§13 11月24日(火) 13時頃 視聴覚室

文字数 5,913文字

 教師の無理解に苛立ち我慢しきれなくなって、またも進路指導室を勝手に出てきてしまった。そのまま階段を駆け下り勢いに任せて校舎を飛び出してはみたものの、薫には行く当てがない。雨も降っている。いや、ないこともない。けれども相手はいつでも時間を空けられるような人間ではなく、むしろ空いている時間を探すのが非常に難しい立場にあった。もちろんそんな大人を高校生の日常生活の外に持てることは最高の贅沢だと思う。それでも古澤は忙し過ぎる。忙し過ぎるくらいの大人だからこそ価値があるのかもしれないとはいえ、まったく世の中は儘ならない。
 それでも薫は一度はスマートフォンを手に取った。が、先日のみっともないやり取りを思い出し、諦めて首を振ってから校舎の中に戻った。
 五時限目の教室は静まり返っていた。県下有数の進学校の三年生が迎える十一月末は、当然ながら受験勉強のほかすることがない。すでにこの春の受験をスキップすると決めた薫にとって――教師の無理解とは要するにその決断に関してだ――この空気の中に身を置くことは僅かだが苦痛を伴う。衛の事故そのものが薫との接触を危険なものと周囲に認識させてもいた。運転していた人間が市議会議員の息子であったことの厄介な意味合いを高校生なら理解できる。しかしフルサワ精器を織り込んだ物語までは理解が及ばない。当たり前である。関係者でもない高校生には知りようもない情報だ。
「早かったね」
 自席に座るなり伊藤美加が歩み寄ってきた。
「やっぱり牧原の脳ミソじゃ理解できないみたい。女はダメだね。ほんと、この国の女はダメだ」
「男が稼いで安穏としていられた時代の生き残りでもあるまいしなあ」
「三者面談とか言っちゃって、お父さん全然そんな気ないのに」
「親がいいって言ってるのに、どうしてだろ? 自分の評価が下がるとかあるのかな?」
「ないでしょ、そんなの。ただただ理解が及ばないだけだよ」
 美加は声を潜めたおしゃべりでは満足できないと感じたようで、教室に戻ってきたばかりの薫の腕をつかみ強引に廊下に連れ出した。二人は窓側に寄り、雨模様の寒空を背に並んで立った。
「予備校どうだった?」
「二年生に混じるのってやっぱり変な感じ」
「知った顔は?」
「いくつかいた。上のコースにはもっといるんじゃないかな」
「衛くんの友達は?」
「衛に友達なんていないから」
「うん、だから女友達のほう」
「さあね。それだって友達って思ってるのは女の子の方だけだし」
「でも、そっか。衛くん留年すっから、もういっこ下か」
「だからそう言ったじゃん」
「ねえねえ、まだお見舞い行っちゃダメなの?」
「もう少しで病棟移るけど。でもお見舞いはやめといたほうがいいんじゃない?」
「なんでよ?」
「息が詰まるよ。衛ってそういうやつだから。自分の都合でしか話さないから」
「知ってるけど、昔馴染みの美加お姉さんにはちょっと気を使ってくれるでしょ」
「美加が名前の通りの美少女だったらそれもあったかもねえ」
「色仕掛けも通じないかしら?」
「色仕掛けって?」
「ちらっと脱いでみちゃったりして」
「脱いでも変わんないでしょ」
「……勉強すっか」
「私も日本史やらないと」
「日本史! うわ、最悪だあ」
 薫のクラスで日本史のテキストを持っている人間は数名しかいない。理系の受験生からは世界史と同じく敬遠される科目である。地理を選んでいる美加も世界史・日本史は最初に切り捨てた。同じ中学からやってきた美加だけは衛をよく知っていることもあり薫との距離が変わらない。事故のあと、こうして学校で衛の名前を平然と口にするのは美加だけだ。冗談だろうけど、美加がこれまで一度くらいは衛に色仕掛けを試みたことがあったと聞いても驚きはしない。一年下の衛にそんなみっともないアプローチを試みた同級生を薫は何人か知っている。衛が教えてくれた。綺麗じゃない、可愛くもない、胸が小さい、お尻が大き過ぎる、脹脛が太い――そんな適当な、けれどもすべてを完璧に満たすイデアのような女の子などいるはずもない理由を見出して、衛は彼女たちをその場であっさりと斥けてきた。
 姉が見ても驚くほどに綺麗な顔立ちをした少年だったから、衛は入学以来なにかにつけ周囲の目を惹いた。家ではベッドに寝転がり雑多な本を読んでいるだけ。そしてあの捻くれた性格。ヒトが人間であるためにどうしたって接続していなければならない特定の重要な回路が寸断されており、そこでニューロンの受け渡しに失敗している。恐らく生来的に器質的な問題がある。残念なことに、もしかすると幸運にも、薫には衛を支えきることができない。
