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文字数 6,547文字

 あの振り出しから半月ほど経ったある朝、恵介はいつもの時間、いつもの起きぬけの状態でファストフード店に入店した。自動ドアのある表口は、彼の行き着く方角からいうと、奥側に位置するので、彼はいつも駐車場への抜け道となっている、押し引きするドアから入店するようにしていた。店に入ると、そこから注文カウンターに行くまでには、雑誌の置かれた低い棚や、いくつかのテーブル席を抜けねばならなかった。朝刊の新聞があれば、読むのだが、いつも誰かに借りられていて、あったためしはなかった。それでも、無意識に目が向いてしまう。色男が形無しの、表紙がしわだらけになった雑誌類があるだけだった。視線を戻そうとしたとき、雑誌棚の裏にある、二人掛けのテーブル席に一人座る女性が、にわかに立ち上がった。
「おはようございます」
 思えば、こうして真正面から呼びかけられたのは初めてだった。彼はあんぐりと口を開き、しばしのあいだ、凍りついたが、あくびを無理やり飲み込むように口を閉じると、最初に解凍した手のやり場に困ったようで無意味に腰の辺りをまさぐった。彼の目の前に立っていたのは、制服ではなく、私服姿の彼女であった。さほど印象が変わって見えなかったのは、同じツーピースのシックな装いだからであった。
「来ちゃいました。毎朝通われるほどのものなら、わたしも食べてみたいと思いまして」
 事務的だった笑みにほんの少し感情がこもって見えた――一つの空間を共有することによって見える錯覚かも知れないが。
「き、今日、仕事は?」
 この日恵介は、特別早起きしたわけではなかった。今もディーラー前を通るとき、店内を見ないで来たが、これまで彼女を見かけたことがある時間帯からいっても、これから出社するには遅すぎる気がした。
「休みなんです」
 会社勤めをやめて二年、彼の頭には休日なんてものの概念がすっかり消え去っていた。
「そ、そうなんだ……」
 うろたえる彼を気にかけた様子もなく、彼女はのどかに話しだした。
「それにしても、すごいですね。この店のことはもちろん知っていましたけど、思った以上においしくて、コーヒー付きで二百円だなんて。わたしも弁当を作りたくない日なんかは、早めに家を出て、ここで朝食を食べようかな」そう言って店内を見渡していた彼女の目にレジ前の光景が映った。「あっ、ごめんなさい、並ぶの遅れますよね。どうぞ」
「あ、うん……」彼はそぞろに歩きだしたが、つと立ち止まって、まだ座らずにいる彼女に、告げ忘れていた言葉を口にした。「あ、その――おはよう」
 テーブルに釘づけた視線をチラリと上げ、彼女の反応を見ると、今度は間違いなく感情のこもった優しい莞爾を浮かべていた。
 このとき彼は、玄関を出るのと同時に、百円足してもう一つマフィンを追加する予定を立てて、店までやってきたのだが(この頃には管理栄養士の話など、とうの昔に忘れてしまっていた)、見栄を張って通常のセットだけにした。しかし、すぐさま無用な気遣いであったことに気がついた。彼女が自分のトレーの中身を気にすることも、直に見ることもないのだから。それに、恵介はさっき話をしながらも視界に留めていたのである、休みの日でありながら、テーブルの上には、分厚い資料とノートが交互に挟みこまれ、ついさっきまで勉学に励んでいたことを。彼女の足もとには、中身がぎっしり詰まった、仕立ての立派な豚革のトートバッグが店のカゴに入って置かれてあった。
 さて、トレーを持った恵介は、振り返って座席を探したが、いつも座るカウンター席がこの日に限ってふさがっていた。『二階席に上がるか』――そう思って、席が空いてないのはわかっていたが、無意識にボックス席のほうまで目を走らせたとき、書きものを止めて一心に彼を見つめる彼女と目が合った。彼女はすぐさま、自分のテーブルの上を片付けにかかった。それは手招きする以上に強く彼を呼びつける動作でもあった。彼はトレーを持ったまま、そばに立ったが、それでも座る前に確認を取らざるを得なかった。それは一介の店前通行人である彼にとって、過分の栄誉といえるものだから。これを機に触れておくなら、恵介は高校時代、修学旅行先でグループ同士が仲良くなり、帰校後も一人の女子生徒と短期間だけ続いたプラトニックな関係のものを除いて、これまで一度も女性と付き合ったことがなかった。
