§06 11月16日(月) 11時頃 佐々木看護師

文字数 4,983文字

 医師の東が去ったあと、今日は佐々木が病室に残ってくれたので、思わず安堵の溜め息が漏れた。診察に疲れたふりをして、あるいは精神的なダメージも重なったような様子をつくり、それとなくお引き取り願うための芝居を打つ必要がないからである。恐らく衛がまだ十七歳の少年であり、むろん十四歳の小僧ほどではないにしろ、相応に慎重な扱いを心がけるべきであるとのご託宣が、専門家と呼ばれる博学才穎らによって(まことにありがたいことに)どこかで提言されているのだろう。医師の診察後には必ず看護師が別段これと言って用もないのに居残るのである。それが佐々木や木之下であればいい。のんびり構えておしゃべりを愉しめる。しかし患者のほうで話題を探さないことには間が持たないような看護師を置いて行かれると本当に困る。寝たふりでもするほかないではないか。
「このところ佐々木さんか木之下さんが残ってくれることが多いよね」
「だってそうしないと衛くん、一言もしゃべらずに寝たふりするって言うじゃないの」
「あれ? じゃあ意図的に佐々木さんか木之下さんなの?」
「別に一人で放っといてもしくしく泣いたりしないのにねえ」
「そんなことはない。僕はいま生涯で最も多感であり傷つき易い時期にあるわけだから、東氏がごにょごにょといつものようによくわからないことを言って去ったあとに佐々木さんや木之下さんみたいな素敵な看護師さんを残すのは、人の命を預かる病院として当然そうあるべき務めなんじゃないかな」
 衛のいつもの長口舌を聞き流しながら椅子を引いてきた佐々木は、扉を背にしてベッドの脇に腰を下ろすとわざとらしく顔を寄せてきた。
「ねえねえ、木之下さんと私とさ、本当のとこどっちがいいの?」
「急に難しいことを訊いてくるね。でもそういうのって置かれた状況によりけりなんじゃないかな」
「いやそれは今のこの状況に決まってるでしょう」
「なんだ、そういう話か。僕はてっきりリゾートホテルのプライベートビーチだとか高層ホテルの最上階のラウンジだとか、そうした将来僕らに起こるべく期待される状況設定での話なのかと思ったよ」
「プライベートビーチも高層ホテルもないわよ、こんな田舎に。で、どっちがいいの?」
「それを今ここで口にしたところで、あの強面の看護師長が僕のそんな切実な要望に配慮してくれるとは思えないな」
「あら、配慮した結果として木之下さんか私になってるのに?」
「あ、そうか。ここでさらに踏み込んでみる価値があるんじゃないか、てことだね。そうなればむろん佐々木さんに決まってるじゃないか。誰がどう見たって佐々木さんのほうが綺麗だもの」
「ふ~ん。でもきっとプライベートビーチでは木之下さんなんでしょ? 木之下さんおっぱい大きいもんね」
「失礼だな。僕はそんなところで女性を選別するような男ではないからね」
「じゃあさ、あの警察の美女はどうよ?」
 珍しく応答に躓いてしまった衛に、佐々木がにやりと笑った。
「あの人ほんと美人だよねえ」
「美しさは必ずしも造形がすべてというわけではないよ」
「あの人が来る日と来ない日じゃ衛くんぜんぜん機嫌が違って見えるんだけどさあ」
「彼女がとても優秀なセラピストであることの証左だな」
「今日、来るって連絡あったでしょ?」
「えっ!? どうしてわかるの?」
「やっぱりかあ。さっき東先生が話してるときさ、衛くんいつものつまんなそうな顔してなかったから、あ、今日はあの美女が来るんだな、てピンときたわけよ」
 さすがに衛も眉根を寄せて難しい顔をした。こんなに若い、とてもまだ人生経験が豊富だなんて言えるはずもない看護師にあっさり心の内を読み取られてしまうとは、正直かなり残念なことである。しかし、誰がどう見たって佐々木のほうが綺麗であると言えるのは言うまでもなく木之下と対置するからであり、そこは「二つあるものの一方」を示す「ほうが」という表現を差し込むことで正確を期したつもりだった。そこへいきなり紺野友香里を持ち込まれるては困る。失礼を承知の上で譬えるならば、小石が散らばる河原に翡翠を置いてみるような話だ。翡翠は水晶や瑪瑙や琥珀と並べられるべき逸品であり、砂岩や石灰岩や頁岩なんぞの隣りで眺める代物ではない。
