§01 11月11日(水) 15時頃 紺野心理員

文字数 8,195文字

薫――悪いんだけど傘持って駅まで迎えに来てくれない?
衛――その傘はいったいどこを探せば見つかるんだろう?
薫――忘れてきちゃったのよ
衛――だから、どこに?
薫――電車の中
 そんなメッセージのやり取りを終えてからたっぷり一時間ほど、薫は駅の待合室で唐突に降り出してからまったく止む気配のない激しい雨音を聴いていた。雨音がこれほどまでに激しく聴こえるのは、空が雨を降らせる単位時間当たりの降水量と、それを受け止める建物の材質や構造とのあいだに、音を増幅させるべく協力関係が成り立っているからだろうとか、そんなことを考えながら。そのあまりに激しい雨音こそが、小さな駅前ロータリーから県道へと出る横断歩道の上で止まった救急車のサイレンを、わずか数十メートル先の建物の中で待っていた薫の耳にまで、本来なら届いていいはずのところを遮ったのだと判断していい。
 けれども、この説明にはちょっとした齟齬がある。そもそも薫は傘を持って家を出ていた。だから衛はいつも置いてあるはずの場所にそれを見つけられなかったのである。二人のやり取りからそうした事情を読み取ることができる。つまり雨は決して

(予測もできなかった中で)降り出したのではない。この日は午後から雷雨になる確率が極めて高い見通しであることは、気象予報士の資格を持つ恐らく高学歴で言うまでもなく若く美しい女性キャスターが朝のテレビ画面の中で、それはもう明るく元気よく自信たっぷりに話していたのだ。他方で、薫は電車の中でただぼんやりしていた。いつものように目の前で起きていることとはまったく無関係なイメージを弄びつつ。それがどんなイメージだったのか、やはりいつものように思い出せないのだけれど。
 従って、あるいはもしかすると、衛が傘を持ってやってくるのを待っているあいだに、この待合室ではどうしてこんなに雨音が激しく聴こえるのだろう?なんて考えていたことこそが、薫が救急車のサイレンを聞き逃した主要因だったのかもしれない。つまり、様々な外受容情報の中から雨音だけに注意を向けてしまっていたことが。なにしろ救急車は喧しくサイレンを鳴らしながらやってきて、しばらくそこにとどまりはしたものの、ふたたび喧しくサイレンを鳴らしながら去っていったはずなのである。もちろん救急車なのだからそうに違いない。従って、やってきて去ってゆく音のいずれにも気づかなかったのは、待合室で激しく響いていた雨音の――それを受容する側の姿勢を無視した発生側の諸要素のせいにして、そこばかりを責めることはできないのではないかと、薫は今、そんなふうに怪しんでいるわけだ。
 衛の手術は長時間に及んだ。膝蓋骨周辺の損傷が著しかった。手術中に雨は上がり、いや、駅の待合室で待ちぼうけを食らっていた薫が母親からの電話を受け取ったときにはすでに雨は上がっており、薫が駅舎を飛び出した先で乗り込んだタクシーの屋根は雨の名残りを夕陽に煌めかせていた。だから救急車のサイレンに気づかなかった薫は、雨が上がったのが衛の手術が始まる前なのか後なのかを知らない。どちらでもいいことのようにも思えたし、厳密に確かめておきたい気持ちもあった。――後日、薫は図書館のレファレンスサービスや気象庁のインターネットサイトを調べてみたのだが(やはり調べたのだ)、雨がいつ上がったのかを正確に記録している情報を見つけることはできなかった。きっとそれは後世の郷土史家の手によって、名前もわからない市井の夫人がつけていた日記などの中に於いてのみ、思いがけず明らかにされる類いの情報なのだろう。

     *

「どうしてそう思うの?」
「説明が必要なこと?」
「むろん必要なことだね」
 薫は本当にバカげたことだと胸の内で嘆息してから答えた。
「もし私が傘を忘れたりしなければ、衛が家を出ることなんてなかった」
「薫は僕を家から呼び出すためにわざと電車の中に傘を置いてきたのかい?」
「そう言うと思ってた」
