§12 11月24日(火) 11時頃 知らぬ存ぜぬ

文字数 3,638文字

――爆弾が落とされた。知らぬ存ぜぬで通せ。
 昨日、正木からそんなメッセージを受け取っていたために、連休明けの友香里はいくらか緊張感を胸に抱えて出勤した。けれども十時を過ぎても十一時を過ぎてもなにひとつ連絡がなく、すでに出勤時にメッセージを送ってしまったとはいうものの、このまま本当に午後に衛を訪ねるべきか少しばかり迷い始めた頃になって、ようやく正木が顔を見せた。感情を隠せないタイプの正木だけに、ちょっとおかしな具合に笑みがこぼれている。ここでいい、と言って友香里のデスクの後ろから空いている椅子を引いて、すぐ隣りに腰かけた。ことさら声を潜める様子もない。
「証言がぜんぶ書き換えられたよ」
「ほんとうですか?」
「どしゃ降りで視界も悪かったから断言しきれない、だと。みんな同じことを言ってきやがって。腕利きと評判の弁護士様も逃げ出したよ。十三時には雄一郎が丸腰でやってくる。野上は白旗を上げたというわけさね」
「久瀬衛に話しても?」
「あゝ、伝えてやってくれ。紺野が行くのがいい」
「もう午後に約束しちゃいました」
「いやあ、それにしても古澤というのは恐ろしい男だね。今日にも新工場建設先の最終判断というタイミングだったらしいぞ。それで日曜に誰と会ってたと思う?」
「誰でしょう?」
「知事だとさ。火曜の十時までに連絡を寄越せと言ったそうだ。知事殿もたまげたろうね。あっという間に川野さんが取っ捕まって、昨日一日で調書をぜんぶ書き直しさ。そもそも勤労感謝の日ってのはだれのなにを祝うんだ? くそ寒い雨の中をよ」
「そうだったんですね。お疲れさまでした」
「あゝ、いいんだ。気分がいいから問題ない。珍しく川野さんが俺に頭を下げたしな。昨夜の酒はことのほか美味かったよ。――そういや紺野、あれ以来、古澤とは?」
「いえ、一度も」
「よほどのことがない限り関わらないほうがいいぞ。つつましく生きてくしかない人間にとっては迷惑千万な存在だ。常識が通用しないやつを信用しちゃいけない。川野さんもあと一歩を踏み込みきれなかった。まあ、古澤の頭の中を見極めるなんて俺たち凡人には無理な相談だよ」
 正木が上機嫌に立ち去ったあと、警務課の豊田が歩み寄ってきた。四つ先輩でなにかと声をかけてくれる。が、くれるというには少し語弊がある。先輩なので卒なく接してはいるけれど、できる限り二人きりになってしまう状況を回避すべく努めてきた。好意というのは対処が難しい。
「なにかいいことがあったみたいだね」
「正木さんは正直な方ですから」
「正木・紺野ということは、久瀬衛の件かな?」
「野上雄一郎の件と言ったほうが適切かと思います」
「なにか違うの?」
「違いますね」
「ふ~ん、そうなんだ。――あ、紺野さん忘年会に顔出すよね?」
「一応、一次会だけは」
「話を聴かせてほしいなあ。あの事故ちょっと興味あるんだよね」
「はあ。でも私、ほとんど知りませんよ」
「いい、いい。少しでいいんだ。ほんとに。…じゃ、そういうことで」
 なにが「そういうこと」なのか。要するに隣に座る理由付けをしたのだろう。実際のところ豊田は野上に腹を立てているわけでもなく、久瀬衛を案じているわけでもない。興味があると言ったわよね? それなら正木さんをご用意して差し上げましょう。豊田は興味のある事故の話が聞けて、私は酒癖の悪い正木さんと鬱陶しい豊田を退けられる。正木さんにもなにかメリットがあれば「三方良し」となるのだけれど――うゝん、あの人はお酒が飲めれば幸せなのだからこれでいい。
 事故からそろそろ二ヶ月が経ち、いよいよ衛も病棟を移る。そして今日はこちらに大きな土産話がある。果たして衛は悦ぶだろうか。晴れやかに笑ってくれるだろうか。野上の重い処分はいくらかでも彼の幸せのために貢献するだろうか。少なくともないよりはあったほうがいいのは間違いないけれど、彼がそんなことで留飲を下げるとは思えない。それは絶対にないと言い切れる。少しばかり皮肉めいた言葉でも口にして、きっとそれでおしまいね……。
 考えてみれば、衛の精神状態が誰の目にも不安定には映らない以上、回復期リハビリテーション病棟に移ったあとは、職務での訪問が週に一回を超えるのは不自然に見えるだろう。いや、毎週の訪問が続くことからして無用と判断され兼ねない。病棟を移ると聞いたとき、病院にとっては当たり前のステップであり友香里もそれは承知していたはずであるのにもかかわらず、プロセスが進んでいることを唐突に突きつけられたように感じた。
