§09 11月16日(月) 20時頃 薫と美加(2)

文字数 4,309文字

 古澤の訪問の多くは夕食後の遅い時間、父とお酒を飲むことが目的なのだが、ごく稀に夕食のテーブルに混じることがある。しかし月曜日の夜というのはちょっと記憶にない。今日、日中にあんな電話をしてしまったせいかもしれない。あんな電話なんかしなければよかった。でも、古澤が混ざると食卓は途端に明るくなる。平生の久瀬家の食卓が暗く湿っているというのではなく、こんな言い方をしていいのかわからないけれど、母と父は娘の目にもちょっと恥ずかしく映るほどに、いつでもどこでも睦まじい気配の中にいるのだ。睦まじい気配というのは、なんと言えばいいか、つまり、明け透けな言い方をすれば、お互いにこのあとまっすぐベッドに入るつもりでいるような、そんな気配だ。これまで実際にそれを確かめてきたという意味ではない。あくまでも「そんな気配」だ。
「今日は気分が悪いから来るな、て言われた」
「そいつを真に受けたわけじゃあるまい?」
「わかってる。私のことが鬱陶しいのよ」
「ほかに薫を遠ざけたい事情があるのかもしれないぞ?」
「たとえば、どんな?」
「そりゃまあ彼女がお見舞いに来るとか、そういうやつだろうな」
「衛に彼女なんていないよ」
「薫には秘匿しているのかもしれない」
「どうして隠すの?」
「将来こんな小姑と関係する可能性を見せたくないんだろう」
「あゝ、私ちょっとブラコンの気味あるからね。でもほんとにいないよ。いれば聴こえてくるよ。あの子、学校でも異様に目立ってるし、何人もフラれてるの知ってるし。私の同級生もね、何人もフラれてる。けっこう可愛い子もいたよ、すっごいスタイルのいい子もいた」
「なんとも羨ましい限りだよ」
 古澤が苦笑するでもなく大真面目な顔つきで溜め息混じりに首を振った。――こんなふうに、薫が同席しているあいだは、酒席に移行するまでは、会話はほぼ薫と古澤のあいだで交わされる。母と父は、古澤から話を向けられない限り、自分たちからは口を開かない。古澤がいないときもそうだ。薫から話を向けない限り、母と父から口を開くことは滅多にない。そして母と父は古澤の前でも「そんな気配」の中にいる。三人は高校時代からの長い付き合いだから、古澤も、母と父も、「そんな気配」に気づいていないかのように振る舞う。薫が自室に上がり、古澤が去れば、二人はそのままリビングのソファーに移り、体を寄せ合い、互いに手を伸ばすような、そんな気配――。
「リハビリってどれくらいかかるのかな?」
「どうせ留年するわけだから、三月までゆっくりやってればいいだろう」
「まあ病院にいるほうが気楽よね」
「そこは気楽ではなく『安心』じゃないか?」
「『気楽』のほうだと思うけどな。周りに気を使わせずに済むし、我が儘な王子様でいられるし。違う?」
「リハビリに移ったらぜんぶ自分でやらされるんだよ。そもそもそのためのリハビリなんだから」
「そう言えば衛、看護婦から誘惑されてないのかな? パンツ見せてきたり、おっぱい押しつけてきたり。もっと大胆なこともするかも。衛は抵抗できないわけだしね。――あゝ、でもどうかなあ。四六時中そばにいるとすぐに底が割れちゃうかもね。見た目は綺麗だけど中身は酷いからね」
「おまえはまだ納得してないのか?」
「うゝん、そんな具体的なことじゃなくて。衛が看護婦とそんな面倒臭い問題なんか共有するはずないし。――私は納得してるよ。衛に拒絶されて、おじさんに窘められて、お父さんに慰めてもらった」
「久瀬ばっかり役得だなあ。まあいつものことだがなあ」
 どうやら古澤に酔いが回ってきている。食事はあらかた終わっていた。お酒を飲む人の食事には明確な終わりがない。お酒だってお酒が終わるのではなくたとえば眠気によって断ち切られるだけだ。古澤はそういうお酒の人であり、父はそういうお酒の人ではない。だから母は父のほうを選んだのだとまでは言わないけれど、あれこれ複合された選択を形成するひとつのインプットだったのではないかとは思う。古澤のお酒は母のための場所を残さない。母にはそれが残念に思えたのだろう。つまり、父は今日と同じ明日を約束してくれるタイプの人間で、古澤はそんなもの夜が明けてみないことにはわからないとか言ってしまう人間で、現実に於いてもやはり、父と迎える明日は今日と変わらぬ姿をしている一方で、古澤と迎える明日は今日とは似ても似つかぬ姿をしているのだ。
「おいおい、今日は帰るよ」
 母がダイニングの片付けを始め、父がリビングに移ろうとしたところで、つまりステージを移そうとした二人を、古澤が大きく手を振って制止した。
「昨日ベトナムから帰ってきたところで疲れてる。まだ月曜だし、それに最近な、ちょっと酒が残るようになってきたんだよ。まったく歳はとりたくないよな。――薫、お茶を淹れてくれ。お茶漬けにしてこれを食ったら帰るよ」