「出来事の契機は必ずしも因果を説明するとは限らないよ」
「手垢にまみれた屁理屈ね」
「確定記述は起こってしまった出来事しか取り上げられないからこの世界の説明に失敗するんだ。起こってしまった出来事は起こるかもしれない出来事を口ごもりつつ予言してみせることしかできない。――だから薫、僕の顔を見るたびに泣くのはもう今日限りにしてくれないかな?」
「まるで私が泣きたくて泣いてるみたいな言い方」
「まるでそうじゃないと言っているように聞こえるね」
「だったら私はどうすればいいの?」
「予定通りこの田舎町を出よう」
「それは無理」
「僕の願いはそれだけだよ」
 部屋の扉が開いた。この中年女性看護師には声をかけずに扉を開ける悪い癖がある。患者が女性でなければそうして構わないと考えているらしい節がある。少年がマスターベーションに勤しんでいる最中だったらどうするつもりなのか。どんなに頭の弱い少年でもさすがに昼日中の病院でそんな愚行に及ぶことはないと決めつけているのだろう。彼女はもう忘れてしまったのかもしれない。あるいは知る機会もなく歳を重ねてしまったのかもしれない。その不可逆的に(もしかすると生来的に)表情を欠いた看護師の横顔を、薫は気の毒な人生を象徴するなにものかであるように見た。そんなふうに見られていることに思い至る契機さえこの女の上には訪れないのだろうなどと考えながら。看護師は衛の包帯の具合を確かめてから、ゴミ箱を片付けると薫に目を向けることなく去った。
 このひと月余り、衛とのあいだで堂々巡りの不毛なやり取りが続いている。ベッドの上で首だけを持ち上げる衛と、窓辺の椅子に小さく腰掛ける薫のあいだには、どしゃ降りの雨の日の事故をどのように受け止め、あるいは受け入れるべきなのかに関する埋め難い溝がある。事故は衛の身体から歩行能力を(恐らく)永久的に奪い去った。医者がそれを完全には断定せずいくばくか保留してみせるのは、人類がまだ自分たちの身体を完全には理解し得ていないからという、医学的に謙虚で節度ある態度の表明に過ぎない。「わかる」と「わからない」のあいだには「難しい」と呼ばれる領域があって、そこでは「わかっている」けれどもそう断言し切れない心情の厚みが濃淡を伴って現れる。――そう、医者は「難しい」と口にしているのだ。あくまでも「難しい」と。
「とにかく薫はこの街を出ないとね」
「出ない」
「そうだな、僕からは哲学か法律をお勧めしたい」
「私、理系なんだけど」
「この世界の根源について考える方法を学ぶか、この社会の正義について考える方法を学ぶか」
「法律が正義?」
「そもそも人はなぜ『法』なるものを拵えたのかというところから勉強してみるっていう話を僕はしているんだよ」
「それならわざわざここを出る必要なんてないじゃない」
「ある。僕のそばにいたのでは薫の眼は曇る。すでになにも見えなくなっているしなにも聴こえなくなっている。なにも見ようとしなくなっているしなにも聴こうとしなくなっている。方法論を持たない人間の上に特徴的にみられる傾向だ。それでは正しく学ぶことができないばかりか――」
 次の訪問者はノックをした。衛が応えたあと、おしゃべりを中断した二人は引き戸がゆっくりと躊躇いがちに開く様子に注意を向けた。その躊躇いがちな気配はもうすっかり馴染みとなっている。週に二度、多い時には隔日で訪ねてくる紺野友香里の、美しく物憂げな顔が現れるお約束のプロセスだ。窓辺の椅子に薫の姿を認めた紺野の表情が、一瞬でさらに物憂げさを増したように見える。
 実際、紺野は後ろ手に扉を閉めたところから、すぐには歩み寄ろうとしなかった。平日の午後の早い時間に姉の薫が来ているとは考えていなかったのだ。しかしこの姉は知らぬ者のいない歴史ある名門校に通う三年生なのだから、すでに十一月に入ったこの時期ともなれば、学校の構内にとどまっているであろう時間帯なんていう想定は、すでに意味を失っているのは当たり前のことである。
