§19 03月14日(水) 15時頃 真由ちゃん

文字数 3,927文字

「真由ちゃんてさ、けっこう暇なの?」
 言うに事欠いて、人の顔を見た第一声がそれか!?
「あのさ、せっかくおっぱいの大きなお姉さんがさ、わざわざ休みの日に会いにきてやってるっていうのにさ、その言い草はなに?」
「だけどその大きなおっぱいを僕はまだ見せてもらっていない」
「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない、みたいな言い方」
「見せてくれるの?」
「見せるか!」
「真由ちゃん、人格変わったよね」
「真由ちゃんて呼ぶなあ!」
 周囲の耳目を憚ることなくこんなバカなやり取りができるのは、言うまでもなく、衛に贅沢な個室が用意されているからであり、同時にまた、回復期リハビリテーション病棟の師長が木之下を気に入って目をかけてくれているからだ。急性期と回復期の往来は日常的に少なくない。急性期と言ってもむろん様々で、早めにリハビリの専門部隊が関わってきたほうがいいケースも多々ある。看護師という立場は常に多様な関係者を媒介する機能を求められる。
 率直に、衛は脳障害や心肺ほかの多臓器不全、感覚器官の重篤な失調などは経過しておらず、あるいは排泄障害のように厄介な問題を残しているのでもない。急性期としての扱いが二ヶ月近くあったのも不可解だ。確かに両脚の膝蓋骨がほぼ粉砕されており、命に別状はなかったにしろ、手術は複数回に及んだ。膝下を切除すべきとの議論もあったと聞く。最終的に運動機能を失った両脚は残されたのだけれど、それでも速やかに回復期へと移すのが通常の手続きである。
 従って、ここでの個室の利用は単なる贅沢でしかない。交通事故に伴う多額の補償があることに加え、衛の家も裕福なのだろう。木之下は詳しい家庭事情までは呑み込んでいないけれど、同僚からフルサワ精器の名前も聞いた。フルサワ精器の代表が何度か見舞いに訪れたそうである。ここでのこの処遇にも、あるいはフルサワ精器が関係しているのかもしれない。
 なにしろ衛を撥ねたのは地元では名の通った政治家の息子である。県議として著名だった祖父は亡くなっているものの、父親はここ県庁所在地における現職の市議だ。そこにフルサワ精器と深い関係にある人間が絡んでいるとなれば、事はマニュアル通りに進まないのは凡そ想像がつく。看護師の中にはそうした無責任な噂話を好む人間もいて、木之下の耳にもあれこれと入ってきた。
 しかし入院もあと数日を残すところとなった。結局この三ヶ月で歩けるようになることはなかったけれど、車椅子を使っての日常生活に大きな支障はないと聞いている。復学先(あの超の付く名門校!)との話し合いが済み、家もすでにリフォームを終えていると聞いた。衛のために玄関、トイレ、風呂場などをバリアフリーにしたそうだ。
「つまり今日はぴったりしたタートルネックのセーターで出血大サービスというわけか」
「脱がないよ? 脱がないからね?」
「例の『押すなよ?』みたいなやつ?」
「違うわよ!」
「真由ちゃん、世の中には『退院祝い』という華やかな仕来たりがあるのを知ってる?」
「時間があれば玄関先で手振るくらいしてあげるわよ」
「それは嬉しいなあ。そうそう、なにを思ったか古澤氏が豪華な社用車でお出迎えしてくれるそうだからさ、真由ちゃんもちょっと乗せてもらうといいよ」
「ねえ、その古澤さんてフルサワ精器の人なんだよね? どういう関係? あ、訊いてもいい?」
「父さんの悪友。高校・大学と一緒に通った。学部は違ったけどね」
「衛くんとお姉ちゃんの大先輩」
「そういうこと」
「もしかして、野上を脅した?」
「真由ちゃんも見かけによらず地獄耳だねえ。でも最初に脅しをかけてきたのは野上のほうだよ」
「どういう意味?」
「信号が赤になったのに強引に歩道を渡り始めたという目撃証言をでっち上げた」
「ウッソ!?