 古澤は本当にそこでタクシーを呼んだ。父もリビングには誘わなかった。私の顔を見に来たのは間違いないにしても、ほかに用件があったようでもなく、つまりは衛のいない久瀬の食卓を覗きに来たといった程度の気紛れだったのかもしれない。お茶漬けを食べ、やがて車が着いた音に全員が腰を上げると、いつものように母と父が玄関に降りることなく見送り、薫だけが表に出て門扉に向かう途中で、やはりいつものように白い封筒に入れたお小遣いをくれた。ずっと不思議に思っていたのだが、母と父が表に出てこないのは古澤のこれを邪魔しないためなのだと、中学生になったくらいの頃に薫はそう察し、高校生になったところで確かめられた。母と父の目のあるところでは、古澤もさすがにお小遣いなんて出しにくいのである。
「ありがとう」
「気分転換にどこか遊びに行ってこい」
「周りみんな受験生なんだけど」
「あゝ、そうだな。じゃあまあ洒落たコートでも買えばいい。来年もここで冬を越すんだ」
「うん、そうする」
「俺はもう見舞いには行かないから、そう伝えといてくれ」
「衛に?」
「お母さんにだよ」
 それを言うために来たのかと、古澤が乗り込んだタクシーを見送りながら、薫はしばらく呆然としてしまった。母にそれをどう伝えろと言うのか。それを伝えたときの母をどう受け止めればいいのか。薫は手にしていた封筒をスカートのポケットにねじ込むと、不機嫌に眉根を寄せながら家に入った。片付けを始めていた母はすでにそれを終えてリビングに移っていた。薫はホッとした。父と二人でいるときに伝えることはできない。明日、日中にタイミングを見計ることにしよう。
 薫は先にお風呂に入ると言って階段を上がった。古澤の封筒には驚いたことに三万円も入っていた。たぶんこれまでの最高額である。なるほど、古澤はこれで私との取り引きが釣り合うと計算したのかもしれない。先週、私にイジワルを言ったこと、今日、私の電話に取り合わなかったこと。――風呂から出た薫はベッドに寝転がると仰向けになり、改めて一万円札三枚を扇型に広げ、天井の灯りに透かして見た。偽札ではなさそうである。薫は自然と頬が緩んでしまうのを放置した。
 十時過ぎに美加から電話があった。帰りに寄り道をして散々あれこれと話したはずなのだが――。
「あれでもまだ足りないの?」
「うゝん、ちょっと休憩。暇でしょ? 付き合って」
「なんだ、いいよ」
「とりあえずいま目の前に紅茶とマドレーヌがあるからさ」
「受験勉強って太るよね」
「……やる気を殺ぐ発言。さては一緒に浪人させる気だな?」
「今度の連休さ、一緒に温泉とか行かない?」
「やっぱりそうだ! でも連休は模試だよ。温泉行くお金なんてないし」
「思わぬ額の臨時収入があってだねえ」
「ホントに! あゝ、ダメダメ。それ試験終わるまで取っといてよ」
「無理だよ。週末にはコートに変わっちゃうんだから」
「我々が模試受けてるのに薫は優雅にお買い物かあ」
「来年は立場が逆ってるけどねえ」
「よし、東京でパリピ化して煽ってやっかな」
「いやいや、東京でパリピ化すっとヤバいぞ」
「田舎女子は簡単にお持ち帰りされっか?」
「え、誰んことだ?」
「衛くんみてな綺麗な子なら大歓迎だども」
「そうそう、衛が看護婦さんに夜這いかけられてるとかいう噂があってね」
「え、いいな、それ。私も混ざりたい。あ、私も看護師になろうかな」
「その頃もう退院してるし」
「ん? ねえねえ、半身不随じゃないってことはさ、あそこも元気だってことだよね?」
「たぶんね」
「でも歩けないわけでしょ? てことはもう触りたい放題ってことじゃない?」
「……衛の、触りたいの?」
「うわ、ヤバい! 淫らな雑念が奔流のように――」
「私のせいじゃないからね」
「オナってから再開すっかな……」
「どうぞご自由に」
 この二年半余り――中学に転校してきてから数えれば四年ほど――美加にカレシなる眩し気な存在がいなかったことは、薫も承知している。美加はすぐに衛を引き合いに出すけれど本気ではない。それも承知している。衛が厄介と言うか失礼な男であることを美加はよく知っている。姉の友人として親しげな様子を見せたかと思えば、完全にいないものとして振る舞ったりする。そのときの気分次第で取り扱いが極端に変わる。他方で薫のほうには高校一年の後半にそれらしき男子がいた。衛と出くわしたりしないよう慎重に行動したものだ。その結果――かどうか知らないけれど、彼氏の現物を見る機会は訪れず、こちらにも現物を見せる機会はやって来ず、そのずいぶん手前で終わってしまった。残念だったとは思っていない。が、自分たちの猥談に経験の裏打ちがまったくないことに関して言えば、少しばかり恥ずかしく感じないではない。衛に告白して敢え無く退けられてきた女の子たちが、いま、ベッドの上で動けない衛を目の前にする機会を与えられたとき、果たして手を伸ばすものなのか、薫には想像できなかった。単純にそれは衛が弟だからなのかもしれない。美加が手を伸ばすとは思えないけれど、看護師が夜這いをかけるという冗談は、あるいは笑えないやつなのかとも思った。贔屓目を差し引くまでもなく衛は素晴らしく綺麗な少年だ。かつて学園のマドンナであった母の血をたっぷりと受け継いでおり、衛が母の子であることは疑いようがなく、恐らくそのせいで、薫の自己評価は過分に割り引かれている。薫も同じ母親から生まれた子供であることは誰の眼にも間違いないものと映るはずなのに、当人にはまったくもってその自覚がない。
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