 中学生にしか見えないような体つきに、表情の乏しい丸く小さな顔、そしてイントネーションにすら訛りのない久瀬薫が発する言葉のひとつひとつが、久瀬衛の病室への訪問という紺野友香里の仕事から――敢えて彼女の心情に寄り添い大袈裟に表現してみれば――重苦しく垂れ込めたこの土地の冬の空のように色彩を奪い取ろうとする。
「こんにちは」
「お邪魔します」
「私は帰りますので、ごゆっくりどうぞ」
「いえ、お気遣いは――」
「話はもう終わりました」
 あなたの訪問に気遣って席を外すわけではないという意味だろう。彼女が部屋を出るために、紺野は棒立ちしていた扉の前から慌てて離れ、擦れ違いざまに小さく頭を下げた。開いた扉が再び閉まるまで待って顔を上げたところ、おかしそうに笑っている衛の人懐こい様子に救われる思いがした。
「そんなに薫が怖い?」
「え? あゝ、うん、ちょっと……」
「きっと悪いことをしてるからだな」
「そうかも知れないわね」
 歩み寄る前に扉の脇に立つハンガーラックにベージュのチェスターコートを掛けてから、紺野はベッドの足元を回って椅子に腰を下ろした。今さっきまでそこに座っていた薫の温かみがまだ残っている。バッグを足元に置くと、正面から衛の顔を見た。薫が去ったことで紺野の表情から陰鬱さと緊張がいくらか和らいだように映るのは、きっと気のせいではないだろう。短くそろえた黒髪にやや顎の尖った卵型の輪郭、まっすぐに通った鼻筋の左右に赤みのさした艶やかな頬、しかし、印象的な眼差しに宿る物憂げさは完全には消えていないようだ。
「もしかして友香里さん、今日ってお休み?」
「うん、そうなんだけど、今週まだ一度も来てなかったから」
「いつもそんなふうに明るい色のセーターを着ていればいいのに」
「そう?」
「お洒落にしているほうがやっぱり素敵だよ。いつもの堅苦しく物憂げな友香里さんも、それはそれでなかなかに味わい深いものではあるけれど」
「大人を揶揄ってはいけません」
「だけど子供の時にしか楽しめないお遊びだからね。友香里さんがこのタイミングで登場してくれなかったら、僕は危うくそんな経験を逃してしまうところだった。それじゃあまったくもってロクでもない大人になるよりほかにない。精神分析ってそんなことを言うんだよね?」
「言うわね」
「これを怪我の功名だなんて言ったら真面目な警察官に叱られる?」
「別に叱らないわよ」
「それはきっといま友香里さんが空疎な仕事の片棒を担いでいるからだろうな。さっきのドアの開け方から推察するに、野上は今週もまた送検されないんだね。その目途すらも立っていないんだね。だから友香里さんは僕を叱ることができないんだ。きっと今日もまたいつものように申し訳なさそうな顔をして『ごめんなさい』と口にする」
「うん、そう。……衛くん、ごめんなさい」
 頭を下げた紺野はその時間が長すぎず短すぎぬように計った。衛は胸の内で「3…2…1…」とカウントダウンを始め、ちょうど「0」ぴったりに紺野が頭を戻したことに満足した。
 そして――ここでがらりと空気が入れ替わり――少年が布団の上に投げ出していた右腕を持ち上げて差し出すと、女は椅子をベッドサイドに寄せ両手に少年の手を包み込む。いつだったか、確か三度目の訪問時に思わずそうしてしまって以来、女は差し出される少年の手を拒めなくなった。少年はそのとき胸の前でぐッとこぶしを握り締め、女はそれを解こうとして手を伸ばしたのだったのだが。そのとき以来、二人のあいだには、絡まった紐が引っ張り合うように伸びている。
 確かに少年の手を先に胸に引き寄せたのは女のほうであり、この少年はいかにも少年らしく、さすがに驚き戸惑った様子を見せた。しかし、そのことをきっかけにして、やはりこれもまた少年らしく、味を占めたのもまた紛れのない事実である。今や少年には明らかな性的欲動があり、少年自身も、そして女のほうも、さほど時間を置くことなく、それに気づいていないふりをするのはやめてしまった。
