§03 11月11日(水) 17時頃 正木警部補

文字数 3,655文字

「悪い。待たせたな。川野さんのいつもの

が今日は思いのほか面倒でよ」
 向かいに座った正木はコーヒーを注文するとすぐにタバコに火をつけた。友香里が眉を顰めると、慌てて天井に仰向いて煙を吹き上げた。こうした事故の被害者を訪ねる際にはいつも声をかけてくれるのだが、見込まれているというのではなく、単に一人で行くのは気が進まないという心理的な抵抗のせいであることを、友香里は承知していた。実際、正木はたった一度きりしか久瀬衛とは対面していない。
「出てくるときにちらっと見たんだけど、おまえ今日は休みだったろう?」
「そうなんですけど、今週はまだ一度も久瀬衛を訪ねていなかったもので。明日も研修があって遅くなってしまいそうですし」
「あいつ、どんな様子だった?」
「相変わらずです。穏やかに落ち着いてます。ちょっと不思議なくらい」
「医者とは?」
「今日は話してません。特段これと言って進展もないようです」
「ふむ。それでなぜ俺をこんなところに呼び出したわけ?」
 

とは、署から離れており同僚が立ち寄る可能性の極めて低いカフェのことだ。
「本来――、本来これは私の立場で正木さんにお話しすべきことではないと思いまして。ですからあくまでもお休みしている警察官のおしゃべりだと思っていただきたく」
「いいよ。それで?」
「病院でフルサワ精器の社長に声を掛けられました」
「フルサワ? て、あのフルサワ?」
「久瀬衛の父親とは高校からの付き合いだそうです。それも家族ぐるみでの」
「いや、ちょっと待て。おまえが俺を呼びつけたおよその見当がついた。しかしそいつは――」
 コーヒーが届き、正木は口をつぐんだ。店員が去ると、たっぷりの砂糖とミルクを投げ込んで執拗にスプーンで掻き回してから、ぐいッと半分ばかりを飲み干した。難しい顔というよりも、露骨にもう不快感丸出しの表情である。
「野上と古澤じゃ相手にならんよ。野上の親父さんが生きてたって無理だ。要するにそういう話をされたんだな?」
「フルサワ精器では工場の移転が計画されているそうです。その移転先を、事と次第によっては県外に構えることも辞さないとおっしゃいました」
「おまえ、なんて答えた?」
「私はそのような立場にはない、と」
「そのような立場で俺に話してるじゃないか」
「ほかにどなたにお話しすべきかわかりませんし。正木さんならこんなふうに聞いてくださいますし。一人で抱えているのもちょっと怖くて」
「要するに県警のお偉いさんからとっとと片付けろと怒鳴りつけられるわけだな、俺たちは」
「古澤さんが本当にそのようなことをなさればそうなるかもしれません」
「かもしれないじゃないよ。絶対そうなるに決まってる。罰金払えば済むなんて甘い考えは吹き飛ぶさ。…野上は知らなかったんだな、要するに。まさかそんな大物が介入してくるなんて。…いやでも紺野、これはマズい。おまえよく話してくれたな。危ないところだったよ。いきなりそんな爆弾落とされたら大パニックだぜ」
 やはり「爆弾」なのか。正木がなにやらスマートフォンをいじり始めたので、友香里は窓の外、夕暮れの車の列に目をやった。仕事が終わった帰宅時間の混雑を冷たい街灯が照らしている。古澤の件はもう忘れていいのだろうと友香里は思った。正木は「爆弾」が投下される前に――爆撃機が準備を始める前に――野上にそれとなく損得勘定を迫ればいい。事故を起こした息子は馬鹿だが、市議の立場にある父親のほうは――先代ほどの実力はないにしても――少なくとも馬鹿ではない。久瀬衛の父親がフルサワ精器と太く濃く繋がっていると知れば、迷わず方針を転換するだろう。いい加減な証言をしてきた人間たちは俄かに記憶の曖昧さを口にし始めるだろう。要するに古澤は実際のところなにもする必要がない。そのために私に声をかけた。あるいは、いやきっと間違いなく、古澤はあのとき私が衛を訪ねてきていることを承知していた。姉の薫が連絡したのかもしれない。そして私は古澤の目論見通りこうして正木を呼び出した。泡を食ったようにスマートフォンをいじり始めた正木は今は店の表に立ち、苦り切った顔で誰かと(恐らく上長の川野と)話している。
