§04 11月11日(水) 19時頃 久瀬税理士事務所

文字数 3,310文字

 夕食の最中に古澤から電話があった。自宅の固定電話を母が取り上げ父に手渡した。父は一度ちらりと私のほうを見たので古澤の意図は読めた。あんなところで私を放り出してしまったから心配して、後悔して、それを私に伝えるために敢えて夕食の時間を選んだのだ。
 税理士である父の個人事務所も兼ねた我が家では、特別な事情でもない限り夕食の時間が三十分以上も動くことがない。古澤は承知して計って固定電話のほうを選んでいる。仕方がない。今日のところは許してあげよう。バスが行ったばかりで寒風の中に立ち尽くす羽目に陥ってしまったなんてことは、いつかここぞという場面で持ち出す切り札として大切に取っておくことにしよう。
「なんだか要領がつかめなかったけど、古澤に心配されるようなことがあったのか?」
「十八歳の女の子を泣かせて愉しむような悪趣味の持ち主だったなんて、お父さん知ってた?」
「あいつの人生は概ね女の子から泣かされてばかりだったはずだけどなあ。いまだって娘三人にいいように弄ばれてるだろう?」
「娘には太刀打ちできないから私をいじめて憂さ晴らしするわけね」
「衛のことか?」
「紺野さんよ。おじさんまで鼻の下伸ばしちゃって。失礼だよね」
「古澤が鼻の下伸ばすのは致し方ないことだが、衛までそうだとはちょっと信じ難い」
「衛のほうはおっぱいなんじゃないかな。日常的にすっごく小さなやつしか見てないからね。母性の象徴でありながら我が家の血筋からは絶えて久しい属性でしょ?」
「同意を求めるなよ」
「紺野さんてスタイルもすっごくいいんだよ。胸もお尻も大き過ぎないギリギリのラインにピタッと収まってる感じ。巨乳とか言われちゃう手前のスレスレのところ」
「衛も古澤もそろって紺野さんに惹かれてるのが、要するに薫には癪に障るわけだな」
「ねえ、フルサワの第三工場って、お父さん聞いてる?」
「どこかに建て直すって話くらいは聞いてる」
「政治家にとっては大変なこと?」
 ゆっくりと父親が目を剥いたので、薫はすでにこれが父と古澤とのあいだで話されている事実を知った。むろんそうだろう。薫が父より先に知ることなどあり得ない。
「お父さんはやめさせようとしているのね?」
「それが衛の回復に役立つとは思えない以上、古澤は余計な真似をするべきじゃない。誰にとっても得はないし、むしろ古澤が損をしないとも限らない」
「こういうときって当事者のほうが冷静なものよね」
「おまえに話したってことは、そんなことはしないって決めたんだよ」
「古澤のおじさんはそんなに物分かりのいい人じゃないと思うな。そこはお父さんとは違うのよ。そうでなければあんな大企業の社長なんて務まらないでしょ?」
「高校生が知ったようなことを言うね」
「でも、私も同じ。野上なんてどうでもいいと思う。絶対に死刑なんか求刑されないんだし、タリオより軽いに決まってるんだから」
「薫、そんな話はやめて」
「……ごめんなさい」
 うっかり調子に乗ってしまった。母親の前では控えていたはずなのに、古澤の間の悪い電話のせいで、父もしくじったなという顔をしている。
 三人で黙々と食事を終え、薫は食器をシンクに運ぶと二階の自室に上がった。母のことは父に任せておくに限る。決して神経質なほうではなくむしろぼんやりして見えるくらいの穏やかな性格であったのが、さすがに衛の事故は母を不安定にした。恐らく歩けるようにはならない、難しいと言わざるを得ない――医者からそんなことを言われてしまったのだから当然だ。溺愛していたはずの衛の見舞いに、だから母はほとんど足を運んでいない。衛のベッドサイドに座ることなど、そもそも病室の扉を開けることからして、母にとってそれがどれほどの苦痛をもたらすものか、容易に想像できる。
 夜更けて父が訪ねてきた。母は今夜は薬が効いてスムーズに寝つくことができたのだろう。パジャマの上に家内専用のセーターといういつものだらしのない格好でやってきた。薫も似たり寄ったりの厚手のカーディガンを羽織ってベッドにもぐりこみ本を読んでいるところだった。父がカーペットの上に胡坐をかいて座り込んだので、薫は本を閉じ上体を起こした。