「衛くんなら綺麗な女の子なんて学校でいくらでも調達できそうだけど、彼女とかいないの?」
「そんなのがいればお見舞いに来ないはずがないだろう?」
「そう言えば学校から一人も来てないよね、もう一ヶ月も経つっていうのに」
「高校生はそれほどバカじゃないってことさ。少なくともあの学校に通うような連中はね、僕の周りに漂うキナ臭さを察知する能力くらいは持ち合わせているんだよ」
「一人も友達がいないのかと思ってた」
「それもないわけではない」
「あるいは親がそう言っているとか」
「大いに考えられるねえ」
「野上耕一郎の亡霊が運転していた、とか」
「まさに的確な表現だよ」
「ごめんね。こんな話、嫌だよね」
 慌てて顔を顰めた佐々木に、衛はにっこりと笑った。
「僕は構わない。むしろ続けてほしいな」
 そう言われてやや躊躇ってから、佐々木が話題を継いだ。
「よくない噂を聞くのよ」
「なにしろ入院患者は恐ろしく暇だからね」
「衛くんの信号は赤だった、とか」
「これまで色覚異常を指摘されたことはないけど」
「本当はなにがあったの?」
「起きてしまったことは如何様にでも書き換えることができる。それがこの世界の構造的な欠陥でもあり、同時にまた僕らが生きていける礎でもあり救いでもある」
「そんな難しいこと言われてもわからない」
「だからね、東氏の診察のあとには必ず佐々木さんか木之下さんが残ってくれるということなら、少なくともここでの僕はずいぶん幸せに過ごせるんだよ」
「師長は衛くんのためにそうしたわけじゃないのよ」
「しょうがない人だなあ、いま言ったばかりじゃないか。起きたことは如何様にでも書き換えられるんだ。師長さんは僕のためを思ってそうしてくれた。このいたいけな十七歳の美少年を憐れんで。それが佐々木さんと木之下さんと僕にとっての真実だよ。こんな分不相応に広い病室における真実。三人でそう書き換える。いま起きていることを歪めるわけじゃない。そうだろう?」
「ごめん、わからない。それで、どうなるの?」
「すでに起きたことを書き換えるとね、これから起こることを変えられるんだよ」
 衛の顔を、佐々木は思わずじっと見守った。なぜかにこにこしている。いま私はこの少年に慰められているのだと佐々木は唐突に気がついた。なにしろ東医師はいま、ほんのついさっき、この少年の将来に起こらないだろうことを口にしたばかりなのである。いや、今日が初めてではない。これまでもずっと同じ言葉を繰り返してきた。難しそうだね、と――。
「あ、佐々木さんさ」
「なに?」
「おしっこさせてくれない?」
「んふ。いいわよ」
 救われる思いで笑みが漏れた。腰を上げ、衛の布団をまくり、尿瓶を手に取った。電動ベッドの頭を持ち上げてから、衛のパジャマとトランクスを下ろし、尿瓶をあてがった。一見して今日も異常はない。まったく奇跡のような事故だ。どしゃ降りの雨の中、イタリア製のスポーツカーはブレーキを踏んでいない。明らかに、そのようなスピードでなければあり得ないレベルの粉砕である。脚を失っただけだなんて信じられないような事故だ。そのうえ医師の東は壊死を回避することにも成功した。ぴくりとも動かないけれど、衛の脚は死んではいない。けれどもやはり動かない。だからこの脚は失われている。そう言わざるを得ない。そこにおかしな噂が流れてきて、佐々木は動揺した。だから衛は心配しなくてもいいと慰めてくれた。最後には、こうして尿瓶を当て、こんなふうに考える時間まで用意してくれて。私はいったいなにをしているのだろう……。
「ちょっと訊いてもいい?」
 パジャマを上げたところで衛が首を傾げた。
「なに?」
「女の人にも性欲があるよね?」
「おっと、なにを言い出すのかと思えば。でもさ、それがないと人類は絶滅してたでしょ?」
