§08 11月16日(月) 16時頃 汚辱でも清浄でもない

文字数 6,898文字

 珍しく川野警部に声をかけられた。さらりと、しかしなにごとか探るような目つきで、久瀬衛の容体を尋ねられた。いや、容体ではない。彼が負った損傷の状態に関してではなく、事故についてどんなことを口にしているかという、実に嫌な質問だった。なにも口にしていないと友香里は答えた。事故に関しては一言も口にしない、と。まさか野上雄一郎が女の胸と尻とどちらを触っていたのか尋ねられたなんて、正木警部補には遠慮なく言えたけれど、川野警部にそんなことを口にすれば、ふざけるな!と自分が怒鳴りつけられるだけだろう。川野のことは友香里も正直よく知らないのだが、そうしたタイプの人間だという話は正木から聞いている。しかし川野はさほど粘りもせず友香里を開放した。方針に変更はないと言ってはみたものの、川野は間違いなく古澤を警戒している。そもそも川野には、「心理員」などといった直接に捜査と関係しない人間を、まともに相手にする考えがない。それだって川野が特別そうなのではなく、友香里はこれまでも同様の態度に幾度となく接してきた。折りにつけ声をかけてくる正木こそ例外だと言っていい。
 三時過ぎに着替えて警察署を出た。県立病院へは歩いて行ける距離になく、バスか車を使わなければならない。少年課はすでに出かけたあとで、気軽に声をかけられる人間の顔も見当たらず、ついでに乗せて行ってもらえる可能性はないと諦めて、友香里は駅前のロータリーに向かった。空は曇ってはいるが雨の降り出す気配はない。駅前には衛と同じくらいの高校生の姿が多く見えたけれど、県立病院に向かうバスはいつものように年寄りの姿ばかりが目立つ。座席はまだ空いていたが友香里はドアの近くに立った。あとから年寄りが乗ってきて席を譲るのも煩わしい。
 駅前ロータリーを始発にするバスは、友香里が乗り込んでから十分近くも待って発車した。あとから次々と乗り込んできて、すし詰めとまではならなかったものの、立ったのは正解だった。曇っているうえに間もなく日没となる時間帯であり、窓ガラスに自分の姿が映り込むほどすでに薄暗い。このコートでは帰りはもしかすると寒く感じるかもしれなかった。今日も襟首の開いたセーターを着けている。そろそろマフラーを持って出たほうがよさそうだ。しかし乗客が多いこともあって車内はむしろ暑いくらいだった。友香里は手すりをつかんでいない空いているほうの手でブラウスのボタンに触れた。今ここで外せばバス停から病棟まで首をすくめて歩くことになる。しかし病棟に入ってからではボタンを外すタイミングがうまくつかめないだろう。
 ふと、手すりのすぐ脇の席に座る老人の視線を感じた。よそを見るふりをして少しだけ首を動かしたが、友香里の勘違いのようだった。それでも友香里はわずかに体を座席から斜めに動かした。しかしその身振りがすでにブラウスのボタンを外すことを予定していた。躊躇っていた友香里の指先は自分自身の身振りに促され、いちばん上のボタンをひとつ外した。すっと胸に滑り込んできた空気は車内の暖気を帯びていて、誰かの手が侵入してきたかのように生暖かく感じられた。しかしそれはもうまったくのところ衛の手であるよりほかになかった。そう気がついた途端に思いがけず動悸が始まって友香里は困惑した。あまりに生々しく実在する人の手であるように感じられた。
 真っ先にバスを降りた友香里はやはり冷たい空気に首をすくめた。しかし時間外の窓口で面会手続きをするあいだも、胸の内に治まり止まぬ強い動悸を抱き続けた。ナースセンターに声をかけると見知った看護師が「どうぞ」と笑顔で頷いた。他の看護師は誰も友香里に目を向けなかった。まるでわざとそのように示し合わせているかのように感じ、さらに動悸が激しくなった。ここで今なにが起きているのか? なにが起ころうとしているのか? ――実際のところは動悸が激しくなっていたせいで、看護師たちがなにごとか示し合わせているように感じたのに過ぎなかったのだが、友香里は逆さまに解釈してしまい、困惑は混乱へとステージを引き上げた。世界のほうが一斉に顔を背け、しかも見えないようにその表情を歪めているかのように感じた。
