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文字数 3,512文字

 二年後――。
 仕事にまい進した小笹麻美は、名実ともに男性社員をしのぎ、店舗では一番の成績を収めるようになっていた。必要に応じて、受付から整備の指示までこなす彼女は、店の顔となりつつあった。休みの日も極端に減った。休みを取らない社員に、休みを強制するのは店長の役目であったが、彼女を休ませると、客足は減り、来た客もすぐ帰るので、悪天候さながらショールームが閑散となる状態が続いた。そのため、彼女を容易には休ませられなくなっていた。予約状況を見て、仕事終わりにいきなり『小笹君、悪いけど、明日休んでくれないか』と頼むことも少なくなかった。明日は当然やることが決まっていたのだが、その申し入れに疑問符がないように、彼女に是非はなかった。席に戻った彼女は、予約にはいたらない(車検の説明などを求める客に)個人的に訪問して説明する旨の電話をするはめになった。男性社員の中には、この状況を好ましく思わないものもいて、彼女が接客のため席を離れると、『客にばっか愛想ふりまきやがって』『色目使って、買わせてるだけだろ』との誹謗が飛び交った。しかし、彼女は無意識に相手の目をじっと覗き込むことはあっても、色目など使うはずがなかった。彼女自身、接客の仕事が好きだということは、この店に勤めて初めて、自分でも驚きをもって気づかされたことだった。しかも、彼女の人気は、男性客よりも、はるかに女性客のほうが高かった。滅多に来店しなかった主婦たちが、ちょっとでも車の調子が悪くなると、買い物ついでに来店し、彼女を手招きで呼びつけ、どうしたらいいか指示を仰いだ。そして麻美は、相手のスケジュールを聞き取り、日常生活に不都合が生じないように、うまく処理した。彼女を指名する客が増えるには、増えるだけの理由があった。男性社員は朝九時に来て夕方六時には帰り、規範に従って仕事をこなすだけだが、彼女はそれに留まることのない、プライベートの時間を削り、その垣根を下げてまで仕事に専念していた。それゆえ、何度、お客から見合いの誘いを受けたことか……。
 その裏返しに、店の内部での彼女の心証はあまりよくはなかった。なにより麻美の立場を悪くしていたのが、彼女が未婚の男性社員の半数から受けた交際の申し込みを、すべて手ひどく突っぱねたことに起因していた。『毎朝顔を合わさなきゃならないのに、どうして軽々しく、そんな申し出ができるのだろう?』彼女は思ったものである。それまで店の中でも、出社一番、明るく挨拶をしていた彼女であったが、次第に挨拶の基準は振った相手にする事務的なものへと変わっていった。
 そんなある日、突然、彼女は店長に呼び出しを受けた。
「高砂さんから、きみにクレームがあってね」
「エッ、高砂さんから……あの、どういった?」
「昨日、納車した車なんだが、傷があると言われるんだ」
 彼女が息を呑んだのは、反省とは別の理由であった。
「……どこにあったのでしょうか?」
「うん、リアフェンダーの左後部座席のドアの下のほうに、長いひっかき傷があると言われるんだ」
「そんな! うそです。わたし、ちゃんと納車前に確認しました!」
「しかしね、メールで画像が送られてきてるんだよ。確かに傷が見てとれるんだ」
「……」
「あのときは、暗くなってからの納車だったよね。見落としたんじゃないのか?」
「車は……車は、朝には洗車した状態で届けられ、届いたときと、納車前にも投光機で全面を照らして確認しました。そのときも、そんな傷はありませんでした」
「『そんな傷』って、きみ、見たわけじゃないだろう」
 彼女は断固とした姿勢で主張を通した。
「『そんな傷』であろうとなんであろうと、傷はありませんでした。納車したときも、高砂さんの玄関前、街灯のある明るい場所で、一緒に確認しましたし。そうです、同行した輝国さんに聞いてください!」
「輝国には先に聞いたよ。『一応確認はした』との返事だった。しかしね、先方は暗くて見えなかったと言ってるよ」
「あの人が『夜にしてくれ』とおっしゃったんです。そのうえで、わたしにはわざわざ『ずっと家にいた』と明かしてくれました」
「きみは、あの人に言い寄られた過去があったね。言い値で買う代わりに、関係を迫ってきたと」
 返事をすること自体が侮辱とばかりに、麻美は口を閉ざした。
「わたしにはわからないよ。ただね――」
 思わぬ方向に事態が転びそうなのを感じて、麻美はその発言を性急に押しとどめた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 店長、何が『わからない』のですか?」
「うん? いや、確かに、あのスケベおやじ――いいかい、ここだけの話にしてくれよ――なら、こんなこともやりかねない。しかしね、あるいはもしかすると、きみが仕返しとしてやったという可能性もゼロではない」
 彼女にしてみたら血の気の引く思いだった。すべてをなげうって奉仕してきた店のトップが、自分を信用していなかったのだ。海女が呼吸の限界まで潜っていられるのは、ロープを持つ舟上の人間がいつも気を張って、どんな変化の機微も逃さず見ていてくれると信じているからである。今の彼女は、ゆくりなく浮上したところ、たゆんだロープの向こうで、タバコをくゆらす相手を見てしまったときのようだった。
「て、店長は、わたしがやったとお思いなのですか!」
「いや、違うよ! そうじゃない! ここで大事なのは、わたしがどう思うかより、起こりうる可能性――つまり蓋然性のことを言ってるんだ」
「……」
 彼女にはもう、返す言葉すら見つからなかった。
「きみだって、いい加減わかるだろう。こういう状況に陥ったとき、いつも不利なのは、われわれなんだ。悪いが、謝罪に行ってもらいたい。むろん、別の人間もつけるから」
 彼女は悲痛な声で訴えた。
「会社は――会社は、社員を守ってくれないんですか?」
「むろん、守るさ。守るが、そのために会社の売り上げを落としたら、本末転倒だろう? 高砂さんはね、きみが勤める前からの、上お得意さんなんだ。三台もの外車をローテーションで買い替えてくださる。車検も全部うちだ。それが丸ごとよそに移ったら、どうなるか、きみにもわかるだろう」
 歯噛みした唇を解いて、彼女は言った。
「……謝罪なら、わたし一人で行きます」
「わかった。その旨、先方に伝えよう。ただし、きみ一人で行かせるわけにはいかない。なんならわたしがお供しよう。そのほうがきっと穏便に片が付くだろうから。気は早いが、次の車のことも話の俎上に載せねばならないからね。ともかく、明日のいずれかの時間に行くだろうから、必要ないとは思うが一応台車の手配と、三千円ばかしの菓子折りを買ってきておいてくれ」