 古澤はこれでいいのだろう。薫がなにを考えているのかはわからない。けれども私は違う。私と衛は違う。私と衛にとってそんなことは些末な問題だ。野上がどれほど重い量刑に処されようが、すっかり様相を変えてしまった衛の世界が元通りに復するものではない。医者が「難しい」と口にした以上は、もう諦めるしかないのだ。諦めて、慎重に、落ち着いて、新しい世界を受け入れる。衛はそれをおもしろそうに眺めるだろうと古澤は言ったが、おもしろい景色のはずがない。いや、でも、さっき衛は――「野上はなにをしてたんだろう? 隣りに乗っていた女の顔でも見てたのかな? やっぱり胸やお尻なんか触ってたのかもしれないね。どっちなんだろう? 友香里さん、知ってる?」――そんなことは知らない。衛はなにを考えているのか。姉に哲学や法律を学ばせて、この世界の根源やこの社会の正義を考えさせて、考える方法を身につけさせて、そうして衛はなにを手に入れたいのだろう……。
「方針に変更なし、だと」
 ドカンッと大きな音を立て、正木がふてくされたふうな顔で向かいに腰を下ろした。友香里はとっさに意味がつかめずキョトンとした表情でそれを受け止めたあと、すぐに理解した。そんなふてくされたふうな顔をしているのも、いかにも正木らしい。
「工場の移転にはデカい助成金やら税制優遇やらがくっつく。フルサワはどこが最もいい条件を出してくるのかギリギリまでのんびり眺めていればいい。株主の三割は外資だ。でもって行政には言うまでもなく議決権なんてない。野上の処分がどうなろうがフルサワの選択には影響しない。――ということだそうだ。俺にはさっぱりわからんけど」
「はあ、そういうものですか」
「おいおい、それでいいのかよ?」
「いいも悪いも、私にはわかりません」
「野上が憎たらしくないのか? 久瀬衛の力になってやりたいって話じゃないのか?」
「野上が死刑になったってあの子には関係ありませんよ」
 今度は正木のほうが言葉を失って、目をぱちくりする順番だった。
「おまえまで変なことを言わないでくれよ。それとも俺の頭のほうがおかしいのか?」
「正木さんはたぶん今この中でいちばん正常な人だと思います」
「いちばん異常なのは?」
「久瀬衛は私にこう言ったんですよ。――野上は僕を撥ねたとき、隣りに座る女の胸を触ってたのかお尻を触ってたのか、どっちか知ってますか?」
「それなら尻だろうな」
「どうして?」
「だっておまえ、胸は表から見えるぞ」
「なるほど。で、どっちなんでしょう?」
「そんなこと知るかよ! ああ、もお、むしゃくしゃするなあ。紺野、飲み行かない?」
「お断りします。私そもそも飲めませんし。正木さん酒癖悪いですし。――たまには早く帰ってお子さんとお風呂に入ったらいいんじゃないでしょうか?」
「うむ、その通りだ。そうしよう。――ここ、領収書切っていいぞ」
 ほんとうに帰宅するつもりだろうか? 店を出た正木の姿を窓越しに見送った友香里は、正木は振り返りもしなかったが、相好を崩して小さな息子の誕生日祝いに撮ったスマートフォンの動画を見せてくれた様子を、なんとはなしに思い浮かべた。ちらりと映り込んだ奥さんの実にのんびりとした気配が印象に残っている。
 正木に対してはとぼけて見せたけれど、古澤が野上を放置するとは友香里も思っていない。公人としての損得勘定を捨て私人としての納得・満足を求めようとする機会が、誰にだってある。そもそも創業者の息子できっと大株主の一人でもある古澤に、会社を困難な状況へと追い込むわけでもない事柄に躊躇う理由があるのか。野上の処分がどうなろうが確かにフルサワ精器の選択には影響しないだろうけれど、古澤個人の選択には大いに影響するのではないか。五十前後のすでに功成り名遂げた男がそのような振る舞いに及んでもなんら不思議ではない。
 けれども、野上の処分などやはり友香里にはどうでもよかった。私と衛は違う。私と衛にとってそんなことは些末な問題だ。――いや、さっきもこれは考えた。私と衛もまた違うのではないか、と。明日も衛を訪ねてみようかと考えて、友香里はそれを振り払った。ふと、衛には迷惑なことかもしれないと思った。然るべき手続きを省略しているとか、あるいは現状を「一方的な閉塞状態」と表現してみたり、それに、この先もずっと衛の車椅子を押すと宣言すればいいだとか。――そんなことを言われても困ってしまう。もちろん嬉しいのだけれど、その場で抱き着きたいほどに嬉しかったのだけれど、本当にそれに応えてしまっていいものなのか、友香里にはまだわからなかった。
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