 そして今、職務での訪問という大義が消えてなくなる可能性に、友香里は初めて気がついた。いつもそうだ。いつもギリギリになって気づくのだ。あのとき決めたはずじゃなかったの? 衛の笑顔をずっと見ていられるようにするにはどうすればいいか、ちゃんと考えるって決めたはずじゃなかったの? この一週間、いったい私はなにをしていたのか? あと三時間ほどで、いったいなにを決められるというのか? あと三時間、もうそれしかない……。
「紺野さん、食事は?」
 さっきので引き下がったわけではなかったのか。
「出かけなければいけませんので」
「僕もだよ。同じ方向なら送っていくけど」
「私も今日は車を使います」
「あ、そうなんだ」
 さらに言葉を探そうとしながら突っ立っていたものの、豊田にはそもそも湧き出すような泉がない。思わせぶりな、空疎で薄っぺらな笑みを残して立ち去ったあと、豊田には珍しくこうしてふたたび声をかけてきた要因を探ろうとして、友香里はなんとはなしに周囲に顔をめぐらせた。が、理由は友香里自身にあった。この日は間違いなく衛を訪ねることになると考えて、それもいいニュースを手土産に訪ねることができるものだから、制服に着替えていないばかりか普段にはない明るい色のセーターを選んでいた。いくらか入念に化粧を施した記憶もある。いつだったか衛にそう言われたからだ――綺麗にしているほうがやっぱり素敵だ、と。
 友香里はふと恥ずかしくなって席を離れた。トイレの鏡に映る姿はそれでも決して派手に浮ついているふうには見えなかった。けれども自分では正しく評価するのが難しいのかもしれない。人間の心には己のしたことを正当化しようとするバイアスが無意識のうちに働くものだと学んだ。いつにない豊田のしつこさのほうを証拠として採用すべきなのだろう。そうは思っても友香里は化粧を落とすようなことはせず自席に戻った。化粧を重ねるにしろ落とすにしろ、豊田の思惑に応じてはしたくない。
 急ぎのデスクワークを片付けているあいだに正木から詳細を整理したメモが送られてきた。あの日、野上雄一郎は信号が変わるギリギリで交差点に進入してきたのではなく、すなわち久瀬衛はすでに変わった信号を無視して強引に横断を始めたわけではなく、対向車線の車が途切れるわずかな間隙を衝いて強引に右折を試みた野上が、のんびり傘をさして歩いていた衛をブレーキを踏むことなく撥ねたのである。ブレーキを踏んだ野上と走ってきた衛が立ち止まり、一瞬、双方が睨み合い譲り合う形から、双方が同時に進行してぶつかったなんて証言は作り物に過ぎなかった。周辺の防犯カメラの映像がどしゃ降りの雨のせいで乱れていたのは確かだったけれど、対向車線を走る車のドライブレコーダーまで故障していた事実はなかった。野上雄一郎の父親が己の保身の方向を切り直したことで、隠匿されてきた物的証拠までがぽろぽろと顔を出してきた。
 川野が承知して主導したのではない、川野の前で情報が歪められていたのだと正木は書いていた。が、友香里は警部の川野という人間をよく知らなかったのでなんとも評価のしようがない。しかしそもそも警部という立場にある人間の手前で情報が歪められるなんてことが起こり得るだろうか。仮に誰か一人がそんなことをしてみたところで早晩明るみに出てしまう。間違いなく川野は明確な意図を持って情報を取捨選択したと考えていい。友香里と古澤との対面をなかったことにしたのと同じように。起きてしまった物語は如何様にでも書き換えが可能なのだ。――そう言えば、これはいつか衛が口にした言葉だった。
 交替で昼食に席を立つ周囲の気配の中で豊田の絡みつく視線を感じ取りはしたけれど、友香里は顔を上げずにパソコンに向かい続けた。面会時間が始まる十五時ちょうどに県立病院に着くために、十四時過ぎまでは目の前の書類仕事に集中する。そう心に決めて取り組んだとしても、正木までもが組織を擁護する姿勢を示した事実を頭の中から追い出すのは難しかった。「知らぬ存ぜぬで通せ」とは恐らくそのような二重の意味を含んでいる。病院のロビーで古澤と話をした事実、正木に伝えたその情報を川野が無視した事実、いずれも友香里は忘れなければならない。
 いや、そんなことよりも、あと三時間……。あ、もう二時間半……。どうしよう……。あゝ、どうしよう……。
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