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文字数 4,446文字

 次の日から、毎朝ディーラーの前を通るとき、彼女の存在が気になって、ガラス張りの店内にいる彼女の姿を目で追うようになった。
 三日後(その前は一度だけ、奥で事務整理をする彼女を見かけることができた)、彼女が外観のガーデニングに水を撒く場面に偶然出くわした。先日の客は、預けていた車を朝一に取り戻す必要があった予約客で、普段はこうしてのどかに一日が始まるものらしい。いくら前回、口を利いた間柄とはいえ、彼には挨拶であっても自分から声をかける勇気はなかった。ただでさえ、彼女は今、歩道に背中を向けて、注意深く鉢一つひとつへの水やりに専念していた。声をかけられないのなら、この場にいるのは体裁が悪い。恵介は逃げるように足を速めた――と、その背中に、水風船さながら弾けるような声が投げかけられた。
「おはようございます!」
 恵介の両肩がギクリと持ち上がり、踏み出した足がつま先立ちになった。実際、五メートルほど先を行く、やかましい小学生の一団をも黙らせ、一斉に振り返らせる声量だった。挨拶そのものは丁寧ながら、彼女の顔にいたずらっぽい笑みが垣間見えるのは、彼女のほうにも驚かせる気がなかったわけではないらしい。恵介の存在に気づいたのは、おそらく、湾曲した巨大なガラス面が、鏡代わりとなって、早足で逃げる彼の姿が、かえって彼女にその存在を知らしめる結果となってしまったのだろう。そうでなければ、丹念に植木鉢に水をやっていた彼女が、サンダルに指を食いこませ、足音を消して歩く恵介の存在に気づくはずがなかったから。
 ところで、それと同時にまた別な点で、彼を驚かせたことがあった。恵介は前回、彼女の持つ雰囲気を、カメラの回っていないときの女優の印象と重ねた。むろんこれも真実とは程遠い、恵介のイメージによるものであるが。つまり、仕事とそうでないものを峻別し、そうでないものには、決して自ら機嫌を取りにいくようなことはせず、事務的で、無駄口を好まない――言うなれば、お堅い女性のような印象を、この声をかけられる直前まで彼女に抱いていたからであった。
 立ち止まった彼は、先日もそうだったにもかかわらず、このときになって初めて顔を洗って来なかったことを後悔した。またこうして面と向かうなど思ってもみなかったのだ。この三日間、通りがかりに彼女の姿を目で追ったのは、懸命に働く彼女の姿を見たいがためで、こうして会話の機会を得たかったわけではなかったのだから。
 彼のほうは約二分前(おおよそ二百メートル前)から彼女の存在に気づいていたのだが、いま気づいたというような驚きをカモフラージュして振り返った。
「オッ、やぁ、おはよう……ございます」
 相手は明らかに、四つないし五つは年下に違いないのだが、非社会人としての立場が、彼に丁寧語を使わせた。しかし、今だけは、そんな格差など排除するよう己に強いた――『今はそう、彼女だって仕事前のはずだ』。
 ブリキのジョウロを足元に置くと、彼女はエクステリアの庭を横切ってわざわざ近づいてきた。
「いいお天気ですね」
「そ、そうだね……ただ、夕方頃には強めの雨が降るらしいけど」
 今朝はちょうど天気予報の時刻に目覚めたのだった。それを聞いた彼女の顔が、またたく間に影を帯びて暗くなった。『親しみを込めて話しかけたつもりが、馴れ馴れしく受けとめられたのでは……』そう思って後悔を覚えた恵介であったが、彼女が落ち込んだ理由は別にあった。
「そうだったんですか? ちゃんと見て来るんだった……わたし、洗濯物干して来ちゃった」
 思わず口から出てしまったらしいが、彼のほうは余計な詮索から顔を真っ赤させて、目のやり場に困ってしまった。一瞬でも若い女性の洗濯物を想像してしまったこと、それに彼女の発言はどんな意図もない独り言に過ぎなかったのだが、聞きようによっては依頼とも受けとめられかねない内容で、いくら暇そうに見えようとも(実際暇でも)、彼が代わりに彼女のベランダまで洗濯物を取り込みに行くわけにもいかないので。うつむく眼前の大男を受けて、彼女にもようやく彼の邪推の一部が理解できたらしい。しかし、少なくとも彼女の顔に、恥じらう様子は見られなかった。恥じらいは共感を意味する――そう彼女は思いついたのかもしれない。
「すみません、くだらないことを言って。では、その、いってらっしゃい……」
 どちらかと言えば、その最後の言葉にこそ、戸惑いが露わになり、一瞬だが彼女は斜め下に目を逸らした。彼のようなしどけない格好の人間に――先日聞いた『時間が有り余っている』という発言も脳裏をよぎったようだ――、この場合、どういった挨拶をすべきか、入社時に受けたビジネスマナー研修では教えてはくれなかったから。
「あっ……うん」
 彼のほうも返す言葉が見つからず、無意味に二度うなずくと、未練を断ち切るようにその場を歩き去った。実のところ、彼には最初からわかっていたのである、こういう別れ方になってしまうことが。だからこそ、会社勤めしている頃なら、靴ひもでも結びなおすふりをして立ち止まるところを、寝た子を起こさぬ忍び足で、背後を通り過ぎようとしたのだ。
 しかしながら、彼女の振る舞いは、またしても好印象となって、温かみを持って彼の胸中に留まることとなった。あのとき彼女が共通認識を持って恥じらわなかったからこそ、彼は救われたのである。『印象は悪くない。体裁は保たれた』と彼に思わせた。その日から彼はディーラーの前を通るとき、歩くスピードを緩ませてまで、彼女の姿を探すようになった。彼女が美しくも愛らしいというのもあったが、そもそも単純に人恋しかったからでもあった。仕事を退職して以降、女性とはもちろん男性とも、二度挨拶を交わすような仲になったことは一度もなかった……。
 翌日、運よく交渉用のテーブルを拭く彼女とガラス越しに目が合い、目顔で挨拶をした。そのときは彼女のほうが若干早く頭を下げた。三日後、同じくガラス越しに顔を合わせた際には、どことなく彼女の笑顔が薄れ、彼のほうが早く頭を下げていた。その二日後、彼女の姿はまったく見えなくなったが、ニヤつく男性社員と目が合った――出庫時にいた男性社員であった。その翌週の月曜日、この前のように男性社員と目が合った。どこか待ち構えていた感があり、その男が事務室に声をかけると、彼女がチラリと姿を見せて、すぐに消えた。
 火曜日、道路の対岸で信号待ちをしているときから、芝生に立って鉢植えに水をやる彼女の姿が目に入った。信号が変わると、彼は競歩なみの早足で店舗の境界まで近づき、そこから牛歩のように歩きだした。気づかれぬまま突っ切ってしまいそうだったら、隣接する建物のブロック塀のところで立ち止まり、振り返って一言だけ『おはよう』と挨拶し、すぐに歩き出そう――そんなことを考えていた矢先、絶好のタイミングで彼女が向かい合うように振り返った。彼女が心持ち荒く靴音を立てていることなどつゆと気づかず、彼は喜びに舞い上がらんばかりだった。
「お、おはよ――」
 言い終わるより早く、彼女が声をかぶせてきた。これまで一度として聞いたことがない、冷たく慇懃な声だった。そういえば、振り返ったときから、彼女は無表情そのものだった。
「おはようございます。何か、わたしに、ご用がおありなのですか?」
 尾てい骨を蹴られでもしたように背筋を反り返らせると、緩んだ恵介の表情がにわかにこわばった。
「エッ、いや、別に……」
 しばしの沈黙。青ざめ、息を呑む恵介を、彼女は大きな瞳で睨みつけた。
「……だったら、やめていただけませんか?」
「エッ……」
 彼が即座に認識しえたのは、おそらく彼女は、日常的な『挨拶』――それだけを言っているのではあるまいということだった。しかし、それ以外に何のことか、彼にはさっぱりわからなかった。
「わたし、その……気があるように思われたのなら――」一旦逸らした視線を、挑みかかるように向き直すと彼女はいっさいを退けるように言い放った。「心外です」
「い、いや、決してそんなつもりでは……」
 言下に取り乱した恵介は、無意識に彼女側に一歩踏み出したが、あわててその足を引っ込めた。彼女はその場を動かず立ち続けたが、右足が靴の中で数ミリ後ろに引かれたのを彼は見逃さなかった。いくら気丈に振る舞っても、彼に恐怖心を抱いていた証に他ならなかった。その微かな仕草が、何よりも彼を傷つけた。
「……ともかく、そういうことですので……」
 彼女は水やりも途中のままジョウロを持って、ショールームの脇にある従業員用の出入り口に引き返していった。
「あの、その……」心が千々に乱れた恵介は、口を開けばしどろもどろになる言葉を呑みこんで、喉に力を込め、去りゆく彼女の背中に向けて一言だけ叫んだ。「ごめん!」
 謝罪の言葉を耳にした彼女は、背を向けたまま立ち止まった。早足だったため、ジョウロの中で水が揺らぎ、垂らした右腕だけが、容器の水をこぼさぬよう無意識に揺れ動いた。恵介としては、『そんなつもりじゃなかったんだ!』と言ったつもりだったが、まったく別の意味に受け取られかねない、いやその公算のほうが高い一言だった。彼女は再び足を速めて、建物の中へと入っていった。
 そのときこそ、彼女の変貌ぶりに度肝を抜かれた恵介であったが、部屋に帰りつく頃には、なるべくしてなったことであると深く反省した。彼女の立場になってみれば、当然のことである。彼の行為は、この十日間で次第次第に偶然の出会いを装った、不可避な挨拶の強要へと移行していた。ストーカーと見まがわれてもいたしかたないことだった。その帰り道、なぜともなく思い出したことがある。彼が小学生の頃、クラスメートの前で一人の男子生徒をからかったことがあった。その子は人見知りがちな、内気な生徒だった。からかったわけはくだらないことで、単純に馬鹿するといったものではなく、確か、授業参観の次の日、母親が女優の誰某に似ているとかいった、冷やかしが目的だった。だから、当時の恵介にしてみれば、その子をいじめている感覚はなく、皆の注目を浴びさせていることに悦になって、その子自身も決まり悪そうにしながら内心は喜んでいると思い込んでいた。恵介が周囲をはやし立て、三度同じことを口にしたときだった。突然その生徒が憤然として席を立ち、恵介に罵声を浴びせ、流行りのアニメの缶ペンケースを投げつけたことがあった。缶ペンケースは恵介からまるきり外れ、床に落ち、中身は四方に飛び散ったが、教室はシーンと静まり返り、しばらくそれを拾うものもいなかった。ふいに、そのときの情景がまざまざと彼の脳内によみがえったのだった。その子とはのちにお互いの家に遊びに行く仲にまでなった。その子の名前も家の場所も忘れてしまったのに、不思議とそのアニメのキャラクターが何だったかだけは、決して忘れることができないのだった。
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