第23話 手塚治虫の「ブッダ」

文字数 1,129文字

 差別の悲惨さを序盤に描いた後、シッダールタの誕生、成長、悟りを開き、死ぬまでのことが表わされた物語。
 若き日のブッダは真っ直ぐな、明確な視線だったが、壮年の頃からのその眼は、「空」を見ているような、だから真理を見ているような、したがって、何も見ていないように描かれている。

 手塚治虫といえば「ブラックジャック」。ピノコの「アッチョンプリケ」にはマイッタ。ヒトラーの幻影を描いた「アドルフに告ぐ」、生命の問題を扱った「火の鳥」にしても、ほんとうに天才だと思う。
「ブッダ」の中では、アッサジという人物が非常に気に掛かる。その顔は、「三つ目がとおる」の主人公そのものなのだけど、アッサジは予知能力のある男で、自分自身の死ぬ時さえ予言した。そして、けっして外さないのだ。
 シッダールタの唯一の友達だったが、狼に喰われて死んでしまう。しかも、腹を空かせた狼の子ども達をかわいそうに思い、自分から食べられたのだった。

 死ぬ日まで、いや、死の直前まで、アッサジはいつものように過ごした。全く、何の動揺もせずに。シッダールタが、「どうしてそんなに平然としていられるんだ? きみは、もうすぐ死んでしまうんだぞ」と言っても、本人は全く気にしない。
「なーんにも考えないことニャ」と言って、鼻水を飛ばしているだけだった。

 アッサジの死後、シッダールタは狂ったように苦行を始めた。死に対して、あんなにも無執着だったアッサジのようになりたくて。
 だが、苦行。「自分を苦しめることには何の意味もない」と知っただけだった。ぼろぼろになった彼を助けたのは、スジャータという女の子だった。
 彼女がつくった乳粥を飲んで健康を取り戻し、物語が続いていく…

 いろんなブッダ関連の本があるけれども、手塚治虫の「ブッダ」が、そうとう芯を突いていると思う。
 あの「どこも見ていないような眼」でブッダを描いたのは、悟りというものを作者自身が悟っていたのでは、とさえ思う。
「火の鳥」の鳳凰編も、仏教をテーマに描いている。政治、権力のために仏教が利用されたこと、その事実に対して怒り狂い、美事な芸術品のような木彫りを作り、のちに伝説の怪物「天狗」になった人物を描いている。

 感情。怒り、悲しみ、憂鬱、喜び。そういったものに、いつも人間は捕われる。そうして善行、悪行と見なされる諸行為が積まれていく。
 しかし善も悪も、その行為への導火線元である諸感情を「なくす」ことができるということを、手塚治虫はブッダの眼に表わしていると思えてならない。
 そして宗教的なテーマというのは、人間の「死」と「生」、永遠に繰り返される永遠と、無関係では成り立たない。
 手塚治虫が、それをテーマに描かざるをえなかった、その心情を思う。
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