第17話 椎名麟三のこと(2)

文字数 1,323文字

 この怪物のような名前の作家の、作品は重い。
 軽めのものとしては、「美しい女」(これは、文部大臣賞をとった作品。椎名さんにとって、意外な場所から入った光だったろう)。エッセイでは「母の像」「猫背の散歩」、ぎりぎりのところで「凡愚伝」。いずれも、もう絶版になっている。

 椎名さんは、ぼくにとって、生きていく上で欠かせない人だった。これからも、そうだろう。なぜか? 椎名さんほど誠実な作家、文学者を、他に知らないからだ。もちろん知らないだけだけど、あのような文を書ける人は、「誠実」という以外に全く言葉が見当たらない。
 あの時代…といっても、リアルに知っているわけではないが、椎名さんがいて、太宰がいて、三島由紀夫がいて、そして若き日の大江健三郎がいた時代。とんでもない時代だったと思う。

 ああ、「媒酌人」という小説も、軽い。これは椎名文学を研究していた外国人さんが英訳をして、海外でも発売されたはずで、読み易く、楽しい読み物だった。あとは「自由の彼方で」「神の道化師」(いずれも自伝的小説)も翻訳されている。キリスト者となってからの椎名さんは、平易な文体だ。

 まったく、いつ自殺してもおかしくない人だった。ひとつ作品を書き終えるたびに、「もう書けない」となって、死ぬことばかり考えていたと思う。ぼくの友達の画家が、「あ、そりゃ本物だったんだな」と言ったが、まさしく全身全霊をかけて書いていたのではなかったか。初期は自伝的小説が多かったのも、何か椎名さんが吐き出す「生きてきた責任」のような重さを、感じた。そしてやはり、重かった。
 椎名さんの文学には、「死」が必ず現れた。常に、死、それも精神的な死、を自身の中に持ち、それと戦っているようだった。

 共産党員として逮捕される前、姫路から東京へ向かう電車の中で、出入りする乗客に対し、あいつが特高だろうか、こいつが特高だろうか、とビクビクしながら座っている椎名さんは、まさに生きている心地がしなかった。実際、トイレに行くにもひどい覚悟を要し、乗客の一挙一動にも限界を越えそうな緊張をし、「ダメだ、こんなんじゃ、とても生きて行けない」と絶望している。

 椎名さんが、あれほど「自由」に強くこだわったのは、そんな絶望をする自分自身から、自由になりたかったのだと思う。その後の生活の中でも、小さなことで、ことあるごとに死にたくなっていた。そのような自分から自由になるには……畢竟、自殺しかないではないか。

 だが、椎名さんは、脳溢血か心臓病で死ぬまで、しっかり、生きた。それだけで、ほんとにぼくは嬉しい。キリストだろうがアッラーだろうが、何でもいい。椎名さんは、自分でほんとうに考え、神らしきものを己に携え、狂信することなく、自分が生きるために、自分を主体として、それを己におさめ、生きた。そうして、あれだけ多くの言葉を残してくれた。

 椎名さん、もう、苦しまなくて済むね、狭心症、「心臓さま」の発作にも、生きてることにも、もう、堪えなくていいんだね…亡くなった時の、全集の月報を読んだ時、ぼくは、なんだかホッとする思いもした。
 あなたが、あんなに苦しんでも、生きた。それが、どんなに、ぼくの支えになっていることか。
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