5-3

文字数 4,605文字

 帰りのホームルームが終わるとすぐ、恵介は担任教師に呼び出された。
「さっき――といっても、五時間目が始まる前なんだが、きみのお母さんから電話があってね。授業が終わり次第、家に電話をかけてきてほしいそうだ。きみの家族になにかあったわけじゃないから、その点は安心していいとのことだ。では、カバンを持って、一緒に職員室に来なさい」
 職員室に入り、担任教師の隣席に座って恵介は家に電話をかけた。
「あっ、恵介。実はさっき、あんたが入院していた病院の看護婦さんから電話があってね。小笹柊一君って子の容態が急変したんで、連絡をしてきてくださったんだよ。あんたが、最近よく話題にしていた、お友達のことじゃないかと思ってね。なに、この音? ねぇ、恵介、聞いてる?」
 カバンはそのまま、担任が呼び止めるのも聞かず、恵介は学校を飛び出していった。

 階段を駆け上がってきた恵介を見つけるや、ナースステーションの受付にいた看護師が即座に立ち上がったが、恵介は視界におさめることなく、柊一の病室へと駆けつけた。
「おい!……」
 ドアを開くと同時に呼びかけたが、室内には誰もおらず、配置ごと乱れたベッドがあるだけだった――なぜかそのとき見たリボンの巻かれた巨峰とオレンジの果物カゴだけは、今も彼の目に色鮮やかに焼き付いている――。背後に気配を感じ、振り返ると、顔なじみの看護師が立っていた。彼はいきり立って、彼女に詰め寄った。
「し、柊一はどこ? 手術? 手術しているの?」
 三週間前、生まれて初めて入院し、十四年間、およそ病魔というものと関わりを持たなかった恵介に思い浮かぶ治療法といったら、それくらいであった。
「血は、血はいらない? おれのだったらいくらでもあげるから」
「市崎君……」噛んだ唇を解き放って、看護師は告げた。「会いたいよね。小笹君は、別棟の臨床病理、いえ、特別室にいます。でも、もしかしたら――」
 病院の敷地内なら探検し尽くした恵介は、当然その場所も心得ていた。そのときは看板一つなく、放射線マークの入り口に恐れをなして、素通りした施設だった。今度はそのドアに、ためらうことなく飛び込んだ。目の前、三十メートルはある一直線の廊下の中ほどに、スーツ姿と白衣姿の大人の一団が見えた。そのあいだに、青リンゴ色のフリルのワンピースを着た女の子も垣間見えた――麻美であった。彼は一目散に駆けつけた。麻美は恐ろしい顔で、彼を睨みつけていた。初めて見る父親の横に立つ母親に向かって、恵介は激しく息巻いた。
「柊一はどこ? ここ? それともあっち? どこにいるの!」
 表情をこわばらせる母親に代わって、父親が彼の前に立った。
「そうか、きみが市崎恵介君だね。ここを出る直前まで、家内は『きみを待ちたい』と言ったんだが、本人の意向を尊重してね。市崎君、柊一はね、もうここには居ないんだ」
「じゃあ、どこの、どこの病院に移ったの?」
 割って入ろうとする、医師を制して、父親が答えた。
「大学病院に移送されたが、治療のためじゃない。研究のためなんだ。柊一はね、十四時十六分、筋疾患性の病で亡くなったんだよ」