「す、座っていいの?」
「今、『ダメです』なんて言ったら――」彼女は口に手を当て、クスクスと笑った。「わたし、相当な意地悪になるじゃないですか」
 言い換えるなら『返事として言いたくなるような質問をしないでもらえます』と指摘されたわけである――年下の女性を相手に、彼女は座って彼は直立した体勢で。
「じゃあ、失礼して……」そう口ごもりながら、彼はだいぶ椅子を引いて、そそくさと席に着いたが、彼女の微笑みを前に、居たたまれなくなって再びあらぬことを口走った。「まったく、平日にもかかわらず、こんなに席が詰まっているとはねぇ。普段はここまで多いことはないんだよ。見なよ、後ろに並んでいた彼も、トレーを両手に持って席を探してさまよっているよ。ボーイか売り子みたいな顔してさ。ぼくみたいな親切な顔見知りがいないものだから……」
 なぜかは知らないが、どうも彼は『偶然一緒になった顔見知りに、席がないから仕方なく譲った』ことを彼女の立場として、わざわざ演出したかったようである。もしかすると、自分自身への暗示のようなものだったのかもしれない。ともかく先んじて手を打ったつもりらしいが、彼の発言は喧騒の一部と化しただけであった――すなわち彼女からの返事はなく、聞き届けられただけであった。
 彼女はテーブルから手を下ろし、端然と背筋を伸ばすと、軽く頭を下げた。
「だいぶ順番が遅れましたね。わたし、長田真実(おさだまみ)と言います。長い田んぼの真実と書きます。名刺があればよかったのですが、今日は持ってきてなくて」
「か、構わないよ」置き忘れる名刺もない彼からすればありがたいくらいだった。「ぼくは、市崎恵介――字のほうは、まぁ、なんとなく想像できる通りだよ」
 どぎまぎしながら、あくまで儀礼的なものとして、彼も自己紹介に応じた。女性の場合、それが親切心の表れであっても、男でいちいち氏名の文字を説明するやつは、過剰なまでの自信家で、そのうえ自己顕示欲が強い人間に限られる。現在の恵介は、その真逆の存在と言えた。相手が誰であろうと、まるで同姓同名の有名人でもいるかのように自分の氏名を名乗らずに済めば、と思っている口だった。
「本来――」目線を落とした真実が話しだした。「こういう遅れた自己紹介って、よくないんですよね。急にまた、他人行儀になっちゃうから」
 テーブルの上に置いたにもかかわらず、まだ両手に握っていた恵介のトレーがガタンと音を立てた。『また他人行儀になる』ということは、これまでは『他人行儀ではない関係』だったわけであるが、まぁそんな数学的な裏命題に頼らずとも、彼は同じようなセリフを以前、テレビドラマで耳にしたことがあったのを思い出していた。それは、のちに恋人関係になる主人公とヒロインの、ともに奥手の二人(この場合積極的にならざる得ないのは女性のほうである)が、無理やり誘われたパーティの片隅で慣れないもの同士の会話をしたあと、お互い不思議と想いを募らせるようになり、その後、偶然にもお互いの仕事相手としてばったり再会したときのシーンだった。
「エッ……」
 物思いにふける真実の顔に意味深なものを感じた恵介は、息を呑んで相手の言葉を待った。
 うつむいたまま、長田真実の内省は続いた。
「マニュアルにも、そう書いてあるのに……」
「マ、マニュアル?」マフィンを潰しかねない勢いでトレーの上に手をつき、身を乗り出すと、恵介は声を裏返さんばかりに聞き返した。言うなれば、ある難題に瞬間的に思い浮かんだ解答が、たった今ヒントを得て補完され、まさに正答となる最後の手掛かりを得んばかりであった。やはり先んじて打った自制の一手は、無駄な一手となったようである。「マニュアルって、何の?」