 ナースセンターを離れ、すっかり通い慣れた病室のドアを叩いた。すぐに返事があり、その声に友香里は一瞬なぜだか小さく身震いをしてから、そっと扉を引いた。これまでと変わらぬ衛の笑顔にも、友香里はふとたじろいで足をとめた。すぐに衛が不思議そうに首を傾けた。友香里は微かに笑みをつくると扉を閉じ、脱いだコートをハンガーラックに掛け、ベッドの足元を回り込んで椅子に座り、バッグを床に置いた。いつも自分のほうから声をかけるのに、言葉がうまく出てこない。激しく動悸が続いており、友香里はそれを目で見えるものであるかのように自分の胸元に視線を落としたまま、そこから動けなくなっていた。ブラウスのボタンがひとつ外れているのはどうしたわけだろう…と、ふとそんなことを考えた。
「どうしたの?」
「ん、なに?」
「ずっと僕の目を見ない」
「……あゝ、そうね。……どうしたのかしら」
「友香里さん?」
 名前を呼ばれ、それでようやく顔を上げることができ、そしていつものように衛がにこにこと笑っていたので、友香里は慌てて椅子をベッドの脇へと引き寄せると、衛の右腕を取って左胸に押し当てた。相変わらずにこにこしてはいるものの、衛の眼差しに訝し気な影が走った。
「わかる?」
「わかるよ」
「ちょっとおかしいでしょう?」
「そうだね」
「ちゃんと触ってみて」
 と、友香里は右腕で衛の手首をつかむとさらに上体を前に押し出して、襟首の開いたセーターの胸元へと差し入れた。ブラウスの衣擦れの音は、それを手のひらに受け取っている衛のほうではなく、それを乳房に受け取っている友香里のほうでより多く、さらにこの磁場における熱量を引き上げた。
「もうひとつ外して」
「え、なにを?」
「ブラウスのボタン」
 右利きの衛にとって、そもそも決して器用なほうではないこともあり、左手でそれを外すのは難しく、ほとんど不可能だった。友香里は衛の右腕を抱きながら、自分の手で二つ目と三つ目のボタンを外した。衛の手がブラウスの外から中へと侵入先を変え、友香里はその手を最後の一枚の内側へと誘った。先ほどバスの中で起こった外気の侵入の生暖かなイメージを、そうして実体のある衛の手の温かさに置き換えてみると、動悸は相変わらず続いているのだが、少なくとも今この時のこの場所に於いては、世界のほうが歪んでいるふうには感じない。冷たい空気の中を訪ねてきた友香里の胸には、病室で待っていた衛の手は思いがけないほどに熱く、直に触れている肌と肌とが、ここで過ごしてきたふたりきりの馴染み深い気配の中で、ようやく友香里から言葉を引き出した。
「今日はなにか変なのよ。なにかはわからないけど、おかしなことが始まりそうな気がする」
「おかしなことって言うなら、いつものあれだって充分おかしなことだと思うけどな」
「あれはおかしなことじゃないわ。でも、そうね、なんて言えばいいかしら、え~と……」
「不謹慎なこと」
「そうね。それが適切な形容かもね」
「だけど『不謹慎』という評価は常に第三者の口からしか表明されない。当事者がなにごとかを『不謹慎』だなんて考えることはしない。もし当事者がそう考えたとすれば、そのときは当事者であることから降りてしまっている。『不謹慎』というのはそういうものだよ」
「なんだか難しく言ってるけど、私たち二人にとってはなんの問題もないという意味よね?」
「僕ら二人が当事者である限りに於いて、『不謹慎』という物差しはどこまでも無効だ」
「それなら……」
 先ほどから衛の指先が友香里の中に発生させている刺激は、大脳の解釈と承認を求めることなく脊髄から直接に拡がっていた。大脳は己のあずかり知らぬ形で支配下にある(と考えている)身体上に起こる出来事を心良く思わない。その不快感を払拭するための追認行為は時に過剰に振れる傾向を示す。――これは本当のところ友香里の欲情に過ぎず、その昂揚に過ぎなかったのだが、もはや脊髄と大脳の両者に代表される進化のプロセスの異なる器官が分裂してしまっているからには、いかにもありふれた表現でいささか気が引けるけれど、要するに行為と言葉とが寄り添う可能性はすでに消滅してしまっており、その結果として、見つめ合う二人は「ふたりであること」の中に、身動きのできないほどがっちりと、とは言えやはり友香里のほうから嵌まり込んで行った。