 緩やかに胸元の開いた明るいブルーのニットセーターの中で触れる女の胸は、すでに大人の男のそれとほとんど変わらない十七歳の少年の手のひらに、ぴったりと誂えたように収まりがいい。少年の眼差しは女の顔からそこまで降りてきており、自分の手の動きに応じて伝わってくる柔らかな反発を、しかし、なにか不思議な現象でも目にしているかのように眺めている。女は少年のそんな表情に、まさに「愛おしそうな」と形容すべき眼差しを向けながら、口を開いた。
「お姉さんとは平行線のまま?」
「そうだね。だけど今日は僕のほうからちょっと変化球を投げてみたんだ」
「変化球」
「それなら哲学か法律を学んでみてはどうか、と」
「教えて」
「この世界の根源について考える方法を学ぶか、この社会の正義について考える方法を学ぶか」
「正義は、野上のことね」
「そうだよ。なぜ野上雄一郎はこんなにわかりやすい事故を起こしておきながら、今なお起訴はおろか送検すらされずにいられるのか」
「私たちが無能だからよ」
「それは違うな。それは友香里さんにとっての慰めに過ぎない。正義とはまったく無縁のものだよ」
 姉のほうは恐らく勉強ができるだけの少女だが、衛はそれだけの少年ではないことを、なにやら厄介な少年であることを、友香里はこうしたときになんとなく感じ取る。頭がいいだけであれば衛はもっとずっと幸せなはずだと思う。それに、頭がいいだけの少年であれば、衛にこんなことを許しはしないだろう、とも。許すというか、求めると言ってしまうべきか。――つまり、友香里は椅子をさらにベッドの脇にまでぴったりと寄せ、布団をまくってパジャマとトランクスを下ろし、下半身の中央で奇跡的にも熱を集める能力を損なわれなかった器官に右手を伸ばすと、自分の胸をつかむ衛の手を左手に抱えたまま、その動きと同調させるように撫で擦り始めた。――文字通りこれは「未必の故意」が行き着いた先なのだ。なぜなら友香里は、きっとこうなるものと承知していながら、こうなってしまっても仕方がないと諦めて、いや実のところこうなることを望みさえして、謂わば抗い難く、衛の右手を胸に抱き寄せるとともに、左の乳房へと導いたのである。
「じゃあ、根源のほうは?」
「いま友香里さんが触ってる」
「そういう意味ではないでしょう」
「薫が言っているのはね、姉が傘を忘れると弟が交通事故に遭う。そのあいだを繋ぐものはなにか。世界の根源にそれを説明してくれるものはあるのか。そんな話」
「よくわからないわ」
「薫が言っているのは友香里さんが言ったのと同じことだよ。野上雄一郎が送検されないのは紺野友香里という警察官が能無しだからであると言うのと同じように、弟が交通事故に遭ったのは姉が電車の中に傘を置き忘れるような

だからであると言っている。どっちの言い分もバカバカしくて話にならない」
「出そうになったら言ってね。こないだシーツ汚しちゃったでしょう?」
「友香里さんがずっと真っ直ぐにしてないからさ」
「そんな難しいこと言わないでよ」
「でもシーツが汚れるくらいどうってことないと思わない?」
「看護婦さんが見ればすぐにバレるんじゃない?」
「これは正常な代謝だよ。古くなったものは捨てなければならない。なにしろ精子は無限に製造され続けるものだからね。倉庫がもう満杯だっていう情報がなぜか工場に届かない以上、倉庫のほうはそれこそ先入れ先出しで廃棄しないことには機能不全に陥るわけさ。――でもそうか、自分で出したなんて思われて、あらぬ誤解を招くのもちょっと嫌だな」
「あらぬ誤解って?」
「久瀬衛は群がる天使たちのどの白衣に欲情したのだろうか?」
「うふふっ。衛くん綺麗だから、きっと看護婦さんにけっこう人気あるはずよね。そう言えば私、ときどきちょっときつい目で睨まれるように感じることがあるわ。ここに入る前にナースセンターで声をかけるとね、さっと何人か振り返るのよ。そのときちょっと――え、あッ…!」
 右手が軽い痙攣を感得するのと同時に、左胸を強く握り締められた友香里は思わず体を捩ってしまい、体を捩った際に握っていた右手もまた動いてしまい、十七歳の少年であってみれば勢いよく飛び出すのは避けられないことだから、今日もまたシーツが汚れる結果になった。
