§15 11月24日(火) 20時頃 世界制作の方法

文字数 2,474文字

 さっさと食事を終えて薫が自室に上がったあと、入れ替わるように古澤の声が聞こえた。放課後の視聴覚室での柏原孝介とのやり取りをじっくり反芻しなければと考えていた薫は、思わぬ邪魔者の訪問に舌打ちした。古澤は声が大きい。お酒が入ればさらに大きくなる。薫は諦めて自室のドアを少し開けると耳を澄ませた。やはり衛の話だった。
 野上雄一郎の件かと思ったのだが、違う。古澤は病棟を移った先でも衛には個室を用意すべきだと主張している。あれはロクでもない奴だから個室に押し込んでおいたほうがいい。周囲と無用の摩擦・軋轢を生むのは目に見えている。衛も酷い言われようだが、確かにその通りだと薫も思う。衛はロクでもない奴だ。適切な形容だ。
 話を聴いていると、驚いたことに、二人は衛に税理士資格を取得させ、父の仕事かフルサワ精器の仕事かを用意すると決めているらしい。衛がそんなレールに簡単に乗っかるだろうかと首を捻ったものの、きっとあっさり乗っかるだろうと薫はすぐに疑義を撤回した。それならフルサワ精器はやめてほしい。衛が同僚となる将来像が確定しているなんて考えたくもない。衛は私を追い払ったのだ。東京での数年の猶予――

の時間――を押しつけて。
 薫は時計を見て面会時間が終わっているのを確かめてから、スマートフォンを手に取ってまずメッセージを送った。
 ――いま電話してもいい?
 ――どうぞ
 迷った気配もなく、サイドテーブルで振動したスマートフォンに手を伸ばし、メッセージを確かめて「どうぞ」と送り返す、それだけの短い間合いで返信が届いた。
「なにしてた?」
「別に、なにも」
「今日なんか変わったことあった?」
「そうだなあ。…あ、朝一に師長さんが来て金曜に病棟を移るって言われたよ」
「あ、そうなんだ。どんな段取りになるの?」
「なんかあれこれ説明してくれたけど、おかしなことを言うから聞いてなかった」
「おかしなこと、て?」
「いや、結論としてはちっともおかしくなかったから、わざわざ薫に話すようなことでもない」
「あ、そ。――ねえ、いま古澤のおじさんが来てるんだけどさ、最近おじさんと話した?」
「いや、最初の頃に何回かお見舞いに来てもらってから一度も話してないな」
「衛、税理士になれって言われたら、どうする?」
「いいんじゃない? そんなに難しい試験でもないよね」
「あなたにとってはそうかもね」
「あゝ、二人でそんな話をしてるわけか。へえ、なんか意外だなあ。あの人たちは薫にしか興味がないんだと思ってたよ。でも、そうか、僕がこうなったら関心を寄せざるを得ないよね」
「新しい病棟でも個室を用意してくれるみたいよ」
「保険会社からたっぷり振り込まれるからだろう」
「衛はロクでもない奴だから皆さんにご迷惑をおかけしないよう配慮する必要がある、て」
「そいつは間違いなく古澤氏の発言だな。しかし個室とは願ってもない朗報だなあ」
「どこの馬の骨ともわからない人間のおもしろくもないおしゃべりを聞かされなくて済むとか言うんでしょ?」
「周囲を憚ることなくイチャイチャできるからだよ」
「え、誰と?」
「友香里さんと」
「……は? どういう意味?」
「やっぱり気づいてなかったのか。これからはもっと耳を澄ませ目を凝らして生きて行かないといけないよ」
「だからイチャイチャってどういうことよ?」
「具体的な行為の内容を聴きたいの?」
「ちょっと、なに言ってる――」
「さすがに薫でもそれは教えられないなあ」
「……衛、ほんとうなの?」
「だからずっと言ってるじゃないか。僕の車椅子を押すのは友香里さんだ、て」
「私を揶揄って言ってるんじゃないよね?」
「これまで厚かましくも僕に言い寄ってきたまだおむつも取れていない乳臭い小娘たちによろしく伝えておいてくれたまえよ」
「でも衛、それってバレたら紺野さん大変なことになるよ?」
「警察官であるうちはそうだろうね」
「警察、辞めるの?」
「今度ちゃんと話してくれるってさ」
「まさかと思うけど、衛のために辞めるわけ?」
「いや、僕の

じゃない。たぶん僕の

だよ」
「説明して」
「面倒臭いなあ」
「説明して!」
「さっきも言ったけどさ、薫はもっと周りに耳を澄ませ目を凝らさなければいけないと思う。そういうふうに生き方を変えるべきだ。生き方は大げさだな。日常的な身の振り方というか、いや、立ち位置とか、この世界との関係の持ち方とか。そうしないと大事なことや大切なことを気づかずにやり過ごしてしまう。すでにもうたくさん見過ごしたり聞き逃したりしてきてるはずだよ。いくつか心当たりがあるだろう?」
「……ある。かも」
「大切なものは目に見えるし耳に聴こえるんだ。肝心なことは目に見えるんだよ。キツネの言うことなんか信じちゃいけない。世界は僕らの内側ではなく外側にある。厳密に言えば世界を構成する素材のこと。僕らはそれを取り込みながら日々せっせと世界制作に勤しんでいるわけさ。なにしろ揮発性が高いものだからね、常に読み出しと書き換えを繰り返しておかないとすぐに消えてしまう。誰が作ったのか知らないけど、事実そうである以上、誰かを恨んでもしょうがない」
「なんとなく、言いたいことは、わかった気がする」
「そう?」
「紺野さんが最初の手掛かりになってるのね、いまの衛にとって」
「友香里さんにとっても僕がそうでなければいけないよね。そうでなければ僕は友香里さんの世界をおかしな具合に歪めた上に放り出してしまうことになるから。もちろん薫もだよ。僕は薫の世界をおかしな具合に歪めてしまった。だから薫はそいつを作り直さなければいけない。東京で、それを手伝ってくれる人に出会えたら、とても素敵なことだと思う。――僕の願いはそれだけだよ」
 この後も姉弟の対話はしばらく続き、やがて消灯時間を告げて回る看護師の闖入によって断ち切られた。姉弟のあいだで同じテーマの対話が再開されるのは数年先のことになる。
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