第33話 三島由紀夫

文字数 1,363文字

 私は、この人の著書よりも、この人自身に興味をもつ。
「悲劇を演じたいのだけれど、わたしがやると喜劇になってしまう」と、自分を言った、三島由紀夫。
 何かになりきろうとしていた、プロレスラー的な人だったような気がする。
 その最期は、精一杯の演技の果てだったような気がする。
〈 舞台でほんとうの自分になり、日常で演技をする 〉人だったのかもしれない。

 オトコは、とかく何かになりたがる。変身願望が、男女共通にあったとしても、どこかが違う。プロレスでも、女子のそれは、「男性の視点」を捨てて成り立っていないように思えるし、男子のそれは、どこまでも自己満足・自分に向けての矢印が太く、さして異性への意識が女子ほどにあるとは思えない。

 三島も、ボディービルをやっていたそうだが、べつに女にモテたくてやっていたとは思えない。何か、自分に「つけたい」ものがあったのと思う。
 もし三島が、もっと背が高く、自分に満足のいく容姿であったなら、また別の人生、物語がつくられていたように思う。しかし、彼の神は、彼にそれをしなかったのだ。

 彼の神は、彼を自衛隊の駐屯地に導き、そこでの自決を彼に命じた。私が、ほんとうに苦しかったろうなあ、と思わずにいられないのは、介錯の際、介助人がその首を上手にハネ切れず(初めての介錯だったのだろう)、ずいぶん苦しんだらしい、その時間である。悲惨な、たいへんな苦しみだったろうと思う。

 私は、この作家を憎めない。とことん、イッてしまった人だと思う。好きでも嫌いでもなく、気になるのだ。「よくやったなあ!」という感嘆、畏敬とは違う、驚嘆とでもいうのか、呆れるとも違う、ただ、すごいなぁというか、妙な気持ちにさせられる。ともかく、「憎めない」と、強い口調で言えるような気分になる。

 たまに、この国、ジャパンが、一神教であったらなあ、と思うことがある。というのも、絶対的なひとつの柱、誰もが同じ方向を向く(それはとても怖いことだけれど)、そういうものがあった方が、少なくともその方向だけは、明確に決まるだろうからだ。
 キルケゴールがあれだけキリスト教について書け、ニーチェが「神は死んだ」と言えたのも、その柱があったからと思えるからだ。ダンテにしてもドストエフスキーにしても、キリスト教を抜きに、あれらの作品は書けなかったように思える。

 三島は、この国にも、一本の強固な柱が欲しかったのではないかと思う。それが、あの人を熱狂させ、固執して、自身を死に至らしめる、何かだったのだろうと思う。
 この世で、この国で、自分の最後の生命を賭ける場所として、あの人は、あの時代のあの日の、あの時でなければならなかった。
 誰に命じられたわけでもなく、彼はとことん、「三島由紀夫」であることを貫徹した…と言っていいのか(自ら死ぬことが貫徹といえるのか)…、どのようにも表現できない、ただただ、彼自身が一種の天皇になってしまったような、そこまで人間、イケるのか、といったような、とんでもなさだけを感じる。

(「潮騒」と「仮面の告白」をかじったが、途中で挫折した。言葉も沢山知っていて、きっと美しい?日本語、文体なんだろうけれど、やっぱり僕にはそれが装飾に感じられて、ダメだった。ボディビルの筋肉同様、三島さん、つけすぎだよ、と思ってしまった…)
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