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文字数 3,264文字

 その日を機に、ディーラーに近づくと、彼は店舗から離れた車道側を歩き、過ぎゆく車のタイヤホイールを見比べつつ、できるだけ早く店の前を通り過ぎることにした。本当は、店前を避け、対岸の歩道を通りたかったところだが、そうまですると次の信号まで、五百メートルは歩かねばならず、八百メートル近く無駄歩きをさせられることになった。ただでさえ、このとき恵介は空腹の状態である。しかもその信号は押しボタン式で、変わるのも異常に遅かった。
 こうして、行きと帰りの一部区間だけ早足になる朝のファストフード店通いは、一週間以上続いた。そんなある日、いつも以上に空腹感を覚えた恵介は、マフィンを一つ持って帰ることにした。特に最近、腹の出を気にしだした彼は、先日テレビで空腹だからといって立て続けに食べるのはよくないといった管理栄養士の言葉を覚えていたのである。『帰って、まだ腹が減っていたら食べよう。そうじゃなけりゃ、昼食の一部にしたらいいし』――しかし、これまでも何度かそういうことがあったが、マフィンが完全に冷めきるまでテーブルの上に残っていたことは一度もなかった。
 マフィンが入った紙袋を手に持って帰路に就いていたときだった。突然自動ドアが開き、『彼女』が走り寄ってきた。車道に目を向けていた彼には、死角から不意を突く形となった。彼はだしぬけに警察官に呼び止められた外国人のようにたじろいだ。
 彼女は、最後に会話した半分の距離まで臆することなく近づくと、挨拶なしに彼に迫った。
「あ、あの、まさか――ソレだったんですか?」
 棒を飲んだように立ち尽くす恵介の持つ紙袋を、彼女はいくぶん震える手で指さした。
「へ? は? な、なに?」
 恵介は紙袋を胸の高さまで掲げて見返したが、『ソレ』の意味するところがさっぱりわからなかった。この紙袋は間違いなく、ハンバーガーショップで買ったばかりものであり、怪しいものを隠し持ったり、誰かから預かったりしたものではなかったので。そもそも彼女も女性警官でも何でもないのだが。
 怯えきった男を見てとると、彼女は自ら冷静になるために、一つ深呼吸をして見せ、穏やかな口調であらためて彼に問いかけた。
「そのお店で食事をされるために、毎朝この時間ここを通ってられたんですね?」
 彼にはまだ、彼女が真剣なまでに確認をはかる意図が理解できなかった。
「う、うん。そうだけど……」
 しかし、その理由を解さぬ不安な態度こそが、彼女の疑惑を完全なまでに払い飛ばした。
「わ、わたしったら……」首元から紅潮がせり上がり、赤く染まった頬を両手でおおい隠した彼女であったが、われに返るや態度を一新し、膝の上で手を重ね合わせて深々と頭を下げた。「ごめんなさい。ここを通るわけがそうとは知らなくて」
 日が差してもやが晴れるように、やっと彼にも、この一連の出来事の得心がいった。
「そうか、きみはそのことを知らなかったんだよね。ごめん、伝えそびれて」
 安堵から気が抜けたように話す恵介を、彼女はいじらしそうに見上げた。
「どうして、あのとき――この前会ったとき、そう言ってくださらなかったんです? 『朝食を食べにここを通っているんだ』って。それとは逆に『ごめん』なんて言うから、わたし、『やっぱりそうなんだ』って」
「いや、あのときの『ごめん』は、そうなってしまったことに対して言ったまでで……その、やっぱりごめん」
 恵介としても、不明確な態度をとったことに対し、今一度しかるべく謝っておくつもりで頭を下げたのだが、彼女はそれをよしとするどころか、かえって言葉尻をとらえて言い返した。気恥ずかしい勘違いをさせられたことへの意趣返しのつもりもあったのだろう。
「アメリカでは謝ったほうが全面的に悪いんですよ。自動車事故に遭ったときには、絶対に謝ってはいけないんだそうです」返事に窮する恵介に、彼女はこれまでにない優しい口調で語りかけた。「でも、相手を思いやって、自分の過ちを先に認める日本人のほうが、わたしは好きですけど。ともかく、今回はわたしが『ごめんなさい』です――では、失礼します。その、いってらっしゃい」
「アッ、うん、いってきます……」
 相も変わらず、彼側の返事は尻すぼみとなった。
 帰る道すがら、恵介はわれとわが身に問いかけた――『どうしておまえは、あんな煮え切らない返事になるんだ? まったく情けないやつだ。なに、〈理由がある〉だと? ふん、それくらいわかってるさ。一日のうちで唯一予定として組み込まれた外出であり、その帰宅中なのに、一体おれはこれからどこへ行けばいい――と言うんだろ。チェッ……。だが、そうじゃない。こう考えればいいじゃないか。彼女の〈いってらしゃい〉は、なにも今日という日だけを指してるんじゃない。もっと期間の長い、いわば将来の門出に向けられたものと。フッ、安心しろ。忘れちゃいないさ。彼女が偽らざる本心として明かした――〈気があるように思われたら、心外です〉って言葉はな』。

