に残るだろう。母は除いて考えたほうがいい。あの人には期待を持たせるような話をしてはいけない。同級生には取り立てて画になる美少女なんていなかった。いや、留年するのだから今の一年生から改めて見つけることになるのか。いや、そんなものを見つける必要があるだろうか。――そうだ。紺野友香里の訪問頻度はどうなる? やはり減ってしまうのか? 週に二回は来てほしいと懇願したら? そういえば午後に来るとのメッセージを受け取ったところだった。紺野友香里こそ久瀬衛の奇蹟の瞬間に立ち会うべきではないのか? いや、どうせそんなものはやってこないのだから、ただ、これから先ずっと僕の車椅子を押してくれると約束してくれたら、それ以上、僕には望むことなどなにもないはずだ――
 牟田看護師長が去ると、木之下があとに残った。扉が閉まり足音が充分に遠ざかるのを待ってから、木之下はベッドを回り込んで窓辺の椅子を引き、衛の顔のすぐそばに腰掛けた。
「聴いてなかったでしょ?」
「おかしなことを口にするからさ」
「おかしなこと?」
「だって、言うに事欠いて『回復期』だとか、どうかしてる」
「そういう名前なんだからしょうがないでしょ」
「うん、そういう名前なんだなってことはすぐに理解したよ。まったく、驚かせてくれるよね」
「衛くん――」
 そこで唐突に木之下がいつになく真剣な顔つきをしたもので、衛は目を瞬いて待ち受けた。
「でも、嘘じゃないから。嘘はついてないから」
 いったいなにを言い出すのか、面食らって硬直してしまった衛の手を――布団の上にあった衛の右手を――今日は木之下が、いつも友香里がするのと同じように両手に拾い、衛の病室に出入りする女性看護師の中で、見たところ二番目に大きいと思われる胸のあいだに抱き寄せた。
「ほんとうだよ。嘘じゃないからね」
「きっとそう口にする約束なんだろうね」
「違う!」
「じゃあ僕の手をその二番目に大きなおっぱいに押しつけてくれているのは木之下さん独自のアドリブ的味付け?」
「衛くん――」
「そうであったら嬉しいって意味だよ。だって木之下さんはその『回復期リハビリテーション病棟』とかいうところにはいないんだろう? いつか僕の上に訪れる奇蹟の瞬間に立ち会うことは叶わないんだろう? だからいま僕の手をおっぱいに押しつけてくれてるんだよね? 今朝僕が木之下さんのおっぱいは二番目に大きいとか言ったものだから、ほんとうに二番目なのか確かめ得る機会を最後に僕に提供してくれてるんだよね? そうであったら僕はほんとうに嬉しいな。入院先がこの病院で、木之下さんがここにいてくれたことを、僕は心から神様に感謝したいと思うよ」
 木之下はどうして泣いているのだろうと考えながら、しかしそんなことを考えていたもので、なんだかおかしなことばかりが口をついて出てきた。今ここまでのやり取りを思い返してみると、木之下が泣き出す理由は恐らく二つに絞り込まれるだろうと思った。ひとつは、いつか僕の上に訪れる奇蹟の瞬間に立ち会うことができない非運を痛嘆して。もうひとつは、僕の手をおっぱいに押しつけてみたところ嬉しいと言われた幸福に歓喜して。しかし、どちらも嘘くさいように思われた。木之下はいま「嘘じゃない」と三度も口にしたばかりなのに、そんな嘘くさい理由で泣くとはちょっと考えにくかった。それではどうして泣いているのか、それ以外に木之下が泣くどんな理由が今ここにあるのか、衛にはすぐには思いつかなかった。神様というのは往々にしてそうした大事なところを省略してしまいがちであることを、衛もそろそろ知っておかなければならないだろう。
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