 そんなことは重々承知していた。だからもし衛の車椅子を押すことができたなら、具体的実際的に確かめ得る関係を現前させられるのではないかと期待した。が、失敗した。衛から拒絶され、古澤から窘められ、最後は父の愛ある説得を受け入れた。この時期になって理系から文系に切り替え、この春の受験をスキップするのは、残された唯一の抵抗と言えないこともない。しかし、哲学か法律を選べと言ったのは衛である。学部はどこでも構わないから東京に行けと言ったのは古澤である。一浪してもまったく構わないと言ったのは父である。つまりはこの三人の男の意向を重ねた場所に、結局のところ薫はいま立っている。光の三原色が重なってできた真っ白な、色のない場所に。
 我が国の女は要するにこのようにダメなのだという私はひとつのサンプルだ、と薫は思った。理系クラスは圧倒的に男子が多く、従って女子は束の間ちょっとばかりいい気分に浸ることができる。いい気分と言っても本当のところ実に頼りないやつだ。「かけがえのない私」だとかもっと端的に「オンリーワン」だとかの掛け声が、聴こえるたびにどんどん甘くやさしくなって行くように感じられるのは、要するに私たちのこの世界の現実をうっかり覗き見てしまい愕然とするメンヘラ女子の発症数を抑え込み、ひいては増大する医療費を抑え込まんとする狡猾なアイデアのひとつなのだろう。国家の財政が破綻すれば暢気なことを言ってはいられなくなる。
 いや、そんな実際的な問題はどうでもいい。それは優秀なる男子生徒諸君が国家百年の計を五十年かけて作り上げてくれるだろう。今はもっとずっと些末な課題、この一年の課題、一年先に解決しなければならない課題――すなわち日本史だ。
 薫はふと視線を感じた。三列左手の二つ前の席から薫を振り返る男子生徒がいた。柏原なにがしというどこにでもいるこれと言って特徴のない大多数の少年の一人だった。確か仙台を目指している。忘れてしまったけれどそんな話を小耳にはさんだことがある。どうして柏原なにがしの希望進路なんかが耳に入ってきたのか憶えていない。
 薫が顔を向けたところで狼狽し慌てて前を向くかと思ったら、じっと見つめられた。さらにあろうことかちらりと微笑みまでされた。狼狽したのは薫のほうだった。慌ててテキストの上に視線を戻し集中しているふりを装ったのは薫のほうだった。どうしてじっと見るのよ。どうしてちらりと微笑むのよ。――薫は小さなパニックに陥った。
 休み時間に恐れていたことが――無意識に期待していたのかもしれない展開が待っていた。柏原が薫に歩み寄り、机の上の日本史のテキストを覗き込み、自分も日本史だから放課後一緒に勉強しないかと誘われた。断る理由が見つけられなかった。いや別に断る理由を探したわけではないのだから、見つけられなかったのではない。探そうとしなかっただけだ。
「文系に変えたんだって?」
「うん、そう」
「今年は受験しないとか」
「間に合わないし」
「それは弟さんの事故と関係するのかな?」
 放課後、薫と柏原は視聴覚室のいちばん後ろのテーブルに並んで座った。ここはいつの頃からかそうしたカップルが幾組か――この二人はまだカップルではなかったけれど――互いに適度な間合いを置いて座る特別なスポットと認識されている。時々ルールを読み間違えて、あるいはルールの存在を知らなくて、女の子の三人組などがうっかり混ざり込んだりする事故が起こっても、やがて居心地の悪さに気づき退室する。そして視聴覚室を提案された薫もまた、まだ柏原の意向を正しく受け取ってはいなかった。
「私がずっと車椅子を押してあげるって言ったら、そんなのうんざりだとか言われちゃって」
「あはは」
「でも衛の将来が白紙になっちゃったのに、私のほうは粛々と予定通りなんて酷いと思ったし」
「その気持ちはわかる。想像だけど」
「でもほんとうは衛に哲学か法律を勉強しろって言われたからかもしれない」
「なにか理由があるのかな?」
「神様が創った世界の不条理と、人間が作った社会の不条理」
「やっぱり事故の話だね」
「うん、そう。そうなんだけど……」
 きっかけというのは不思議なものだ。それがなければ物事が動き出さない一方で、動き出してしまえばそもそものそれは忘れ去られてしまう。薫は忘れていた。が、柏原のほうは憶えていた。そう、これもまた不思議なことのひとつ。理系から文系に切り替える際に薫が迷わず日本史を選んでいたのには、わかりやすい伏線があった。
 一年前、二年生の秋、いわゆる地歴・公民からなにを選ぶかを、図書室の隅のほうの床に座って伊藤美加と話していたとき、背中を預けていた書架の裏側から現れた柏原が、少なくとも日本史では行ったこともない土地の会ったこともない人間について今後の日常生活でも教養にすらなり得ない事柄を覚える必要性がない、と言った。同じセリフをつい先日、薫は美加に向かって口にしたのだが、両人ともそれが一年前に柏原から聞いた言葉であったことなどすっかり忘れていた。
