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文字数 4,106文字

 家に帰りつくと、恵介はスリープさせていたパソコンを起動させ、一分で部屋着に着替えるや、すぐさま机に向かった。『にやけるのは就寝前でいい』――帰り道、そう決めたのだった――『おれにはこれしかないんだから』。シナリオはできあがっているのだが、何かが足りない。どうしても物語が浮薄に思えるのだった。登場人物の足音が、彼にはまだ聞こえてこないのだった。
 画面と三十分にらめっこし、あきらめてベッドに身を投げ出した。枕をはしっこに払いのけ、両手を頭の下に組んで、遠い目で天井を見つめながら、彼はつぶやいた。
「『きみには文学の才能がある』――本当かよ、柊一」

 中学二年のこと。恵介は部活の練習中に、右足の付け根に違和感を覚え、翌朝を迎えると、パンパンに膨れたコブができあがっていた。歩けないほどのことはなかったのだが、心配した母親がわざわざ総合病院に連絡を入れ、症状を伝え、予約をし、担当医の診察を受けたところ、リンパ節が腫れているとのことで、短期の入院をすることになった。原因はストレスだった。前回の試合で凡打が続き、監督にレギュラー落ちを告げられ、三日経っての発病だった。さすがに、責任を感じたのだろう。監督より『野球のことはいっさい忘れろ』とのお達しがあった。野球漬けだったこともあり、部活仲間以外となると、労を惜しんで見舞いに来てくれる友人など一人もいなかった。
 三人部屋の真ん中が、恵介のベッドだった。イヤホンを音漏れさせながらテレビばかり見ている腰椎コルセットを巻いたじいさんと、足を折った青年だったが、新婚なのか毎日のように彼女が来て、いちゃついていた。そんな部屋に多感な少年がじっとしていられるはずがなかった。注射の投与で腫れが引いたため、看護師の『安静にしていなさいね』の指示も聞かず、恵介は暇を持て余し、病院内を歩き回った。
 小児病室にある貸し出し自由の漫画を自分の階に持ち込み、階段そばの長椅子に寝転んで読んでいたときであった。スロープを登るのに苦労している車椅子の少年を見かけた。恵介は、その少年が自分と同世代に思えたので、見栄もあり、しばらく無視を決め込んでいたが、亀にも追い抜かれそうなスピードで、しかもここは病棟でも人気のない離れに位置していたこともあり(だからこそ恵介はこの場所を選んだのであるが)通りがかる人もおらず、仕方なく漫画を開いたまま伏せて、少年のそばに行き、声をかけた。
「ちぇっ、どこに行くんだよ」
「う、うん。二○二号室まで戻る途中なんだ」
「じゃあ、押してやるよ」
「ありがとう」
「ったく、何やってたんだよ、こんなところで」
「車椅子に慣れようと練習してたんだけど」
「道を間違えたのか?」
「いや、間違えたのは車椅子のほうなんだ」
「は? だってこれ病院のだろ」
「うん」
「じゃあ、間違えようなんてないじゃんか」
「きみ、知らないんだね。車椅子には、自走用と介助用とがあるんだよ」
「ふ~ん」
「重心の位置が違って、自走用は手前側、介助用は後ろ側に重心があるんだ」
「へ~ん」
「それで今乗ってるのが、介助用だったんで、リムが回しにくかったんだよ」
「ほ~ん……で、さっき、おれのことを『きみ』って言ったよな。そんな

こそ、年はいくつなんだい?」
「ははぁ~ん」車椅子の少年は、恵介の調子をまねて言った。「結構根に持つタイプなんだね、市崎恵介君は」
「なんで知ってんだよ、おれの名前!」
「ほ、ほら、壁! お願いだから、下りで持ち手を離さないでよ」
「悪い、悪い。で、なんで、知ってやがんだ?」
「『お行儀が悪い、同級生が入院してるわよ』って知り合いの看護師さんが教えてくれてね。この前、ネームプレートで名前を確認したんだ」
「ちぇっ、あの小うるさいネェちゃんだな。彼氏がいないもんだから、おれの部屋に来るとピリピリしてやがるんだ。それよか、おまえ、同学年なんだ。どこチュウ?」
「古小烏中学校」
「フルコガラス? どこだよ、それ?」
「新しい学校でね、郊外にあるんだ。だから今は、院内教室にお世話になってる」
「へぇ、よくは知らないけど、なんだかんだ大変だな。さっさとよくなしちまえよ。それよか、えらく奥まった場所だな、二〇二って。さぁ着いたぜ、小笹……これなんて読むんだ?」
「シュウイチだよ」
「さぁ、着いたぜ、小笹柊一君よ。あっ、いいな、個室かよ」
「誰もいないから、中に入りなよ」
「んじゃ、ま、おじゃまするぜい」
「どうぞ、なんにもない部屋だけど」
「ちぇっ、ホントに漫画の一冊もねぇじゃねぇかよ。あっ、本、めっけ――って、これ、小説じゃねぇか」
「面白いよ。夜が明けるまでに、殺人罪で捕まった恋人の無実を証明しなければならない話なんだ」
「おれは、暇つぶし同然の三流高校野球部に、利き手を怪我して、選手生命が絶たれたと思われた中学時代全国制覇した野球部のキャプテンだった生徒が入部し、一から選手として奮闘しながら、野球部全体が強くなっていくさまを描いた漫画が好きだね」
「確かに、面白そうだね。ところで、もしかして、市崎君は野球部なのかな?」
 恵介はイガグリ頭を自慢げに撫で回した。
「もちさ」
「じゃあ、その練習中に、怪我したんだね、かばっている右足」
「まぁ、そういうことだな。おうっと、そろそろ、帰るとするかな。回診の時間だ。先生がそばに居やがるときだけ、真面目くさった顔しやがるんだぜ、あのネェちゃん」
 柊一はクスッと笑った。
「きみたち案外気が合うのかもしれないね。『その子、先生がいるときだけ、いい子ぶるんだから』って相手も言ってたよ」
「ちぇっ」
「また来るといいよ、市崎君」
「いいのかよ、毎日のように来るぜ。おれ、暇だからな」
「かまわないよ、ぼくもどうせ暇だから」
「んじゃ、また来るぜ、小笹柊一」