「それなら、シーツを汚さない方法があるのだけど」
「へえ、そんなものを発見したの?」
「発見したというか、気がついたというか」
「つまりそれは友香里さんの発明じゃないんだね?」
「私の発明ではないけれど、衛くんには初めてのことかもしれない」
「友香里さんにとっては初めてじゃないという意味だな」
「私のほうがずっとお姉さんなんだから仕方ないわ」
「ははッ。そんなことに僕は嫉妬したりしないよ」
「そんなことでも嫉妬はしてくれたほうが嬉しいものだけどね」
「そういうものなのか」
「まあ、度が過ぎなければ、だけど」
「それで、なにをどうするの?」
「あゝ、こうするのよ」
 友香里は手を伸ばしてサイドテーブルからウェットティッシュを抜き取ると、布団をめくり、パジャマを下ろし、トランクスを下ろし、衛生面での配慮を施した。驚きのあまり衛は思わず声を上げそうになった。身を乗り出した友香里が口に咥えたのである。その状態のままで発する聴き取りづらい言葉で、友香里は驚いた拍子に離れてしまった衛の手を元に戻すよう求めた。ブラジャーの中で中途半端に宙に浮いていた右手に衛は慌てて意識を注入した。すでにボタンが三つ外されているブラウスからは友香里の左のブラジャーがほとんど露わになっており、そこにじっと視線を落とした衛だったが、すぐに思い出したかのように友香里の横顔に目を向け直した。ショートカットの横顔は髪に隠されることがなく、その口中に自分がいま咥え込まれている様子がはっきりと見て取れる。そればかりか微かに当たる歯も、這い回る舌の動きも、そして口蓋の構造ですら、まるで箱の中に入れた手が中身を探り当てるようにわかる。確かにいずれも皮膚を通じた外受容感覚には違いないけれど、そもそも手は明らかに触覚をもって対象を明らかにする役割を担うべく求められてきたと考えられる一方で、今その感覚を受容している器官にそこまでの能力が求められてきたとは、さすがにちょっと考えにくい。しかし、「手に取るように」と直喩されるように、手が研ぎ澄ましてきたのと同じ水準で、この器官にも明瞭にそれがわかるのだ。衛がしばし呆然と初めて経験する感覚を怪しみつつ探っていたところ、ややあって友香里が口中から一度それを吐き出して、けれども頬をつけたままの横顔で目を向けた。
「こうすればどこも汚さずに済むでしょう?」
「だけど友香里さんの口が汚れない?」
「それを汚れと呼ぶのは間違いだわ」
「でも清浄と言うのはもっと違う」
「誰も清浄だなんて言ってないわよ」
「それなら僕はどうすればいいの?」
「当事者にとってはどこまでも無効なんでしょう?」
「だけど僕はどうすればいいのかわからない」
「そんなことわからなくていいのよ」
「この事態に於いてわからなくていいなんてことがある?」
 滑稽にも悲痛さを帯びて響くその問いかけに答えを得られないまま、衛はふたたび友香里に包み込まれた。思わず、起こしていた頭を枕の上に落とし、目をつむり、先ほど確かめた感覚がふたたび鋭敏化されようとしたとき、右手がなにやら故障を訴えているのに気がついた。上から剥き出すべきなのか、下から押し剥がすべきなのか、どちらが正解なのかわからない。そうして衛の手が迷っているのを、友香里のほうでも察した。右手をブラウスの下から背中に回してホックを外すと、その途端に衛の右手の自由を妨げていた障害が落ちて、上も下もなくなった。衛は女の乳房が持つ手のひらに吸い付くような感触と、弾き返すのではなく呑み込まれるような感触とに、すぐに夢中になった。首を右手に傾けて目を開けると今や友香里の左胸はすっかり零れ出しており、視界の左手から聴こえてくる湿った音がもっと強くつかめと訴えているように感じた。やはり女の乳房という器官は下から求めるように進化してきたのだと、そんな無粋な考えが右手からふと頭の中を()ぎり、他方で気がついたときには遊んでいたはずの左手が伸びていて、友香里の頭を強く押さえつけていた。苦し気に聴こえる呻き声に衛が慌ててその手を離すと、しかし、ちらりと視線を向けた友香里は嫣然と微笑んでいるのだった。――友香里が請け合った通り、シーツはもちろん衛の陰毛すら汚れなかった。ただわずかに湿った程度だ。