 学ランを着て家を出たまま、学校をさぼり、自転車で十キロもの道をこいで、恵介は柊一の実家にたどり着いた。
 しめやかな葬儀が執りおこなわれるなか、ずかずかと廊下を突き進み、和室の引き戸に手をかけ、力任せに引いた。式はまだ読経の最中であり、正座をした参列者が全員振り返って、彼を見上げた。そこに恵介と同年代の中学生らの姿はなく、彼らは放課後、教師にともなわれ弔問に来る予定だった。そのときの恵介の顔つきを見て、柊一の父親だけが、すばやく膝立ちの状態になったが、すぐにそれ以上の行動に出ようとはしなかった。恵介は、念仏を唱える金色の袈裟をかけた僧侶の横に立つと、しばらく白木の位牌と遺影を睨みつけ、突然大粒の涙を流すと、大声でわめき散らした。
「なんだよっ、勝手に死にやがって。おれに死んだって証拠も見せないで、それっきりかよ、バカ野郎。ハクセキレイにでもなりかわったつもりか……。『ねぇ恵介』――そんな空耳で、いきなしおれを怖がらせるつもりか。親友じゃなかったのかよ、おれたち……。おまえのせいで、おれは永遠にうそつきになっちまったじゃねぇか。もう一生、もう一生うそなんてつくもんか……チクショウ」
 何を思ったか、恵介は僧侶が立てたばかりの火のついた線香を右手で握りしめるや、足元の畳に向かって投げつけた。彼は猛然と振り返り、大股で玄関へと突き進んだ。靴の踵を踏んだまま、玄関を出ようとしたとき、柊一の父親に呼び止められた。
「市崎君、柊一はね、誰よりもきみを親友だと思っていたよ。突発的に病状が悪化したときだって、口にしたのはきみのことばかりだった。うめきながら『あいつは怒るだろうな』って漏らしていたよ。それでも最後のときは、気丈に振る舞い、わたしたちに別れを告げた。『ぼくの死は無駄じゃない。無駄になんて死ぬものか。麻美、こっちへ……。かわいい泣き顔だ。その顔が、何もない無への――死への恐れをなくす』。そういって、自分が亡くなり次第、肉体のすべてを検体に出してくれるよう、多賀先生とわたしたちに約束を求めたんだ。だから、どうか、あいつを責めないでやってほしい」
 視界の端に両親の姿が入るだけ、首を回して振り返った恵介であったが、その目に飛び込んだのは、母親にすがりつきながらも、この世の悪を非難するような目で恵介を睨みつける麻美の姿であった。

 高校二年時、マリンワールド――。
「……わたしたちだけになっちゃったね」
「お、おう」
「行く?」
「ど、どこへ?」
「別に決めてないけど……また集まるまで一時間半はあるんだし」
「お、おう、行こう!」
「どこに?」
「さ、さぁ……」
「プッ、市崎君って、おもしろい。待ってて、あそこにパンフレットがあるから、もらってくる」
「お、おれが行こうか?」
「どうして? すぐそこだよ」
「いや、『どうして』ってことないけどさ」
「ふ~ん、市崎君って、やさしいんだ」
「し、知らねぇのか。おれ、こう見えて、バントに失敗したことないんだぜ。スクイズもな」
「ばんと? すくいず?」
「ゴク……もしかして、野球、詳しくない?」
「全然知らない」
「そ、そう……でも、おれ、野球部なの知ってる?」
「知ってる。学校で坊主頭なの、野球部の人だけだし。ごめん、とりあえず、行くね」
「……まいったな。野球ネタはご法度かよ。どうしよう?……」
「はい、取ってきたよ」
「ありがとう。ん、あれ? もう一枚ないの?」
「えっ? うん、なかったの……」

「ゴマフアザラシ、かわいかったね」
「あ、ああ」
「近くにくればよかったのに、遠巻きに見てるんですもの」
「お、おれはそれほどでもなかったもんでね」
「約束の時間なのに、みんな全然来ないね」
「チッ、あいつら――呼び出してやろう」
「やめなよ。そのうち来るから」
「ああ、そうだな……」
「ごめんね、つまんなかったでしょ、わたしなんかといっしょで」
「な、何を言うんだ! おれこそ、悪い、つまんなくさせちまって。きっと、ショー見て、飯食ったら、色々変わるはずだから」
「……市崎君は、変わりたいの?」
「ん、なに? 悪い、館内放送が邪魔して」
「ううん、なんでもない……」
 そのとき、待ち合わせ場所のインフォメーションにあるチラシや広告が差し込まれたラックが二人の目の前で整理され、パンフレットも追加された。
 背を向けた恵介が、唐突に口を開いた。
「さて、あとはどこがあるんだっけ。パンフレット、見せてもらえるかな」