「あ、ごめんなさい」ようやく内省から目覚めた真実は、独り合点していたことに気づいた。「接客応対実例集のことです。持って来てたかな? こっちの、下のバッグにあった気が――」
 真実が顔色一つ変えなかったのが、今回も恵介には救いだった。身をかがめようとする真実を、彼が制した。
「なるほど、仕事の……ね。いいよ、見せないで」
 初めて真実の顔が恥じらいの色に染まった。遅まきながら、これをこの男に見せて何になろうということに気づいたのだ。根本的にそんなものが頭に思い浮かばなかったことからしても、彼とは違い、彼女には『恋愛のマニュアル本』など必要なかったに違いない。
「そ、そうですよね……」
 しばし言葉に詰まった二人であった――が、今度は二人同時に口を開いた。
「食べようか?」「食べませんか?」
 初めて雰囲気が和んで、食事の時間となった。
 恵介は、真実が半分残していたマフィンを食べ終える時間で、丸一個を平らげた。普段であれば、一気にアイスコーヒーも空にして、座って三分で席を立つのだが、今回の場合はそうもいかず、半分ほど中身を残して、しとやかに一旦ストローから口を離した。恵介はマフィンの包み紙をくしゃくしゃに丸め、彼女は四つ折りにたたんだ。お互い手持無沙汰になる寸前に、彼女が切りだした。このとき、とっさに話しかけたらしく、この場で話そうと思っていたものとは別のものが、話題として滑り出てしまったようである。
「あの……市崎さんは、ソレで足りるんですか?」
 こと自虐的な話題に関してなら、恵介はまったく気後れすることなく会話することができた。
「全然。以前はね、これを朝食セットとして売り出していたことが信じられなかった。子どもだって、足りるものかってね。なにしろぼくは小学生時分から毎朝、グラスになみなみの牛乳と菓子パンを二個――ゆうに一〇〇〇キロカロリーは越える朝食を食べていたからね。朝練のある運動部に所属していたこともあってね。柔道部じゃないよ。野球部だったんだ。でも、それがたたって、もう十年以上ずっとダイエット中なんだが、成果は出ない」
「別に、それほど太ってられるようには、お見受けしませんけど」
「ところが、見えないところでは、しっかりさ。今は運動不足もあってね」
 彼はクリームとシロップを入れたアイスコーヒーを飲み干した。その様子から何かを感じ取った彼女は、つと打ち明ける決心をした。
「あの、市崎さん、一つ確認させてください」
「うん、なに?」
「わたしのこと、車が出庫するときに呼び止めた日の前から、知っていました?」
「いや――」視線を宙に浮かせて考えてみたが、考えてみるまでもなかった。以前に会ったことがあるなら、こんな妙齢の美人を自分が忘れるはずがない。「あのときが初めてだけど」
「やっぱり……」彼女は下唇を噛み、ディーラーがある方角を睨むように目を向けた。「男性社員の一人が、あなたがずっと前から『わたしのことを見張っていた』なんて言うものだから、わたし……ごめんなさい」
 それで彼は、この場におけるいっさいの緊張から解放された気分になった――『そうか、だから疑うことなくストーカー扱いされたわけだ。きっと出庫の際にいた、あの男性社員だな。なるほど、わかったぞ。彼女は今日、その償いも兼ねて現れたんだ。これでわかったよな、恵介。くれぐれも余計な気を回すなよ』。
「いや、確かにぼくもわるかったんだ。通りすがりに、きみの姿を目で追うようなまねをして、そういうふうに受け取られても仕方がなかった。今後は――」
 芸能リポーターさながら、彼の言葉を受け流し、彼女は再度質問した。
「もう一つだけ、教えてください。市崎さん――お仕事は何をされていらっしゃるんですか?」