 言うまでもなく柏原は薫に日本史を選択してほしかったのであり、だからこそ間接的に世界史や地理を貶めつつ日本史を称揚してみせたわけだ。それを薫は忘れている。が、柏原のほうは憶えている。しかし記憶と記録とのあいだには常に往来があり、書架と書庫のあいだ、開架と閉架のあいだで入れ替えが起きる。その際にインデックスが混乱したりタイムスタンプが前後したりするのは珍しくない。きっかけとは、実際そうした出来事を指す。
「柏原くんならどっちを選ぶ?」
「世界と社会の話?」
「そう。世界の根源と、社会の正義」
「さっきはどっちも不条理って言ってたような……」
「正義と不条理ってすぐ隣りに座ってそうな気がしない?」
「確かに、そんな気がする。あ、どうも…とか挨拶してそうだ」
「でも、根源と不条理は――」
「もしかしたら同じものかもしれない、とか?」
「衛は私のために傘を持ってきてくれるところだったの。姉が傘を忘れると弟が事故に遭うっていう話。わかる?」
「世界のほうの話だってことはわかるよ」
 三年生の春、誰がそろえて数えたのか知らないけれど、全クラスの机と椅子が生徒数と一致していなかった。机と椅子をそれぞれクラス間で何個ずつ移動すればいいのか混乱している中で、そうした事態に積極的にかかわろうとしない薫は教室の隅っこにぼんやりと突っ立っていた。
 そのときふと、教壇に上がった柏原が左右の指先で机と椅子を数えている姿を見た。やがて彼は数人の男子と一緒にどこかのクラスから自分たちのクラスに足りていなかった数の机と椅子を持ってくると、このクラスは一致しているはずだから皆ひとまず座ろうと呼びかけた。
 薫と柏原のクラスがそうして落ち着くと、校舎内の少なくとも三年生のフロアーは途端にすっと混乱が収まった。ルービックキューブじゃないんだから適当にどこからでもそろえていけば絶対に終わるんだよ、と柏原がだれかに話しているのを耳にして薫は不思議な気分になった。
 確かに数の一致しているクラスがひとつ出来上がるごとに、混乱して見える景色が乗数的に落ち着いていくのは道理である。手を加える必要のなくなったクラスが増えれば先の見通しが良くなる。直感的に計算ができるようになり、終わりが見えてくる。
 これは柏原が忘れていること。そして薫が憶えていること。
「言い方はあれだけど、久瀬さんの弟にはちょっと変わったところがあるんだな」
「はっきり言っていいよ」
「まあ、それは。…うちの二年生だよね?」
「そう。たぶんもう一回二年生やることになるけど」
「あゝ、そっか……」
「……あ、ごめんね。こんな話はいいの。日本史教えて。どんな順序でやればいい?」
「その前に。――僕は受験が近くなってきた不安から逃げ出そうとしているわけじゃないよ」
「なんのこと?」
「だから、こうして久瀬さんに声をかけた理由」
「あ、あゝ――」
「ずっときっかけを探していて、なかなか見つからなくて、見つけられなくて、そこに突如日本史が登場した。理系でありながら僕の最も得意とする日本史が。久瀬さんが助けを求めて僕に手を伸ばしているように見えたんだよ。もちろん僕の妄想だけど」
「そこは大丈夫。断れなくて座ってるつもりはないよ」
「ほんとうに?」
「うん。ただね、柏原くんのことあんまり知らないのは事実。正直に言わないといけないと思うから言っちゃうけど」
「う~ん、それを言われてしまうと、僕も一緒だなあ。僕も久瀬さんのことは正直よく知らない。ただ可愛いなあと思ってるだけだ」
「へッ…?」
「えッ…?」
 ――後日、姉からこのときの経緯を聴きたくもないのに聞かされた衛は、物事の継起として己が図らずもクピードーの役割を果たしてしまった事実に鑑み、少なくとも弟が事故に遭うと姉に恋が舞い降りるという件に関しては、この世界の根源となっているなにごとかの一部を構成しているものと認めた。「事故」とは言葉の含意する通り不条理なるものであり、この世の不条理は「哲学」か「法律」のいずれかが取り扱うものと決まっており、「哲学」と「法律」のあいだには当然のごとく「歴史」が横たわっていなければならず、従って姉には日本史を選択する以外の分岐など存在するはずもなく、仮に理系クラスの男子生徒に日本史を得意とする稀に見るおっちょこちょいが混ざり込んでいたとすれば、弟の贔屓目を度外視しても十八歳の女の子がこの程度には可愛くないことには人類が滅ぶであろう程度をいくらか超えて可愛いと言っていい姉とのあいだに、背中に翼の生えた気紛れな天使が舞い降りたとしても不思議ではないと見做したのである。
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