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文字数 6,083文字

 来店予定者の数やチラシ配布の有無などにより、真実のほうが週末空かない日もある。半月前に翌月の出勤日が決まるのだが、彼女を指名する客も増え、急きょ出勤せねばならないこともあった。とにかく真実に迷惑をかけたくないとの恵介の要望で、二人はデート前に、一回ないし二回、それも夜九時以降に電話で連絡を取り合うことしかしなかった。
 その電話は、デート翌日という、これまでかかってきたためしがない曜日で、時間帯も夜八時と早かった。
 恵介はキーボードから手を離し、ベッド側にそっぽを向いた置時計を反転させた。シャワーを浴びて、執筆を再開したばかりだったので、予測したとおりの時間だった。一瞬、思案に暮れた顔をしたものの、すぐに満面の笑みを浮かべて、テーブルの上の電話に駆け寄った――『もう声が聞きたくなったのかい? しかたないなぁ』。
 彼女以外、定期に電話をかけてくる相手などいない恵介は、かかってくるものすべて同じ着信音なので、画面を見るまで、相手が誰だかわからない。番号の羅列する表示を見て、登録済みの真実からの電話でなかったことを知った。
 張り合いをなくした恵介は、無視して執筆に戻ることも一瞬考えたが、着信音が鳴り続けるのもわずらわしく思われたので、ベッドに身をもたれ、なおざりに電話に出た。
「はい、もしもし」
 三秒の無音のあと、慎重に言葉を選ぶ、女性の声が聞こえた。
「……そちら、市崎恵介さんの携帯電話で間違いないですか?」
「ああ、そうだよ。なんだい、新人さんかい?」
「エッ?」
「えらく緊張してるようだけどさ」
「……ええ」
「それで、どこに来てくれって言うのさ。もっともどこだろうと、週末行く暇はないけどね」
「あの、勘違いされているみたいですけど――」
「そうそう、今のはいい切り返しだ。話を長引かせるのにはね。きみんとこのマニュアルには、『なんでもいいから、とにかく話を引き延ばせ』って書いてあるんだろう。議員立候補者が握手をしに駆け寄るように、とにかく親近感を植え付けろってね」
「……あなたがそんな人だとは思いませんでした」
「うへぇ、大きく出たな。きみはおれを名前から、どんな人間だと想像してたんだい? それとも何か、おれと会ったことがあるとでも言うのかい?」
「いえ、会ったことはありません」
「ちぇっ、そこは真面目に答えるだ……。おれはきみと会ったことにしたかったな。仕事がうまくいかず落ち込んで、居酒屋で一人飲みしていたきみと意気投合し、二軒はしごして、真夜中、きみをきみが望むままにきみの家まで送り届け、紳士然として立ち去った男としてね」
「……会ったこともない女に、そんなことを言って、よく恥ずかしくないものですね」
「会ったことがないからこそ言えるんだよ。ところで、そういった場合、おれは細かいことが気になるたちで、きみをベッドに寝かせたものの、さて、玄関の鍵はどうしようかと悩むことになる。最近は物騒な世の中になったものでね。無施錠だと、勝手に入り込んで、人が寝ていようとかまわず物色するならず者がいる。あるいは、そんな施錠し忘れた女を狙ったものも。で、おれはこういうメモをテーブルに残して、玄関を施錠し、立ち去るんだ――『玄関の鍵は、ドア下の隙間に差し込んである。安心しろ、触ったのはそれだけだ。では、おやすみ』とね。いや、きみの不安を解消するために、もう一筆書き添えておくとしよう。なにしろ、きみを寝相よく寝かしつけて帰ったにせよ、スカート姿だった場合、起きたときには、あられもない格好になっているおそれもあるからね――『きみのキスを拒んだために二、三発殴られた介護者より』とね」
