プロローグ

文字数 4,714文字

「――というわけだ。もうわかるね、きみに一緒に来てほしいんだ」
「……」
「きみが返事にためらう気持ちもわかる。もっと早くに伝えるべきだった……。それに関しては、ひとえにお詫びするばかりだ――申し訳ない。落着するまでは、どうとも言えなくてね。ちょうど、きみのお店にお客さんが増え始めた頃だものな。でも、来てくれたからといって、きみが仕事をやめる必要はない。向こうでまた店を構えたらいい。前回はわずかばかりしか都合がつけられなかったけど、今度はぼくが準備に必要な資金をすべて出すよ。契約金がもらえる手はずでね。やっぱり向こうの人は――」
「ねぇ、あなたはどうしてこっちじゃいけないの?」
「いいかい。こっちじゃ、決定権のある人にたどり着くまで、ボトムアップ式に何度もプレゼンテーションを繰り返す必要がある。それまでに、一人でも先見の明のないやつに引っ掛かれば、それっきりさ。向こうは違う。トップダウンで事が決まる。そういう環境が、ぼく――いや、ぼくらの仕事には必要なんだよ。むろん、ぼくだって向こうで自分のやりたいことが、そう簡単にやり通せるとは思っていない。失敗し、あるいは、壁にぶち当たることがあるかもしれない。でももう、こんな地方の田舎都市で、何も知らない年下社員を相手に、一から説明するのなんてこりごりなんだよ」
「でも、あなただって、着実にこっちで成功を収めているはずよ」
「成功? こんなのは成功とは呼べないよ。去年のホテルでのディナーをそんなふうに受け取られたら心外だな。確かに喜びはしたけど、まだまだ序の口のつもりだった。大体マンションの一室を借りて、従業員たった三人の会社じゃあね。しかし、そんな彼らの実力は誰よりもぼくが知る。彼らにしたって、こんなところでくすぶらせたままではいけないんだ。もっとも今回の件に関しては、期待はさせてあるけど、まだすべてを打ち明けたわけではないがね。きみを一番にと思ってね。あと一年、いや二年待ってくれ。絶対きみに、何不自由のない生活をさせてみせるから」
「わたし……(そんなの望んじゃいないわ)」
「んっ、なんだい?」
「付き合うときの告白――覚えてる?」
「もちろん。『きみのほか、何もいらない』――うそじゃない。今もそう思っている。おこがましいけど言わせてくれ。今回のことだって、きみのためなんだよ。いや、ぼくのやってることは、すべてきみのためなんだけどなぁ」
「わかってる。わたし、うれしかった。だって、あなたはそれまでわたしが思い描いていた人より、ずっと強靭で、たくましく、不屈の精神を持っていて、わたしを引っ張ってくれる人だったから。仕事上では、きっと何度も塗炭の苦しみを味わってきたはずよね。それにもかかわらず、わたしには必ず笑顔で会って、笑顔で別れてくれた。気づかないとでも思ってた? 表情では隠せても、返事の間の空き加減ひとつで、わたしにはわかるんだから。でも、だからこそ、一層あなたのことが好きになった。告白してくれたあなた以上に。そう、受け身だった気持ちが、いつしか能動的なものに変わっていた。だからこそ、わたし、あなたの重荷になりたくないから、仕事を始めたの。ひそかに夢見ていた学生の頃の夢が叶ったのも、そういう意味ではあなたのおかげ」
「きみのその仕事におけるセンスも、いつか必ずぼくの仕事に必要となるときがくるよ」
「お願い、最後まで話を聞いて! わたし、店を経営することで気づいたの。最初、あなたの理想は、わたしにとっては夢物語に近かった……。わたしがあなたの話をうれしそうに聞いていたのは、そういう暮らしを望んでいたからじゃないの。あなたとの生活は、ごく平凡なものでかまわなかったからなの。でも、そうじゃなかったんだって気づかされた。あなたは熟練した登山家が雪山を登るように、雪の表層を歩くんじゃなく、堅い地面にしっかり足をつけて、決して崖を飛ぶようなことはせず、臨機応変に危険を避けながら仕事に臨んでいたのね。わたし、今でははっきり言うことができる。あなたには成功者の素質があることを」