「どしゃ降りの雨だったからね、誰の目にもなにも見えていなかった。防犯カメラの映像も酷く乱れていた。言い換えれば誰がなにを見ていたっておかしくない。そこを悪用した」
「で、古澤さんはなにをしたの?」
「田舎町の秩序を守るためなら幾ばくかの不正は致し方ないとする考えをあなたはどう思うか?て尋ねたんだよ」
「だれに?」
「知事に」
「どういう意味なの?」
「そんな土地に新工場を建設するわけにはいかないって呟いたのさ、知事の耳に向かって直接ね。だから古澤氏もやったことは野上と一緒だな」
「それって、いつ頃の話?」
「僕がここに移ってくる一週間前。真由ちゃんが僕のせいで泣いてしまった日」
 噂の半分は本当だったということか。それでギリギリまで病棟を移さなかったのか。つまりは病院に対しても圧力がかかっていたわけだ。久瀬衛はまだ急性期を出られない、回復期に移行できない、意図してそうした状況を維持しておいたという話だ。きっと野上に圧力をかけるために。つまりフルサワ精器が圧力をかけていた。――いや、そんなふうに考えていいのだろうか? 私にはわからない。私はなにも知らなかった。なにも知らずにこのおかしな少年を任されていた。回復期に移ったあとも、看護師としての身分とは無関係に遊びに来てほしいと言われたから、そう言われてしまったら嬉しくて抗いきれず、今日のように貴重な休みの日に、この少年とのバカなやり取りを愉しんできた。そうだ、それだけではない。私はこの少年のために泣いたのだ。きっと終わらないであろうリハビリを想って、永遠に失われてしまった機能への哀惜を込めて、それでもこの少年にこれまでと変わらない世界の中で生きて行ってほしいと願って。
「衛くんがそんなところにいたなんて、私、ぜんぜん知らなかった……」
「それは仕方がないよ。だって、真由ちゃんは看護師なんだから」
「……え、じゃあ、え、そういうこと?」
「なにが?」
「あの紺野さんて人、それぜんぶ承知して衛くんに会ってた、てこと?」
「当たり前じゃないか。あの人は警察官だよ。それも僕の事故を担当するメンバーの一員だった」
「そっか。そういうことだったんだ」
「これからもそうだよ。友香里さんはずっと僕のそばにいる。そう約束したんだ。素敵だろう?」
「確かに綺麗な人だけど、すっごく綺麗な人だと思うけど、でも、いくつ違うの?」
「さあ、いくつかなあ。真由ちゃんよりお姉さんなのは確かだよね。ぜんぜん落ち着いてるもんね」
「まるで私に落ち着きがないみたいな」
「だってすぐに声を張り上げる」
「衛くんがおかしなこと言うからでしょ」
「僕はそんなにおかしな少年でもないと思うけどな」
 反射的に、その自己認識を改めろと口にしそうになり、しかしふと、もしかするとそうかもしれない、と思った。この子は病室に横たわる自分を、足が動かない事態を知った瞬間に、今後自身の周りで展開されるであろう諸々の厄介事を察したのだ。運転していたのが野上雄一郎という政治家の息子であったことを知り、警察から臨床心理士として現れた紺野という美しい女性に惹かれ、なかなか急性期から回復期に移されない状況を読み解きながら、世界がどのような姿に再構築されるのかを眺めていた。恐らくそれが最初にイメージした姿の通りに組み立てられて行くものだから、きっとこの少年はそのことがおかしくて、あるいは少しは己の意思を差し挟みたいと思い、景色のいい味付けとして紺野という警察官を巻き込んだ。――いや、そんなはずはない。衛はまだ十七歳の少年に過ぎない。ただ単にいくつかの、あるいはたくさんの幸運を手に生まれてきたに過ぎない。幸運? どこが? この子のどこが幸運なの? ――違う。そうじゃない。そういう考え方をしてはいけない。それでは見えるはずのものも見えなくなってしまう。
「ちゃんと真面目に運動してる?」
「してるよ」
「学校行くのってけっこう大変よ」
「大丈夫。国際ステーションから帰ってきた宇宙飛行士みたいにはならない」
「そういえば半年ぜんぜん勉強してないでしょ?」
「もう一回二年生をやるんだから、一学期はあくびしてる間に終わっちゃうさ」
「みんな勉強できる子ばっかの学校よね。ああいうとこで順位とかつくの?」
「たとえば肉眼ではつるつるに見える表面でも、顕微鏡で覗けばすごい凸凹があるだろう? それと一緒」
「あゝ、なるほどねえ。衛くんはどこら辺にいるわけ?」
「一七三人だから八七番がちょうど真ん中になるんだよね。ぴったりそこを狙ってみたんだけど、うまくいかなかった」
「それってなんか意味あるの?」
「一番になるより遥かに難しいんだよ」
「はい?」
「確かな方法論がないんだ。たとえば試験問題が配られたときに平均点を予想して、うまいことぴったりそれに合わせられたとしても、中央値と平均値とは異なるものだからね。確率を高めるよりほかアプローチのしようがないわけさ。わかる?」
「わかんない。じゃあ一番になる方法はあるの?」
「あるよ。ぜんぶ百点取ればいいだけ。仮に生徒全員がぜんぶ百点取ったとしても絶対に二番にはならない。そういう確かなことが真ん中については言えないんだ」
「やっぱりあなた、そうとうおかしいわよ」
 ノックの音が小さかったために、おしゃべりをしていた二人は恐らく二回ばかりそれを聞き逃していた。木之下が「そうとうおかしいわよ」と口にして呆れたように首を振ったとき、初めて二人は扉に注意を向けた。返事を待っているということは看護師など医療関係者ではないのだろう。
「はい、どうぞ」
 つい、いつもの癖が出てしまい、この病棟の職員でもない木之下が応えてしまった。思わぬ声が返ってきたせいか、扉はすぐに開かなかった。衛が首を傾げ、木之下が椅子から腰を浮かせかけたとき、恐る恐る、いかにも遠慮がちに扉がゆっくりと引かれた。
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