 衛のパジャマを引き上げ布団をかぶせると、友香里は背中を向けて衣服の乱れを直した。ブラウスとセーターを着たままではやりにくそうだった。ようやく落ち着いたように見えたところで――なぜなら友香里の両手が座っている膝の上に置かれたから――しかし、そこからなかなか振り返ろうとしない。丸めた背中の先で首がうなだれている。衛は恐る恐る声をかけた。
「友香里さん? 大丈夫?」
 振り返った友香里はふたたび衛から目を逸らし、自分の胸元を見つめている。
「重く受け止めなくていいからね。男と女がふつうにすることだからね」
「あゝ、そういう噂は僕も耳にしたことがあるよ」
「シーツを汚しちゃいけないと思ったのよ。いつも汚してるとそのうちバレちゃうだろうし」
「バレたら、友香里さんは困る?」
「私の立場上、困ったことにはなるわ」
「立場を考えないとしたら?」
「……それは、そうね。……どうかしら」
「そうなれば僕の車椅子を押すのは友香里さんだ、てことになるよね?」
「それは違うわ。あ、あの、違くはないんだけど、そうね……」
「椅子の位置が遠いな。もっと近くに座って」
 確かに、乱れた衣服を整える際に、椅子はベッドの足のほうに動いていた。友香里は椅子を引きベッドの頭のほうに座り直した。と、目の前に上体を折り首を伸ばした衛の顔が迫り出していて、あっ…と思う間もなくキスをされた。それでも友香里の表情は晴れやかには戻らなかった。
「私いま、おかしなこと言ったわね」
「そうかな? でも素晴らしく気持ちよかったよ」
「だけどやっぱりおかしなことを言ったわ。ごめんなさい」
「どうして謝るの? 実際どこも汚れなかったよ?」
「あゝ、それは、そうなんだけど――」
「友香里さんの熟練度合いも垣間見れたしね」
「それは、皮肉のつもり?」
「だけど友香里さんがどこから来たのかなんて僕にはなんの関係もない」
「だけど私たちは過ごしてきた時間の結果としてここにいるんだわ」
「違うよ。時間はただすでに起きてしまったことの説明因子のひとつでしかない。それは僕らが今ここにいることの説明因子になることはない」
「順番なんてない、てこと?」
「そう。順番なんてない。だから僕の車椅子を押すのはやっぱり友香里さんなんだよ」
「そこを『だから』でつなぐのは飛躍し過ぎだと思うわ」
「ここに車椅子に座るよりほかどうしようもない僕がいて、同時にここに車椅子を押すよりほかどうしようもない友香里さんがいる。たとえば時間にはこうしたことの説明ができない」
「考えてみれば私、車椅子を押したことってないのよ」
「押す側の問題なんて微々たるものさ。車椅子っていうのはね、僕わかったんだけど、押してもらう側が問題の解決を迫られる乗り物なんだ」
「それってつまり、衛くんが私を信用してくれるかどうか、ていう意味?」
「ちょっと違うな。『信用』は利害関係者とのあいだで求められるものだ。友香里さんは利害関係者じゃなくて当事者だから、『信用』というのはちょっと違う。もっとずっと直接的で、そうだな、友香里さんの胸に僕の背中を抱き締めてもらうような、そんな感じがするんだよ」
「そう、なんだ。でも、本当に私が?」
「友香里さんが押さないとすれば、友香里さんはこれからどうするの?」
「……ん、そうね。……でもごめんなさい。まだちょっと、よくわからないのよ。……なにが起きてるのか、なにか起きてるように思うんだけど、よくわからない。……今日のおかしな感じとか。本当におかしな感じがしたし。……でも、よくわからない。ごめんなさい」
 衛が不思議そうに首を傾けている。その表情があまりに可愛らしいものだから、今度は友香里のほうから首を伸ばし、その唇に小さくキスをした。でも、だけど――あゝ、なんて嬉しそうな顔をするの! 説明因子だとか、利害関係だとか、閉塞状態だとか、もうそんな難しいことは口にしないで。そうしていつも嬉しそうにしていて。そうしていつもにこにこ笑っていて。そのためにどうすればいいのか、私、ちゃんと考えるから。――決めたわ。私、ちゃんと考える。
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