 麻美は早めの退社を許してもらい、その足で兄の墓前へと向かった。その日はちょうど月命日だった。霊園の閉門時間は早く、閉園間際に着いた彼女は、事務所に寄らず、そのまま墓前に足を進めた。影を長くした桜の木が、風に葉をざわめかせていた。今日に限らず、拝むときはいつも、墓石は濡れていたため、なにも不思議に思わなかった――それどころではなかったからでもあった。
「お兄ちゃん、わたし、こんな寸善尺魔な世の中に、未練なんてない。早く、お兄ちゃんのところに行きたい。どうして連れて行ってくれないの? 行きたいよぅ……」

 駅を出て、悄然と帰宅するさなか、ふいに突き上げるような激しい腹痛が彼女を襲った。みぞおちの辺りからくる痛みだった。彼女は両膝をついて、その場にうずくまった。激しい苦痛に歪んだはずの顔に、無理につくろった笑顔が浮かんだ――『やっと……やっと、迎えに来てくれたのね、お兄ちゃん……』。
 激痛で彼女の五感は瞬間的に、ほぼすべてが奪われたが、かすかな感覚から、彼女の肩を抱き、声をかける人物がいることに気づいた。視力のよい彼女であったが、今は視界がぼやけ、涙で滲み、焦点も定かではなかった。わかるのは、それが男で、髪が長く、細面で、眼鏡をかけていることくらいだった。彼女は一生懸命、眼鏡に目を凝らした――間違いなく縁なしの眼鏡だった。声が耳に届いた。
「麻美……麻美……大丈夫か?」
 アクセントが強い部分だけが聞こえたようだった。
「……柊一、兄ちゃん……」
 彼女は思わず、両手を差しのべたが、頭から地面に倒れそうになり、すかさず男が抱きとめた。
 男は会話をあきらめ、麻美を胸に抱きあげた。そのとき、麻美は思い出したものである、コタツで寝入った麻美を柊一が抱きかかえ、二階のベッドに連れて行ってくれたときのことを。そのとき麻美は、用心しいしい階段を上がる兄の顔を薄目を開けて見ていたのだった。
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