「ちゃんと言ってね、て言ったのに……」
「友香里さんがサボって四日も来ないからいけないんだよ」
「私はあくまでもここに警察官として立ち寄っているのであって――」
「四日も放置されたら簡単に出ちゃうのは仕方ないだろう?」
「そうかもしれないけど、またシーツ汚しちゃったじゃない」
「ねえ、僕ちょっと思ったんだけどさ、あのとき野上はなにをしてたんだろう? 隣りに乗っていた女の顔でも見てたのかな? やっぱり胸とかお尻なんかを触ってたのかもしれないね。どっちなのかな? 胸? お尻? でもどうしてお尻には『お』をつけるのに胸には『お』をつけないんだろう。友香里さん、知ってる?」
「そんなこと知りません。あゝ、これやっぱり落ちないわよねえ……」
「友香里さんがこの先もずっと僕の車椅子を押すと宣言すれば、薫はその役割を放棄することに同意してくれるかもしれないな。不承不承ながらもね」
 友香里は三枚ばかり引き抜いたティッシュペーパーで急いでシーツを拭ってみたが、粘り気はとれても湿り気まではどうしようもない。きっとすぐに固まってしまうだろう。小さく溜め息をついてから、友香里はまず衛の中に残っているものをしごき出すと、自分の手と、衛のわき腹や臍の辺りは新しいティッシュペーパーで、後始末の厄介な陰毛の周辺はウェットティッシュを使い、丁寧に汚れを拭い取って足元のごみ箱に放り込んだ。トランクスを穿かせ、パジャマを穿かせ、掛け布団を整え終えたところで――言うまでもなく衛の最後のセリフを聞き流したことの報いとして――ぐいっと腕を引き寄せられた。友香里はバランスを崩すようにしてベッドの上で衛と折り重なった。衛の手がセーターの下のブラウスをスカートから引き抜こうとする。その手を押さえ込み、友香里は顔を間近に寄せて囁いた。
「これ以上は無理よ」
「もし万が一それが可能な状態で退院できたとしたら?」
「万が一なんて言わないで」
「どうやら万が一ですらないらしいけど」
「わかってる」
「東氏は今日も断言を避けたんだよ」
「わかってるわ……」
「ねえ、そしたらどう? そしたらこの一方的な閉塞状態を解消することができる? 万が一とは言わないけど、そんな可能性ならこの僕にもまだ少しは残されていると思う?」
「……そうね。……どうかな。……いまはちょっと、まだわからない」
「それは友香里さんが然るべき手続きを省略しているから?」
「そうかもね。省略してるかも。……だけど衛くん、もしかすると私はただの欲求不満のお姉さんなのかもしれないわ。抵抗できないのをいいことに十七歳の綺麗な少年の体を弄んでいるだけの。――でも、そんな説明であなたに納得してもらうのは難しいのよね」
 衛はつかんでいた腕の力を抜き、小さく息を吐いてから目を閉じた。友香里の柔らかな唇が頬に触れ、胸の上にあった重みがすっと消えてなくなり、次いで椅子を動かす音、室内を歩く音、ハンガーラックからコートを外す音、扉が滑る音、ふたたび扉が滑る音、そして遠ざかる微かな足音――衛は目を開けて天井を睨みつけた。が、すぐに表情を緩めて呟いた。
「それでもぜんぜん構わないんだけどなあ。だいたい僕がなにに納得する必要がある? そもそも納得なんてものを求めているのは友香里さんだけだよ。僕のほうにそんなものは必要ない。ほんと、わかってないよなあ」
 衛の呟きは、最後は姿の見えない友香里を前にしているかのように、大袈裟に首を振りつつ終わった。まだ自分で腰を曲げ上体を起こすことすらできないのだが、首だけは大きく横に振っても痛みを感じることがない。恐らくそれはひとつの奇蹟だったと言っていいだろう。神様がちらりとこんな田舎町の横断歩道に目を向けて、あの瞬間いくらか手心を加えたに違いないのである。
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