§05 11月11日(水) 26時頃 木之下看護師

文字数 4,108文字

 夜は長い。どうしようもなく長い。膝蓋骨がほぼ粉砕している両脚はピクリとも動かせないし、動かせないどころか存在すら怪しむべきほどであるにもかかわらず、上半身はなぜか絆創膏でも貼れば済む程度の擦過傷と、赤く痣が出るくらいの打撲傷で済んだ。ベッドの灯りに照らして見れば、そんな傷跡もすでにほとんど消えてなくなっているのがわかる。しかし理由は単純明快だ――野上雄一郎は車高の低いイタリア製のスポーツカーに乗っていた。だから狙いすましたように衛の膝から下を砕いたのである。仮にアメリカ製のSUVであれば恐らく腰椎や脊椎が損なわれていたはずで、歩行どころか排泄などにも障害範囲が拡がっていた可能性が高い。とにかく野上雄一郎はブレーキを踏んでいないのだから。
 衛は両腕を天井に向かって突き上げると、天から降ってくるなにものかを受け止めようとするように手のひらを開いた。が、しばらく待ってみてもなにも降ってこなかったので、その手はすぐに額の上に落ち、今度は祈るように目を閉じて、しばらく耳を澄ませた。県立病院の外科病棟は星の降る音が聞こえてきそうなくらいに静まり返っている。個室の中では誰かの鼾も聴こえてこない。時刻は恐らく一時か二時か、それくらいだろう。首を横に振ればデジタル音波時計で確かめられるはずだが、衛はただ瞼の裏に時分秒の針が回る壁掛け時計をイメージし、それを一時十五分のところに動かすと、手探りでナースコールを押した。程なく足音が近づいてきて、まるでこの世界が伝える初めての音であるかのように厳かに、遠慮がちに、扉が滑った。
「衛くん?」
「うわあ、木之下さんなのかあ。嬉しいなあ」
「才能がない新人俳優みたいな言い方」
「いま何時なんだろう?」
「一時半をちょっと過ぎたとこね」
 ハズレか。まあ、二十分程度は誤差と言っていいだろう。
「木之下さん、小用を手伝ってもらえる?」
「わたくしめでよろしければ」
「どうしたわけかこいつは正常なんだよね」
「こいつって?」
 衛は額に乗せていた両腕を掛け布団の上にパタンと落とし、丸顔のえくぼが可愛らしい木之下に顔を向けると、股間の辺りを叩いてみせた。
「だって衛くんは脊椎や腰椎を損傷したわけじゃないから」
「だけどまだ自分では腰を曲げることすらできない」
「大丈夫。それもあと少しの辛抱」
「ほんとうに?」
「先生に訊いてみたら?」
「東氏に訊くの? あの人、嫌いなんだよね、僕」
 そんなことを話しながら、木之下は衛の掛け布団をまくりパジャマとトランクスを下ろすと尿瓶を当て、ベッドのコントローラーを手に取った。
「ねえ、東先生ってどうして人気ないのかな?」
「ちゃんと人の目を見て話さないからだよ。いつもあらぬ方を向いて――あ、これくらいでいい」
「そうなんだ。気づかなかったな。ちょっとビックリ」
「ああいうタイプの人間は臨床に向いてないね。優秀なんだったら基礎研究でもすればいいのに。なにも無理してこんなところに出てくる必要なんてないよ。でも本人はコミュニケーションが得意だとか思ってるのかな? そうだとしたら早くその誤った自己認識を打ち砕いてあげないと。まだ三十代だよね、充分やり直しのきく年齢だ」
「ずいぶん我慢してたみたいね」
「考え事してて忘れてたんだよ。いや、考え事がまとまりそうな気がしたから我慢してたんだ」
「まとまったの?」
「まとまらない。そもそもまとめてどうなるものでもないのかもしれない。少なくとも筋が通っていて実際的な利益があれば人の心を動かせるなんて話は幻想に過ぎないという結論だけは得たよ」
「おしまい? ぜんぶ出た?」
「うん、すっきり」
「ほかには? おしっこだけ?」
「う~ん、できれば少しおしゃべりしたい」
「これ片づけたら師長に訊いてみる」
 トランクスとパジャマと掛け布団を戻した木之下は尿瓶を手に部屋を出ると、衛が十分ほど待ったところでふたたびそっと扉を引き開けた。マグカップを手にしているから、師長の許可が得られたのだろう。ベッドを回り込み、窓辺の椅子を衛の顔の近くに寄せてから、腰を下ろした。
「木之下さんて薫に会ったことあったっけ? 僕のお姉さん」
「あるわよ。小柄な女の子でしょ」
「薫は大学を出たらフルサワ精器で働くことに決まってるんだよ」
「まだ高校生なのに? 優秀なんだねえ」
「ここを出て東京の大学で電子工学かなんかをやって戻ってくる約束だったんだけど、いま駄々を捏ね始めてる。もちろん僕のせいでね」
「気持ちは、まあ、わかるかな」
「薫がべったり僕の人生に張り付いてるなんてうんざりなんだけど、なかなか理解してもらえない」
「うんざりだとか言っちゃうからじゃないの?」
「車椅子を押す役は誰にも渡さない、とか言っちゃってるんだよ」
「ブラコンてやつ?」
「車椅子なら木之下さんが押してくれるのにさ」
「退院するまでだけどね」
「あれ? ずっと押してくれるんじゃないの?」
「今と同じお給料もらえる?」