 ともあれ、こうして和解にいたった二人の関係であったが、進展というよりはもっぱら振り出しに戻っただけであった。その後、恵介は、ディーラーの前を通り過ぎる際には、早足でこそなくなったが、なかを覗かないよう心掛けた。『出会ってしまった二人』が、その関係を『振り出し』に戻す場合、『一からやり直す』つまり出会った頃に関係を戻すのが通常であろう。ゼロ――すなわち、既成事実を消せやしないのだから。しかし、孤独な生活が長く、元来慎重肌で人見知りの恵介は、既成事実をねじ曲げてでも、彼女との関係を、出会い前の状況に戻すのが最良であろうと決めつけた。何はともあれ、ああいったことがあったあとでもある。ともかく、これ以上彼女に気を遣わせたくはなかったのだ。挨拶にしろ、あの場で言葉を交わすかぎり、制服を着た彼女は仕事上、接客の態度で臨まなければならなくなる。彼は運転免許こそ持っているが、自前の車を持たず、購入する予定もない。客として口を利くにも値しない男である。それに、すでに言わずもがなだが、彼は自分の身の上を、市民でもはしくれと位置付けていた。ともかく、一度など、横道を出て、大通りに入った段階で、彼女がほうきを持ってカーポートを掃除していている姿を小さく視界にとらえるや、彼は信号を渡らず、対岸の歩道を大回りして、逆の方角からファストフード店に向かったことさえあった。このときばかりは空腹も後回しになった。
 新たな小説の構想さえ浮かばない、忸怩たる日々が過ぎた。しかし、それほど切羽詰まらないのは、前の小説の出来に、やはりかなりの自信があったからだろう。ベッドに寝転んで、小説を読むだけで一日を終えることもあった。あるいはもしかすると、彼女ほどの容姿端麗な女性を前にして、さほど気後れすることなく、比較的対等に会話ができたのも(彼はあれを対等とみなしていた)、ひそかにこの効果が働いていたのかもしれない――『きみは仕事熱心な社会人であり、若いのに高雅な美しさを兼ね備え(目鼻立ちもしっかりしているが、いま思うのは、顔の輪郭――特に心持ちふっくらした顎の曲線が素晴らしい! 瓜実顔が美人の象徴とは、昔の人はよく言ったものだ)、最初こそ冷淡に見られがちだが、きみ自身は決してそんなことはなく気立てもよい。会話ができるだけでも、光栄を浴するというものだが、フフン、ぼくだってね、まぁ小説なんてものを書いてるんですよ。もうまもなく結果が出ますから、それまでお会いするのは控えましょう。そのときにはジャケットでも羽織って、

堂々と、あなたの前に再登場しますから』。
 この『もう少し』が意味するところを、もう少し重視すべきであろう。彼は、もし作家になりえたら、階段を登りきるように彼女の前に再来する旨を述べ立てたが、結局のところ、彼女と自分が釣り合わないのは、自明のこととして、疑問の余地さえ挟まなかった。身の丈はあったが、なかなかどうして、身の程わきまえた男であった。
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