「いいよ。もうよしてくれ。それもこれも仕事を終えれば、きみが待っていてくれると思ったからさ」
「だから! だから……そんなあなたなら、わかるはずよね。差し迫った状況においては、大事をなすため小事を捨てねばならないことくらい」
「エッ?」
「わたし、行けない……ここに残るわ」
「そ、それはご病気のお父さんを思ってのことかい? だったら――」
「違うわ! この話に家族を持ち出すつもりはないの。わたしの問題、わたしだけの――。ねぇ、たとえしばらくのあいだ、わたしが忘れられなくても、一年、いえ二年我慢して。あなたにはわたしなんかよりはるかに美しい、女優のような、いえ、それこそ本物の女優さんからも、きっと食事の誘いが来るはずだから」
「き、きみはいったいなにを……」
「お願い。お仲間の三人を大事にしてあげて」

 スーツケースが運転手によってトランクに詰め込まれると、彼はタクシーの後部座席に収まった。
「飛ばしてくれ」
 足を組んで、シートに身をあずけると、彼は覚悟を決めた厳然たる目つきで、ぽつぽつと灯りがともり始めた街の景色を眺めた。『見納めか』そんな思いがよぎると、『見納めるまでもない』と思い返して、彼はまぶたを閉じた。『彼女には仕事のことを、もっと打ち明けるべきだったのだろうか? いや、それは違う』――彼はどんなことがあろうと、家庭内に仕事を持ち込みたくない主義だった。だからこそ、そこには癒しがある。その理解は、この前の発言からも彼女とは共有できていたように思えた。『では、あまりに唐突過ぎたのだろうか?』それにしては、彼女の目には落ち着きがあった――『〈いよいよ、この瞬間が来た〉とばかりに』。本当に、何もかも見透かせるかのような女性だった。部下をともなった彼が待合室で一時間以上待たされたあげく、アポイントした相手と違う人間が応対し、十分とかからず追い払われた日の夜、彼女は普段はしないアルコールを注文するなり、終始友達や自分の失敗談を面白おかしく語って見せたものである――『不思議よね。だからあの子、どんな相手がコンパに来ても驚かないくらい懐の深い人間になっちゃったの。アッ、でも違うわよ。コンパといってもね――』。
 知ったる道である。目をつむっていても、空港までの道筋は手に取るようにわかった。今の道路を一キロほど進み、信号機のある交差点を右に曲がれば、あとは国道を一直線に突き進むまで――というところで、運転手が「あぶない!」という声を張り上げるとともに、車に急ブレーキがかかった。
 声は無警戒に後部座席に収まっている客を気遣って、とっさに叫ばれたものだった。その判断のおかげで、彼は反射的に顔の前に腕を掲げ、助手席背面への顔面衝突をまぬかれた。
「バッ、ばっきゃあろう! てめぇ、いきなり前に飛び出すやつがあるかッ」
 罵倒の仕方から察するに、飛び出した相手は動物や子供などではなく、今も行く手をふさいだ状態の大人と、運転手は顔を向き合せているらしい。もしかすると運転手は、事前にこの人物が切実なほどタクシーを停めたがっているのに気づいていたのかもしれない。
 運転手はフロントガラス越しに相手を怒鳴り散らすと、すぐさま声色をおとなしいものに一変させて、案じる様子で後部座席を振り返った。
「お客さん、大丈夫ですかい?」
 作用反作用の法則により、彼は突っ込んだ上半身を後部座席に引っ張り戻されると、今度はまた前へと跳ね返された。車は完全に止まっても、彼の身体だけは、いまだ惰性か錯覚かで前後に揺れていたが、さいわい、むち打ち等の怪我はなかった。
 そのとき、運転席の窓が急を要するように激しくノックされ、車の前に飛び出した男が、タクシー運転手に向かって声の限りに嘆願した。
「すみません! あの子を今すぐ病院に連れて行きたいんです。乗せてください。お願いします!」
 その青年が指さす先には、ひざを折って街路樹にもたれかかっている女性の姿があった。
 窓を開け、半分意識を失った様子の若い女性を確認した運転手は、せり上がる同情心を押し返すように、かえって語気を強めて言い返した。
「そ、そういうときは救急車を呼べ! こっちは仕事中なんだ」
 ふちのない眼鏡をかけた細身の青年は、ちらりと後部座席の彼を見たが、すぐに視線を運転手に戻した。この緊急時にあって、運転手を差し置いて、乗客に直談判するのはぶしつけであるとの節度を、若者はわきまえていたのだ。状況が不利であればあるほど、誠意と儀礼こそが最大の交渉術となる。乗客のほうもまた、そのことを十分過ぎるほどよく承知していた。青年の声は、間接的とはいえ、乗客へも向けられていた。
「行く病院はわかっているんです。そこじゃないとダメなんです。そんなには離れていません。どうかお願いします」
 青年は行先が近いことを判断材料におけるメリットとして述べたのだが、それを聞いた運転手は、さらに頑なになった。空港へと走るほうがはるかにもうかるからであった。むろん、根本の道理は自分にあるからでもある。
「ダメだ。緊急ダイヤルにそう伝えろ。それが筋ってもんだろ」
 そのときである。後部座席から突然、誰に向けたものでもない素っ頓狂な声が上がった。
「こんなことってあるか?」怒りのない、純粋に驚いたときに出る、喉を震わせた声だった。「こんなことってあるかよ!」
 常軌を逸したとも思える、むやみに張り上げられた意味不明な言葉に対し、タクシー運転手は、助手席のヘッドレストに右手をついて、身体ごと振り返った。
「あの、だんな?……」
「空港まではいくらだ?」あぜんとなっている相手に詰問したが、彼は返事を聞くより早く、わずらわしげに財布から万札を引き抜いて、運転手へと突き出した。「釣りは要らん。こいつで、その二人を病院に連れて行ってやってくれ。それから、トランクを開けてくれ。ドアもだ!」
 運転手より早く、青年が反応した。礼を言う前に、女性の元に走ったのだ。下車を急ぐ乗客の厚意を、一秒たりとも無駄にするわけにはいかなかったから。女性は小柄であったため、背の高い青年は手早く胸元に抱きかかえて戻ってきた。きれいな顔をした二十代半ばの女性は全身を震わせ、顔に大量の脂汗を流していた。気は失っていなかったが、目はうつろで意識も怪しかった。不思議とその口元は、微笑んでいるかのように見えた。一方、そのとき彼は、降りようとする運転手を制止して、自らスーツケースを取り出し、後部座席のドアを開け放して、二人を待ち受けていた。『急性虫垂炎かもしれないな』――女性の顔を見た彼は、そのときそんなことを思ったものである。
 後部座席に身体を滑り込ませた若者は、最後にできうる限りの最敬礼で彼に感謝の思いを伝えた。ひとつ触れるなら、儀礼を重んじる者であれば、今この瞬間、すかさず自分の財布からお金だけを(『これはいただけません』と)返すことは可能であったが、それはこの場においては、ぶしつけであり、無粋どころか無礼であるのを、その礼儀正しさゆえに青年はわきまえていたのである。
「ありがとうございます。非礼ながら、今はこの恩恵にあずかります。このご恩は一生――、一生忘れません」
 彼は『気にするな』というようにひと笑み返し、ドアを閉めてやり、早く出発するよう天井を叩いた。車が出ると、暮れかかった空を見上げ、彼は独りごちた。
「礼を言うのは、おれのほうだよ。待ってろ、おまえを雪山に一人残したりするものか」
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