 女性はほぼ同じセリフを繰り返した。
「会ったこともない女に、よくそんなことを言って、恥ずかしくないものですね」
「重ねて言うが、会ったことがないからこそ、言えるんだ。それにまぁ確かに、少々恥ずかしくなってきたよ。それにしても、きみのスタンスは冷たすぎないか? それで引っ掛かる男がいるとすれば、相当なマゾヒストだな。あいにくおれは違うんで、電話を切らせてもらうよ」
「ま、待ってください!」
「うん、一回待とう。ただし、次はないぜ。容赦なく切るし、忙しいんで電源も落とすから、その覚悟で」
「わたし――寺塚翼って言います」
「うん。で? まさか、こういったときに名乗った名前を信じろというんじゃあるまいね?」
「き、聞き覚えはないですか?」
「あるはずがない。翼っていや、男みたいな名前じゃないか。一回聞いたら……」ベッドに立て肘をついて、読みかけの小説に目を向けていた恵介は、反射的に小説を払い飛ばし、即座に身を起こした。その背中にじんわりした冷や汗をかき始めた。「エッ、まさか、きみ……真実さんの友達? 同級生だった、ていう?」
 形勢逆転を思わせる、溜息まじりの雑音を乗せた声が、受話器越しに聞こえた。
「『真実さん』ねぇ。ふ~ん、そう呼んでるんだ」
 携帯電話を握りしめて、即座に彼は問いただした。
「か、彼女に何かあったのかい!」
「『彼女』? あなたの言う『真実さん』なら、元気だったわ。四十五分前に別れたときまでは」
 何はともあれ、ホッと胸をなでおろした恵介であった。
「怒ってるんだね。すまない。押し売り目当ての飲み会の勧誘かと思って。若い女性からのそういう電話が、頻繁に――いや、週に一、二回の頻度でかかっていたものだから……。し、しかしね、真実さんは、『真実さん』以外の呼びようはないんじゃないかな? て、寺塚さん」
「少なくともわたしは、そう呼んだことは一度もないわ」
「そりゃそうだよ、きみは女友達なんだから。おれだって男友達の下の名前を、さん付けでは呼ばないよ、まず間違いなく。でもね、よく考えてごらん。『一度もない』というのは言い過ぎだと思うな。いくら、ぼくの態度に腹を立てていてもね。出会った頃には、きっと一度くらいは言ったことがあったはずだよ」
「ないわ、一度も!」
 彼は引き下がることにした、すでに聞く耳を持たないほど腹を立てているとの認識から。
「……わかった。ぼくが悪かった。で、その、何のご用かな?」
 しかし、それにも耳を貸そうとせず、寺塚翼はまくしたてた。
「いい? 一度だってないわ! それにね、そんな変な名前であの子を呼ぶ人なんて、この世にあなた以外一人もいないわ」
 さずがの彼も、襲いかかる竹刀のごとき口撃に、防御の構えをとって応戦した。
「いい加減にしてくれ! ぼくならいくらけなそうとかまわないが、真実さんを傷つけることは、誰だろうと許さない。きみは友達だろう? 恥ずかしくないのか!」
 勝ち誇ったように彼女は突っ返した。
「その言葉、そっくりあなたに返すわ」
 腹を立てているとき、理屈などなくとも、とにかく意味ありげな言葉で相手をののしりたくなるものである。恵介も彼女の発言をそのように受けとめた。彼女はすでに、ヒステリーになっているのだろうと彼は考えた。
「……意味がわからない。悪いが、もう切るよ」
 しかし、そうはさせまいと、言下に凄愴な声が彼を責め立てた。
「あなたがやったことで褒められるのは、『傘の件』くらいよ。でも、そのお礼にしては欲張りすぎなんじゃないっ」
「……」
「切ってないわよね。切ったら許さないわ。それにね、あの子の夢は、車を売ったり、貸したりすることなんかじゃない。皮革をなめすことから始める、カバン職人だったのよ。工房への就職だって、ほとんど決まりかけてたんだから。それをあんたなんかに出会ってしまったために……」