 次の日、柊一の病室――。
「んでよ、おれがバスター決めたら、相手は度肝抜かれて、ランニングホームランになりかけたんだぜ」
「すごいな、市崎君はいつから野球を始めたの?」
「小学四年からさ。といっても小学校の部活じゃなく、校区にあるチームに入ることになったのがきっかけなんだ」
「ぼくもね、ちょうどその時期からテニスを始めて……ずっとやってたんだよ」
「ふ~ん、そうだったのかよ。そんじゃ、おれと一緒、やりたくてうずうずしてるだろ」
「うん……」
「ところでよ、オホン、そのテニスに関して一つ聞きたいんだが、女子のはいてるアンダースコ――」
「ア、ごめん、誰か来たみたいだ。どうぞ。なぁんだ、麻美か」
 ノックがあり、重そうに両手でドアを開けながら一人の少女が入ってきた。
「お着替え持ってきた。……誰、この人?」
「お兄ちゃんのお友達さ。ちゃんと挨拶なさい」
「……こんにちは」
「お、おう、こんちは」
「……あたし、お母さんとこ行くね。また来る」
 少女は紙袋をベッドの脇に置くと、すぐさま出て行った。
「すまない、人見知りでね」
「まさか、お母さんも入院してるのか?」
「ハハ、それこそまさかだよ。一緒に車で来たんだよ。きっとアイツだけ先に降りたんだ」
「そうか、家から遠いんだもんな。おれなんかチャリで来られる距離なのに、誰も見舞いに来やしねぇ。親も共働きだから、必ず来るのは週末のどっちかだけさ。んじゃ、つまんない部屋に帰るとすっかな」
「居てくれても構わないよ」
「いや、帰る。そして、また来る」
「あ、そうそう、さっきの質問って何だったの?」
「な、なかったことにしてくれ」

「よう、今日はいたな」
「ごめん、言っておけばよかったね。昨日は検査だったんだ」
「おかげで昨日は、暇でしかたなかったぜ。隣のカップルが『何やってる、早く出て行け』って視線を送るから、やることもないのに『ここがおれの居場所だ』って居座ってやったよ。で、今、何してたんだ、窓を見上げて?」
「うん、雲を見てたんだ」
「クモ? 蜘蛛の巣でもあるのか?」
「いや、水蒸気が固まったほうの雲だよ」
「ああ、空に浮かんでるやつな。どれ? 一緒に見てやる」恵介は目線を合わせるため、自分の顔を柊一の真横につけて、一緒に窓越しの空を見上げた。「なぁんだ普通じゃねぇか。な、なんだよ。風呂に入ってないから、臭うか? ちゃんと濡らしたタオルで拭いてるんだけどな」
 恵介とは違い、たとえば、男子同士で円陣を組むなどしたことがない柊一は、含羞の色を浮かべ、思わず下を向いた。
「い、いや、そんなんじゃないから。それより、ほら、あそこのビルの避雷針の上にある雲だけどさ、下側だけ猛スピードで流れて、さながら走る雪だるまのようだね」
「違うな、あれはしょげかえった猿さ。うつむき加減と、尻尾の垂れ下がり具合からしてな。尾の長さからいって、子猿だろう。あんまり甘えるんで母親に叱られたのさ」
「! ほ、本当だ。じゃあ、その左隣の伸びあがった雲だけど、あれは間違いなくしゃちほこだよね」
「ふ~ん、それでいいのか?」
「だって、それ以外にないよ。ぼく、名古屋城で実物大のレプリカを間近に見たことがあるもの。胸ビレのところなんてそっくりだ」
「残念。あれはな、上から紙を入れるタイプの古いファックスさ。待て待て、真横から見るんじゃなく、ちょっと斜めに見るんだ、ファックスをな」
「ウッ……じゃ、じゃあ、残月の下にあるのは?」
「あれは、簡単。二塁手のジャンピングスローさ。ショートじゃないぜ、首の向きが違うからな。セカンドベースよりの速いゴロだが、シフトで読んでたんだろう。足がしなやかに伸びているところを見ると、タイミングはアウトだな」
 柊一は真理を喝破したように叫んだ。
「市崎君、きみには文学の才能がある!」
「てへへ、まぁな。それよか、その『市崎君』っての、そろそろやめよーぜ。おれたち同学年なんだしな」
「う、うん。……ア、でも、まだやめておくよ。だって、さっきの言葉、お世辞みたいに思われたらイヤだから」
「へん、なに言ってやがる。おれは前々から小説家になろうと思ってたんだ。もっとも球界を華々しく引退してからな」
「ほんとうかい?」
「ああ、マジさ」
「じゃあ、今から呼んでいいかな、きみのこと――恵介君って」
「だからぁ、君付けするなって」
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