「衛はどんな様子だった?」
「いつもと一緒。誰が事故に遭ったのかまだ理解できてないみたいね」
「古澤は紺野さんにしゃべったのかな?」
「うん、私にもそんな感じに匂わせてたよ」
「おまえさっき、古澤は物分かりのいい人間ではないと言ったな。確かにそうなんだよ。あいつは道理や損得勘定では動かない。そういうのは役員の仕事であって社長は違うのだと公然と口にしてその通りに振る舞ってきた。――話を聞いて、紺野さんはどうすると思う?」
「上司に話すんじゃない? あの人真面目そうだし。でもそれ以上のことはしないと思う。紺野さんもやっぱり野上なんてどうでもいいのよ。衛が将来とか世界とかそんなものを悲観せずに生きて行ければいいわけ。まあ、それが簡単じゃないって話なんだけど」
「そうかな? う~む、そうかねえ……」
「え、どっちが?」
「どっち? あゝ、衛がだよ。あいつが人生に悲観するとか、そもそもなにかに期待しているように見えるか?」
「お父さんもそんなこと考えるんだ。なんか、意外」
 父がセーターの内側に手を突っ込んでごそごそやってからgloを取り出し承諾を求めるべく首を傾けたので、薫は不承不承であることを示すべく大袈裟に肩をすくめて見せた。加熱式たばこに替えてからはこれまで一度も却下していないのだが、こうして必ず確かめるところがいかにも父らしい。
「ケアが必要なのは母さんのほうだよ。衛には必要ない」
「私にも必要だと思う」
「今日も衛と話をしてきたんだろう? 結論は出たのか?」
「哲学か法律を勉強すればいい、て言われた」
「どうして?」
「神様が創った世界と人間が作った社会が如何に不条理であるかを学ぶため」
「へえ、あいつも粋なことを思いつく」
「今から文系に切り替えるなんて無理」
「来年でいいじゃないか。どうせ今年はどこも受かりゃしないよ」
「東京なんて行きたくない」
「それで古澤に窘められて泣いた、て話か」
「衛の車椅子を押すのは私」
「そんな人間は衛には必要ないんだよ」
 言われなくてもわかっている。衛は誰かに車椅子を押してもらう必要などない。彼は自分の足で歩くことができる。もちろん象徴的な意味合いで。要するに衛の世界はさほど景色を変えてはいないのだ。せいぜい新学年になってクラス替えが行われる程度にしか。
「浪人してもいいの?」
「だから、今年はどこも受からないって」
「法学部でもいいの?」
「そこは古澤と話してくれよ」
「おじさんは学部なんてどこでもいいって言ってる。なにを勉強するのでもいいから、とにかく東京に行って来いって。仙台も札幌も認めない。東京以外はダメだって」
「あいつは薫のことが大好きなんだなあ」
 それも、よく知っている。なにしろ私のおむつを替えてくれた人の一人だ。古澤は否定するけれど、母からそう聞いている。古澤が否定するのは相手が女の子だからであり、しかし薫が生まれたときにはもう嫌になるほどそれを経験していたはずなのだ。古澤は娘三人の父親である。三人のうち二人はお姉さんで、一人は薫と同い年。つまり衛はいちばん年下になる。
「どうしてお父さんと話すとこうなっちゃうんだろう……」
「薫をいちばん愛してるからじゃないかねえ」
「そんなの初めて聞いたよ」
「それなら忘れずに覚えておいてもらいたいな」
「……うん」
 父が部屋を出ると薫はすぐに灯りを消した。カーディガンを脱いで床に放り投げ布団の中に首元まで深くもぐり込んだ。耳を澄ませても父と母の話し声は聴こえない。どうやら今夜の母は本当にうまく寝つくことができたようだ。きっとこれからどんどんそんな夜が増えて行く。衛がこの家に帰ってくるまでに母はいつでも上手に眠れるようにならなければいけない。私もそう。――薫は目を閉じて深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
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