 長田真実は、こうした話し合いのさなかにも何度か、その鈴を張ったような大きな瞳で食い入るように彼を見つめることがあった。言葉に誤魔化されない真実を、相手の表情に見い出そうとするように。ただしそれは武器になり得る一方で、諸刃ともなりかねないものであった。見様によっては、冷たい、不遜なイメージを与えてしまう恐れもあったから。ただでさえ刑事のような質問でもあった。しかし、恵介は出会った当初から、その視線に込められた純粋な部分のみを感じてきた。
「エッ、うん、その……」これまで誰一人として明かしたことはなく、結果も残していないことから、彼は口にするのをためらったが、これを機に、彼女にだけは打ち明けておいたほうがよいと結論をくだした。「実はね、小説を書いてるんだ」
 硬い表情だった彼女の愁眉が開いた。彼女にとっても覚悟を決めた質問であったらしい。当然彼女は、その質問が世間話を逸脱した、ぶしつけ極まりないものであることを理解していた。なにより彼女は直接人に高額なものを売る仕事に従事している。相手の職業を尋ねるのは、懐具合を探るようなものであった。加えて、彼のためらいが、彼女の不安を駆りたてた。しかし、真実にとって、それでもなお聞いておかねばならぬ、避けては通れぬ質問だったのである――いや、そうだったのであろう。
 思わず彼女は快哉を叫んだ。
「すごい。じゃあ、小説家さんなんですね」
「いや、違うんだよ」恵介はおだやかに首を振った。もはや何のけれんもない彼に焦りはなかった。「小説を書いているというだけで、小説家じゃないんだ。全然、趣味の域を出なくてね。二年前、会社に退職届を出して一念発起したものの、この体たらくさ、フフ」
 情けなさからくる自嘲の笑みであった。
「じゃあ、小説家になることが、昔からの夢だったんですね」
「夢というか……以前、ある人に教わってね――『きみは文学の才能がある』って。たまたま二年前、懸賞小説の広告チラシを見たとき、それを思い出したんだ」
 急に口を閉ざし、下を向くと、彼女は小声で尋ねた。
「その方は――」
「ん、なに?」
「いえ、なんでもないです……」
 二人のトレーの上の飲み物は完全に氷だけになり、それも解け始め、容器の底には結露が輪になってたまり始めた。もう三十秒経てば、お互い居づらさを感じ始めたに違いない。そのとき真実が、面映ゆそうに打ち明けた。
「もうお気づきかと思いますけど、わたし、見ての通り、人と付き合うのがあまり上手じゃなくて。こういう機会が持ててすごくうれしかったです」
「ぼくもだよ。あ、いや、『見ての通り』なんて全然」それから彼は、視線を彼女から逸らし、遠い目になって続けた。「……実はさ、ぼくもね、会社勤めの頃は、一人も私的な友人がいなかった。ハハ、馬鹿だな、きみは一人も友人がいないなんて口にしたわけじゃないのに……。このまま別れたんじゃあ、ぼくはきみに憐みを催させただけになるかもしれないが、実は、三ヶ月前に書きあげて、懸賞に応募済みの今度の小説には、少々自信があってね。自己満足かもしれないが、こういうことがあるから、奈落の底のような生活でも続けていられる」恵介はトレーを持って立ち上がった。「長田さん、きみ、もうちょっとここで勉強を続けるんだろう? ぼくは失礼するよ。ありがとう、その……楽しかったよ」
 片付けに向かう恵介を真実が呼び止めた。
「市崎さん!」
「ん?」
 振り向くと、真実の顔は、今日一番の嬉々としたものであった。
「もし、小説がその懸賞に受かったら、是非うちで車を買ってくださいね」
「きみを名指しして、必ず。ただし、あの懸賞金じゃあ、全然足りないから、ローンでね」
 彼はトレーの上のゴミを選りわけして捨て、もう振り返ることはせず、店を出た――『もっと会話を楽しめよ、恵介。彼女とは何もかも不釣り合いなのはわかってるじゃないか。一般人には複雑なことでも、おまえには簡単明瞭なことだろ。資産運用や節税対策の心配がいらないのと同じことさ。しかし、その分、空想としては現実味を失くして広げられる。だからこそ、奈落の生活も悪くない。そうだろう?』。
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