文字数 3,114文字

 夜中の十二時一分前の着信に、恵介はワンコールで電話に出た。遠路はるばる来た客を出迎え抱きしめるように、有無を言わさず彼から話しかけた。
「こんばんは。きみからかかって来るのをずっと待ってた。自分から出て行ったくせに、なんて情けない男だろうね」
「こんばんは。わたしはもう電話に出てくれないんじゃないかって、ずっと心配していました。どうしても、このまま明日なんて迎えたくなくて。恵介さん、わたしの知りたいのは、これだけです。もう――これっきりってことはないですよね?」
「真実さん、おれ、ずっと考えてたんだ。出会ってから今日まで、そうあの瞬間さえ、やはりきみが、おれをリードしてくれた。今度はそれをやり直したい。もう一度、一からやり直せるかな、

。きみと手をつなぐ前から」
 一呼吸あって、真実が口を開いた。
「恵介さん、わたし、行きたいところがあるの。連れて行ってもらえる? マリンワールドに」

 ある日のデート中――。
「野球のことですけど、どうして高校でやめちゃったんですか? 今でもバッティングセンターで、あんなにきれいに打ち返せるのですから、高校生の頃はきっともっと上手だったんでしょう。大学で続けようとは思わなかったんですか?」
「燃え尽きたからかな」そう言って、恵介は肩をすくめてみせた。「といっても、甲子園とか全然そんなレベルじゃなくてね。ぼろ負けもすれば、まぐれで強豪校に勝ったりもする、一流には手の届かない二流どころでね。まