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文字数 4,603文字

 翌週末、デートの待ち合わせ場所――。
「ワッ!」
「オワァー、び、びっくりした。お、おはよう。車で来たの? 立体駐車場から出てきたりして」
「おはようございます。ごめんなさい、笑っちゃって――そんなに驚くんですね。すみません、あまりに無警戒だったんで、やっちゃいました。ええ、おかげで早く着いたので、探偵さながらに見張ってましたよ、恵介さんが来るところ」
「まいったな……アッ、これ、この前、話したドーナツ。袋の中には三つあったんだけど、来がけに一つ食っちゃった。家で食べてよ。焼きドーナツだってさ、おいしかったよ。けど、正直言えば、ぼくは揚げたほうが好きだね」
「残る二つは同じものですか?」
「いや、お勧めのやつを三種類買ったんだ。順位は知らないけどね」
「じゃあ、食後にでも、その二つを半分こにして食べましょう」
「あ、うん……。で、今日はこの大型スーパーから、どこに行くの?」
「どこにも行きませんよ。なかに入るんです」
「へ?」
「この最上階にある映画館で、今日は一日中、映画を観る予定なんです。以前のところより、こっちのほうがゆったりできる映画館のようでしたので。一本目のチケットは購入済みですから、あとはその都度二人で選びましょう」
 ショッピングセンターに入り、エスカレーターを前に後ろに上がって、最上階のチケットコーナーに行き着くと、真実はにわかにあわて始めた。
「エッ……うそ……あれ?……ない!」
「どうしたの?」
「ごめんなさい、前売りで購入したチケットを部屋に置き忘れてきたみたいで」
「そう。じゃあ今日は、ソレを外した違うのを観て、またの機会にその映画を観たらいいよ」
「いえ……でも……やっぱりわたし、その映画が観たかったんで、取りに戻りますね。車ですから、大した時間もかからないと思いますし」
「『取りに戻る』って、きみの部屋まで?」
「ええ――それで、あの、待っていてもつまらないと思いますので、一緒に来られませんか? よければですけど……」
「『一緒に』って、おれが? そ、そうだよね。ほかに誰が行くんだって話だよね。うん、行く。その、こっちもよければだけど……。いや、そんな意味じゃなくて、車の番をしておくから、大丈夫」
 真実は自分のマンション前に行き着くも、正面を素通りして、コインパーキングに車を乗り入れた。
「あ、いいよ、停めないで。路上駐車で待ってるから。戻って、チケット取っておいでよ。おれ、免許証持ってきてるし、運転席に座って待ってるから。万が一警察が見周りに来ても、動かしてまた戻って来るから」
「いえ、いいんです。せっかく来ていただいたんですし。お茶でもいれますから。恵介さんが買ってきてくれたドーナツを食べてから、あっちに戻りましょう」
 こうして、恵介は生まれて初めて、女性の一人暮らしの部屋に入った。彼の部屋とは違い、清潔感と清涼感の塊だった。あり得ない話だが、一千メートルは標高が高いみたいに一息目の空気が澄んでいた。機能性とインテリア性を折衷させたような部屋で、飾り立てた感じはなく、乙女らしさは幾分控え目であった。彼が思い浮かべる女性の部屋には欠かせない、ぬいぐるみがなければ、観葉植物もなかった。もっともこれは彼の学生時代から変わらぬまま既成概念化された先入観に過ぎないが。室内はダイニングとの間仕切りから左回りに、最初の部屋角に背の高い円柱のシェードがついたフロアランプ、姿見、天板が五センチはあろうかという無垢材の重たく頑丈な作業用とおぼしきデスク――今は電源の落ちたノートパソコンがあるだけだった――、半開き状態の濃いベージュのカーテン、九つの引き手のある洋タンス、二連式のハンガーラック、天井突っ張り型の鞄掛け用ポール、カーテンと同系色のシングルベッド――部屋のアクセントで淡いブルーのクッションが乗っていた――、そして部屋の中央には円形のムートンの上に四角いガラステーブルが置かれてあった。ガラステーブルの上にはリモコンが二つあり、女性誌も乗っているように見えたが、下の棚に置かれてあるだけだった。壁に関しては、彼女の会社のカレンダーが張られてあるだけで、あとはノッペラボーだった。のちに気づくことになるのだが、テレビがなかった。もっとも、テレビ番組は今、パソコンや携帯電話でも見られる時代である。
 ダイニングに彼女が留まり、うながされて私室に入った瞬間、恵介が覚えた何か引っかかる感覚は、間髪入れず襲いかかった怒涛の緊張感によって一飲みにさらわれたが、自分の家に帰ったとき、その違和感の存在を思い出し、それが何であったかに気づいた――彼女の部屋は、たまさか帰ってきたにしては、整然としすぎていたのである。
 ダイニングから声が聞こえた。
「お湯を沸かしますから、そっちの部屋で座って待っててください。あんまり見ないでくださいね、恥ずかしいから」
「あ、うん……」
 しかし、目でもつぶらぬ限り、見ないわけにはいかなかった。とはいえ、そのときに限っていえば、彼の記憶に残った家具や収納といったものはほとんどなかった。確かにあると覚えていたものは、スカイブルーのクッションと、のちにわかるが、けつまずいたときに落ちたエアコンのリモコンくらいであった。
 ハッと気づき、彼は立ちあがった。
「おれ、いや、ぼくもそっちで手伝うよ」
 手前のダイニングでは、すでに準備を整えた彼女が待ち構えていた。
「もう済んじゃいました。それに、前から言おうと思っていたことですけど、わたし、恵介さんには『ぼく』じゃなく、『おれ』のほうが似合う気がします」
「そ、そうだな。『おれ』だと、たまに言葉遣いが若干荒っぽくなっちゃうんだけど……。じゃあ、おれのほうにしよう。……ん、なに?」
 彼女は返事もせず、まっすぐ立ったまま、彼をしばし見続けたあとで、やおら口を開いた。
「この前はごめんなさい」
「へ、なんのこと?」
「誘ってくれたのに、恵介さんの部屋に行けなくて」
「なぁんだ、そんなことを気にして、ここに連れてきてくれたのか。きみって人は、優しいうえに、律儀なんだから。さ、チケット探しなよ。おれは、こっちでドーナツの準備でもしていよう」
「チケット……ないんです」
「もう探したの? いやいや、案外、思わぬところにあるものだよ。あっちの部屋もちゃんと探したほうがいいよ」
「あるはずがないんです、買ってないんだから」
 目を合わせると、時局を大観するように彼女は微笑んでいた。彼は、なぜか返事を求められた気がして、あわてて声を張り上げた。
「……なぁんだ、よくある、よくある。おれも夢で買ったものが現実にないんで、腹を立てたことがあるよ。ふとした瞬間、思い出すんだ――『バカだな、あれは夢じゃないか』って。あれほど気持ちのこもった『バカだな』も、そうないよね」
「じゃあ、わたしを慰めてください」
 さすがに彼も心配になって、彼女を見つめた。
「……か、会社で何かあったの?」
「なんにも、順風満帆です、わたしたちの関係以外は」
 『わたしたちの関係がうまくいっていない』――つながりに関係なく、その一文だけを抜き出して理解した恵介の頭には、『デートが楽しくなくなった』つまりは『もう別れたい』――そういう経路ができあがった。乾きかけていたとはいえ、その経路には呼び水が伝っていたのだ。彼には、今日会ったときに彼女が何気なく明かした『(彼のことを)見張っていた』との言葉が思い出された。彼女を待つあいだ、恵介は着ていたサマージャケットを脱いではたき、体臭もそれとなく確かめ、財布の中身を細かく点検していたのである。
「ちょ、ちょっと待って、真実さん。きみ、今、大事な告白をしようとしている?」
「ええ」
「……じゃあ、せめて、あっちの部屋じゃダメかな? ぼくは、その、決して変なまねはしないから」
「望むところです」
 がっくり肩を落とす恵介は、うつろな状態でガラステーブルの前に座ったが、すぐさま部屋が暗すぎるのに気づいて立ち上がりかけた。
「アッ、カーテンを開けよう」
「いえ、わたしがしますから」
 恵介は、それを『わたしの部屋のものに触らないでください』と受けとめた。彼はただちに正座した。うつむく彼に、背中を通る彼女が声をかけた。
「全然気づいてないので、今日、二回目になりますけど、あまり驚かせるのが好きだなんて思わないでくださいね」
「エッ――」
 恵介の頬が、真実の両手を挟まれ、二人の唇が重なった。今回は真実の位置のほうが高く、彼女は首を傾けて、やはり目は閉じていた。
 反射的に両膝立ちになった恵介であったが、頬を掴まれた状態の彼に、唇の逃げ場はなかった。恵介はとっさに彼女の両肩を強く掴んで、押し返した。そのとき、唇同士がかすかな音を立てて離れた。二十を予定していた歳の差が、一気に四つまで詰まってしまった。
「どうしたの、真実さ――」
 真実が腕に力を込めると、彼女の肩はするりと恵介の手を抜け、再び唇が合わさった。一度目よりも強いキスだった。四つあった歳の差が、本能で消し飛んだ。
 彼は彼女を激しく抱きしめると、その真っ白な絹のような光沢を放つ首元に、呼吸荒くむしゃぶりついた。そして、震える手で彼女の身体を――どこということはなくただその全身をまさぐった、その存在が天使なんかではないと確かめるように。それから、耳もとにささやかれた声を聞いた彼は、軽々と彼女をベッドの上に抱え上げると、自分も覆いかぶさるようにベッドに乗った。邪魔なソファを払いのけ、ひたいを合わせ、今度は彼が首を傾けて上からキスをした。歯が当たって音を立てた――『震えてるのかよ、情けない』。そして、彼女のブラウスのボタンに手をかけた。ブラウスも彼女の一部であるかのように、武骨で大きな手で慎重に、一つ、二つと外していった。刺繍を凝らした胸元の下着が露わになったとき、四つん這いになった彼の右の脇の下から、彼女の左手が親指を中に入れて固く握りしめられているのが、偶然目に入った。逆の手を見た――下に敷かれたタオルケットを五指で手の中に強く巻き込んでいた。彼女の顔を見た。視線が合わさると、彼女は優しくも儚い笑顔を見せた。
 瞳に色を取り戻した恵介は、いきなり背後から襟首を引っ張られたかのようにベッドから跳ね退くと、床に尻餅をついて、横たわる彼女を見上げた。
「き、きみ、まさか、初めてなんじゃあ……」
 その姿は、姫に化けた老婆の正体に気づいたかのようだった。しかし、ベッドには着衣こそ乱れていたが、心持ち顔を上気させた、姫にも劣らぬ麗しき女性の寝姿があるだけであった。
 腕を伸ばして上体を起こすと、彼女はこわばった表情から一変、クスクスと込み上げる笑いを堪えるようにして彼を見つめた。
「どうしたの?」
「答えてくれ! きみは――そうなんだろう?」
「いけない?」
「……おれはきみを抱けない」
「どうして? 喜んでくれると思ったのに」
「おれはそんな人間じゃない」
「どうして?」
「『どうして』もへったくれもない! おれがただ、そんな人間ではないからだ。さよなら……」
 振り返りざま、恵介はガラステーブルに蹴つまずき、リモコンが転がり落ちた。そのリモコンを拾い上げるべきか否かで一瞬悩み、愚かしい選択だったことに気づいて、彼はそのままダイニングを一足飛びして玄関を走り出ていった。
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