第30話 「二十歳の原点序章」… 大学とは何だったのか

文字数 1,395文字

「二十歳の原点序章」を読み始めた。立命館大学に入った高野さんが、部落問題研究部に入ったところ。
 ここ奈良にも、何やら「部落差別」の場所があるらしいが、特に知りたいとは思わない。そんなの意識することが差別になると思うし、どこで生まれ育とうが、どうでもいいことだと思う。
 1970年前後?には、安保闘争で、大学生の樺美智子さんが国家権力に殺されてしまった。なぜか家には、樺さんの本が2冊ある。読んではいないが、写真にあった機動隊に殺された直後のような樺さんの姿が、生々しかった。

 今のミャンマーが、同じような状況と想像する。あまりにひどい国家に対しては、反抗するしかないではないか…
 高野さんの自殺した69年、大学紛争の意味は、今や跡形もない。私も知らない時代だし、全共闘世代の友達はいるけれど、当時の息吹のようなものは想像するしかない。
 で、想像する。
 沖縄のこと、ベトナム戦争のこと、アメリカと日本の関係、労働者の地位の向上、格差、差別のない社会、経済にばかり牛耳られる社会への「人間回復」の思い…

 いきなり話を自分に引きつければ、私にとって大学は全く意味がなかった。みんな、「社会人になる前の、貴重な最期の遊べる時間」「学歴をつけたいから」そんな理由で来ていたようだった。自分は、「面白い人間と出会いたい」ことが第一希望で、大学に行った。無職じゃイケナイし、身分証明証があって初めて「自由な時間」を持てる安心感のようなものもあった。
 まわりにいた「みんな」と決定的に違ったのは、社会人になること、卒業することを前提にしていなかったことだ。そこには、たいして重きを置いていなかった。

 いつのまに、学歴はあった方がいいのが当然のようになったんだろう。
 大学の教養課程なんて、ほんとに無意味だと思った。こんな時間を過ごしていることに、どうして誰も疑問を持たないんだろうとも思った。これで「学歴」が付いて、イイ企業、ワルイ企業に振り分けられるなんて、どうかしていると思った。
 いかに無意味な時間に耐えられるか。そんな人間をつくり出すのが大学なのかと思った。いや、無意味を無意味とさえ感じない、完全不感症な人間をつくる工場のようでもあった。

 高野さんの手記を読んでいると、自分が大学に対して持っていた疑問が、ふつふつと湧いてきた。
 そう、社会に対して、この「世の中」と呼ばれるところへ、自分も何かしたかった…大学は、たいした所ではない。こんなの、解体した方がいい。そうすれば、学歴社会も、変わっていくんじゃないか…
 何年前か、少子化社会になって、子どもの数が少なくなれば、学歴を競うこともなくなるだろうと思ったが、「少ないからこそイイ学校に行かせたい」という親が多く、驚いた。

 こんな社会は間違っている、国家よマトモになれ、といったような思いを、何やら活動という形で、実行していた時代が、学生運動のようだった。少なくとも、私の大学生時代には無縁の空気。今も、だろう。
 しかし、高野さんの本を読んで、やはり暴力には反対したい。これだけは絶対にダメだ。何が正義で悪だろうが、人が人を殴ったりしてはいけない。
 しかし、どうしてこんなにも、あきらめがよくなったんだろう。今の政治や社会に、不満を持っている人は、何を考えているんだろう。変えられやしない、もう、仕方がない、と、ほんとに思えるものなんだろうか。
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