「ラッコ、かわいかったね」
「ああ、殻を割ったハマグリを引きちぎって食うさまがだろ」
「んもう。あそこは例外」
「だけどさ、おれ、本当にあのシーンに感動したんだぜ、真の野性の姿を垣間見た気がして」
「ここは水族館であって、サファリパークじゃありません」
「ああ、ごめんごめん」
「みんなで集まる前に、わたし、一つ、聞きたいことがあるの」
「なに?」
「館内マップはあとで――。ご飯を食べたあと、男女のグループに別れて、シャッフルか現状維持かの投票をしたでしょう? 市崎君、どっちに投票したのかなと思って……」
「そ、そりゃ決まってるさ。五対五だし、一人違うのを上げるわけにもいかないから、同じにしたさ」
「ふ~ん、でも、わたしたち、シャッフルの子、一人いたよ。もちろん、誰かは言えないけどね」
「そ、そうなんだ……」
「最初に『ラッコ、かわいい』って言ったでしょ。でも、実はわたし、ほかにもっとかわいいものを見つけたんだ。あっ、もう、二組来てる。行こ、市崎君」

 後日、放課後の校舎――。
「市崎君!」
「オ――おお、どうした? こんなところで」
「びっくりし過ぎ……だって全然連絡くれないから……電話番号教えたのに……」
「あ、いや、ごめん。県大会が迫ってて」
「夜でも構わないけど」
「そ、そうだね。しかし、まぁその、先日はどうもありがとう……」
「じゃあ、夜にでもかけてくれますね」
「お、おう……」
「それじゃあ、さよなら。練習で怪我しないでくださいね」
「あ、ああ、さよなら…………けど、なに話すんだろう?」

 日曜日、夕方、ファミリーレストラン――。
「まったく。市崎君って、とことん野球好きなんですね。今日もこの時間まで部活するんですから。大学も続ける気なんですか?」
「いや、続ける気はないよ。高校できっぱりやめるつもりだから。オッ、来た来た、宇治金時」
「おじいさんみたい……」
「ん、なに?」
「ううん、食べ方が子供みたいって言ったの」
「ア、イテ――頭ヤラレタ」
「ねぇ、市崎君、今日、呼び出して迷惑じゃなかった?」
「全然、だって、学校帰り、いっつもここのかき氷食べたいなって思ってたもん。安いし」
「そういうことじゃなくて!」
「い、いや、全然。こっちこそ、折り返しの電話が遅れてごめん」
「そんなことはいいんです。どうぞ、食べてください」
「うん……あ、そうだ、今日、何してたの?」
「エエ、はい。友達に、ちょっと相談を――」
「そう、なんだ……」
「――市崎君」
「な、なに?」
「わたしのこと、どう思ってる? こんなこと言って、積極的な女だって勘繰られるのは嫌だけど、わたしね、男子が市崎君を含めた残り二人になったとき、つまり男女合わせて四人になったとき、もう一人の女の子と、咳する真似をしながら言い合ったの――『コレ無理、四人にしない?』これはもう一人の女子の意見です。『わたし……市崎君がいい』『ゲッ、まじ。じゃあ、わたし、あの全然似合ってないラルフローレンってことになるのね』『ごめん』『いい。あいつは手ぶらでも、わたしは土産に何か買ってもらうから。じゃあ、先行くね』って。だから、わたし――」
「おれは――」恵介はスプーンを受け皿の上に置いた。「きみに選ばれる値打ちもない男だよ」
「エッ、どういうこと?」
「事前に言っておくよ。ここの代金、おれ、払うから。……きみのことは当然一年時に同じクラスだったから、ある程度は知っていたけど、言うなれば、好きでも嫌いでもなかった。でも、今はきみのことが好きといって過言じゃない。だけど、あのときおれは、きみじゃなく、もう一人の子に当たればいいなと、心ん中で願ってたんだ」
「そう……わかった。正直に話してくれてありがとう。じゃあ……さよなら」
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