 恵介はわれともなく立ち上がり、全身をガタガタ震わせながら、引きつる唇と回らぬ舌で問いかけた。
「き、きみは、いったい、なにを、言って、るんだ?」
「まだわからないの! あの子はね、長田真実なんかじゃないのよ」
「じゃあ、いったい、誰だというんだ!?」
 泣き声となった寺塚翼の声が、彼の鼓膜に響いた。
「お兄さんが亡くなる前に口にした、あんたの『力になってあげてくれ』との遺言を守るために、いっさいを投げうって行動を起こした――小笹麻美よ」
 刹那、粘土の塊で思いっきり後頭部を殴られたように、恵介は床に倒れ込み、四つん這いになった。はげしい嘔吐感に襲われ、口を大きく開いたが、胃液すら出てくることはなかった。肺がけいれんを起こし、ごく少量の空気の吸っては吐きを繰り返した。電話は離さず握っていたが、倒れ込んだときにこぶしを痛め、すりむけたところから血がにじんでいた。その手の内側にある小さな穴から女が必死に呼びかけていたが、彼にはまったく聞こえなかった。
 二度見た、この世の悪を見るような顔――、
 初めて手に触れたとき飛び退いた姿――、
 病室のドアの隙間から盗み聞いた「あたし、あの人、嫌い」との虚飾なき発言――、
 ファストフード店で見た仕立てのいい本革のトートバッグ――、
 出会い、ストーカー扱い、付き合うまでの駆け引き……偽り――、
 彼女の部屋の作業机とカバン掛け用のポール――、
 画材屋で立ち止まったときの彼女の横顔――、
 ベッドの上、覆いかぶさったときの最後の顔――、
 いたるシーンで見た、いくつもの笑み――、
時間軸と無関係に、その場面が思い浮かぶたびに、彼の身体は赤子のようにビクついた。
 何度も空唾を呑み込み、こもった声の出所にようやく気がつくと、まるであらがう電話を引き寄せるように、耳に押し当て、彼は言った。
「なぜだ……なぜ、そんなことをした?」
 麻美を思うと翼も悲憤慷慨した。
「わたしだって、知るもんですか! 何度も聞いたのに、麻美は教えてくれなかった。『つらいんじゃないのよ』と、にっこり微笑むばかりで。あんたが知らないなんて……。わけがあると信じていた。そんなのあるはずがないのに。人生を捨ててまで、他人に尽くす必要なんてないのはわかっていたのに。こんなことなら、もっと早くあんたに言っておくべきだった。このことは他の誰でもない、わたしが担わなきゃならない役目だったのに……」
 ある意味、彼の溜飲は下がったが、下がった溜飲は灼熱のようだった。
 彼は、両肘をついた四つん這いのまま首を真横に向け、恐ろしい形相で誰もいない薄暗い玄関を見つめ続けた。そして――微笑んだ。
「……そうかもしれない」
「エッ? ハ? あんた今、なんて言ったの!」
「つまり、きみはおれがこのことに気づいてなかったと思っているわけだ」
「あ、あんたまさか、あの子が麻美だと気づいていたのに、これまで……いや、でもさっき」
「間というものはありがたいな。どうとでも受け取ってもらえる。ペットボトルのまま水を飲んだら、むせてしまうことがよくあってね。で――どうする?」
「……あんた、麻美から聞いていた人と全然違うわ」
「誰にいい格好しないって、彼女の女友達しかいないだろう?」
「……ろくでなしね、あんた」
「その口ぶりだと、きみからは明かさないほうが賢明だろう。むろん、この電話の話だが。真実、いや麻美は、この電話のことは知らないはずだ。きみは義憤を起こし、彼女の私物を見た際、この電話番号をこっそりメモしておいて、抜け駆け的にかけたんだろうからな」
 図星だった翼は、状況が不利になるのを恐れて結末を急いだ。そのとき翼は、麻美が自分と親友になるきっかけの出来事まで、彼に明かしたのではないかと勘繰ったが、事実は教えていなかった。