「そうかあ。てっきり木之下さんが押してくれるものだとばっかり――」
「佐々木さんにも同じこと言ったでしょ?」
「まさか! 僕は相手が木之下さんだからこそこんなことを口に――」
「それも佐々木さんに返したのと同じね」
「ふむ。どうやら僕はこの職場における人物相関をいささか読み誤っていたらしいぞ」
 木之下はちらちらと腕時計に目をやった。休憩時間をすべてこの綺麗な少年との他愛ないおしゃべりで潰しても構わないのだが、トイレに立ち寄る時間だけは残しておく必要がある。休憩が終わって一時間もしないうちにトイレに行ったりしようものなら、師長から嫌味たっぷりの説教を喰らうのだ。
 それにしても不思議な少年だった。二度と自分の足で歩くことができないと聞かされた十七歳の少年が、車椅子をネタにして看護婦とのおしゃべりを愉しめる精神状態に落ち着くまでには、言うまでもなく相当の時間を必要とする。ほぼすべての少年が――なにも少年に限った話ではなくほぼすべての人間が――暗い表情のまま病院を後にすると言ってもいいくらいだ。しかし久瀬衛が救急に運び込まれてきてからまだひと月余りしか経っていない。この間、親族と派手な言い争いを繰り広げることもなく、医師や看護師に八つ当たりをして暴言を吐くこともなく、夜中のベッドでしくしくと泣いている姿も見ていない。
 まるで、もうしばらくすればリハビリが始まって、半年もしないうちに街中を自由に駆け回れると保証されているかのように、この久瀬衛という少年は至って平穏に毎日を過ごしている。しかし、むろん彼は承知しているのだ。だって、木之下さんがずっと車椅子を押してくれるんじゃないの?なんて口にするのだから。それに、こんな時間に目を覚ましておしゃべりの相手をしてほしいなんて甘えるのだから。それこそ十七歳の少年らしく。
 けれどもその顔は、不安や絶望で眠れなかったわけではないと告げている。彼には極めて実際的な解決すべき問題があり、それを考えているうちにすっかり夜が更けてしまったのだ、と。あるいはもしかすると明日の朝一番に口にする冗談を考えていただけなのかもしれない。木之下にはそう疑うに足る確かな直感があった。むろん本当になにか大事な問題を解決すべく考えていたのだとしても、それは決して彼の表情を暗く冷たくする類のものではないはずだ。
 そう、実際こんな話だってするのだから――
「木之下さん、僕はこの先プロサッカー選手になることは絶対にないよね?」
「そうね」
「言うまでもなくサッカーという競技の公式ルール上あり得ないこととして」
「まあ、確かに」
「実はある公的調査機関の発表によれば我が国にはなんと一万七千もの職業があるんだよ」
「へえ、そんなに!」
「その中で事故が僕に閉ざしてしまった職種がいくつあるのか今度数えてみようかと思う」
「あ、それいいかもね」
「もしそれがまだ半分にも満たないとすれば世界はほとんど変わってないと言ってしまってもいい」
「うん、なるほど」
「そのうち薫に印刷させて持ってこさせるからさ、木之下さん、一緒に検討してくれる?」
「いいわよ。今夜みたいに暇ならね」
「ありがとう。僕はまだ長いことここにいるだろうから時間はたっぷりあるんだ。でも木之下さんはたぶん急いだほうがいいんじゃないかな? トイレに行っとかないとあとで師長のありがたいお話を拝聴することになるって聞いてるよ」
「あッ…!!
 いつそんな話をしたのだったか。あるいは別の看護師が――たとえば将来に亘って衛の車椅子を押す名誉を共に授かった佐々木が――そんなことをうっかりしゃべったのか。木之下は相当に慌てていたのだろう、衛のサイドテーブルの上にマグカップを忘れて行った。
 衛はしばらくハトだかカラスだかスズメだかも判然としない恐らく鳥類と思われる可愛らしい生き物が黄色と水色でプリントされたマグカップを眺めたあと、その脇からスマートフォンを取り上げてメッセージアプリを立ち上げると薫の無粋なアイコンをタップした。

 芳紀まさに十八歳となられる姉君に於かれましては誠にお手数ながら、独立行政法人労働政策研究・研修機構の調査になる我が国の職業一覧資料を印刷しお持ち頂きたくお願い申し上げます。片面五十行で両面印刷をかければ凡そ一七〇枚に及ぶ大部になるものと予想されますが、なにしろ我が国には一万七千もの職業があるという話であります故、何卒ご理解のほどを。かような資料を愚弟が所望する意図に関しくどくどしくご説明差し上げますれば、英邁なる姉君の御心を却って煩わせるやも知れぬと恐れるものであります。まもる拝

 メッセージを送信すると同時に後頭部を殴れたかと怪しむほどの眠気が襲い掛かってきた。衛は先ほど看護師の木之下が小用を足す際に傾けてくれたベッドを戻すことなく眠りに落ちた。翌朝目が覚めた時にもベッドはそのままだったのに、木之下のマグカップはどこにも見当たらなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み