「いま僕のを見て、佐々木さんは欲情した?」
「してないけど」
「それは看護師だから? それとも僕だから?」
「看護師だから、ていうのはあるかな。でも衛くんだから、は不正確ね。衛くんは私の好きな人じゃないから、と言うべきね」
「つまりは闇雲にそういう気分になったりはしないということだね?」
「全然ないとは言わないけど、見たら反射的に欲情するか?て言われたら、ちょっと違う」
「その『全然ないとは言わない』っていうの、たとえばどんなやつ?」
「たとえば、衛くんみたいに綺麗な男の子だったりとか」
「言ってること矛盾してるよ」
「そうだね。でも衛くんのを見てドキドキしないのは事実だからなあ」
「なるほど。要するにまずはドキドキが先行するわけか」
「ドキドキしたあとにムラムラしてくる感じだよね」
「そこって個人差はない?」
「大いにあると思うけど」
「そうか。その辺りの機序に関してはまだまだ研究の余地がありそうだな……」
 難しい顔をつくると、途端に衛は少年の相貌に変わる。ここで今なにが起きているのか理解できず、これから起こることに怯えながらも期待している、そんな気配だ。十七歳の少年が明日に期待するのは正しい。明日に期待できているあいだは、甘い慰めの言葉など必要ない。誰かに「君はオンリーワンだよ」なんて言ってもらう必要はない。それは明日に期待できなくなった大人たちを慰めるための言葉であり、十七歳の少年には似つかわしくない。むしろ十七歳の少年を侮辱するセリフですらある。大袈裟な話ではないのだ。明日は今日と違っている、そう思えるかどうかだけの話なのだ。満場の視線の中でスポットライトを浴びる必要はない。周囲から凄いね、頑張ったねと称賛される必要すらない。明日は今日と違っている、ただそうした小さな確信がありさえすればいい。そして十七歳の少年であれば、それはふつうにそこにあるものだ。
「そろそろお昼だね。私もう行くよ」
「うん、ありがとう。――あ、夜勤は木之下さんだったりする?」
「どうだったかなあ……」
「あとでこそっと教えてくれない?」
「こそこそする必要ある?」
「そうした情報は如何にも機微な代物であるかのようにこそっと聞くほうがいいだろう? いい報せであったとしても、残念なお報せだったとしても」
「よくわからないけど、まあ、こそっと見といてあげるわ」
 いかにも気安い感じに手を振って病室の扉を閉めると、廊下でばったり井上看護師に出くわした。久瀬衛が自分の目の前で寝たふりをすると最初に師長に注進したのは井上である。佐々木と木之下のちょうど真ん中のキャリアと年齢であり、すっきりとした顔立ちのなかなか綺麗な若い看護師だ。従って、久瀬衛は決して見てくれや年齢で選別しているのではないことが、この井上の一事からもわかる。恐らく佐々木が久瀬衛に手を振りながら扉を閉める様子を見ていたのだろう、擦れ違いざまちょっと恨めし気なきつい目で見られた。そのように感じた。きっと間違ってはいない。久瀬衛が稀に見る美少年であること以前の問題として、佐々木と木之下が選ばれて自分が選ばれなかった、あるいは明確に疎んぜられた事実は軽くはない。
「久瀬くんは順調ですか?」
「そうね。相変わらずへらへらしてるわ」
「どんなお話を?」
「野上耕一郎の亡霊の話、とか」
「誰ですか、それ?」
「井上さん地元なんだからさ、耕一郎の名前くらい覚えておきなさいよ。お年寄りのお話聴くとき困るわよ。雄一郎のお祖父さんて、この病院で亡くなったんだから」
 むろん、これが理由のすべてではないだろう。しかし久瀬衛は感じ取っているのだ。自分が置かれてしまった状況に、それとなく思い至る人間であるかどうかを。今は病院の個室に身を隠してはいるけれど、表の世界が今、そしてこれから、どのように姿を変じて行くのか、久瀬衛は間違いなく見定めようとしている。あるいはあの美人警察官もそのような手掛かりのひとつなのかもしれない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み