「あんたは……それであんたは、何を約束してくれるの?」
「きみのお望みどおりさ――彼女から手を引くよ。こうなってしまったからには、どうしようもない。ただきみから言うよりも、はるかに彼女を傷つけないようにはできるだろう。おれが『別れたい』って言や、彼女はどうしようもないんだし」
 矢継ぎ早に、翼は確認を求めた。
「で、いつ言うの?」
「こっちもいろいろ準備があってね。一週間の猶予をくれ。来週までには片を付ける」
「本当でしょうね? 何かを企んでるんじゃないわよね?」
「いつものように、彼女に会うなり、電話するなりして、聞いたらいいさ。おれが何かしなかったかとか、貯金を無駄に使ってないかとかね。ただし、この電話のことだけは言わないでくれ。なぜって、話がややこしくなるからね」
「聞けないわ……聞けるもんですか……」
 翼のすすり泣く声が聞こえた。
「じゃあ、黙っててくれ。一週間だけなんだから。悪いが、もう切るよ。彼女から電話があったとき、誰と電話してたのか聞かれても困るんでね。プッ、ツーツー……悪いね、翼ちゃん。おれの場合、本当に困るんだ」
 それからしばらくのあいだ、恵介は携帯電話を握りしめたまま、目を閉じ、眉を寄せ、唇をかみしめた状態で、部屋の真ん中に立ちつくしていた。三分後に刮目するや、自分の部屋を一周見回し、何かしらの安堵を得ると、落ちた文庫本を拾い上げ、そのまま歩き出してパソコン前に座った。
 マウスホイールを動かし、古いページを確かめながら、恵介は画面に向かって話しかけた。
「柊一、おまえがやったことなのか? だとしたら、友達甲斐はあっても、兄貴としては最低だぞ。去年の命日前日、おまえの墓前で語ったことを彼女、盗み聞きしたんだな。そうなんだろ、柊一。鉢合わせしないように、命日は避けたんだけどな……。小説の成功をおまえに依頼するんで、退職して以降、いやその前年からか、手土産がわりに供花したのが、どうもよくなかったらしい。しかし、『長田真実』とは、彼女も考えたものだな。名字の聞こえ方が似ているから、万が一おれの目の前で同僚に呼ばれても、言い訳が利く。それに、麻美はマミとも読めるからな。おれに正体がばれぬよう偽るにも罪悪感が少なくて済むわけだ。案外、小さい頃のあだ名で、そう呼ばれたことがあったのかもしれないな。真実という字を選んだのは、そうやって自分の胸にナイフを突き刺したつもりだったのかもしれない……。柊一、おれわかったよ。小説を書くのに必要なのは、文学的資質だけではない。それに負けず劣らず必要なものがある。『絶望』ってやつさ。すがるものがあるやつは、まだペンを握っちゃいけなかったのさ。それを今、教わったよ。新たな筋が浮かんだわけでもないのに、いいものが書ける絶対的な自信があるんだ。おれ、今度こそ小説家になるよ、柊一。おまえだけは見ていてくれ。その代わり、いっさいの過去を捨てることになるが許してくれ。麻美ちゃんも、そして真実さんも」
 マウスから手を離した彼は、左手でキーボードの[Ctrl]と[A]のキーを同時に押し、これまで書いてきた第一稿完成間近の文章全体を選択すると、人差し指と親指を添えた右手の中指で[Delete]キーを押し、原稿が真っ白になった上で、それを上書きした。これは復元できぬという意味で、フォルダを消去するより、はるかに確実な手であった。『せっかくの原稿をなぜ?』と思われるかもしれない。しかし、彼にしたら当然のことである。今の彼にとって、このヒロインを書き続けるほど酷なことはないのだから。
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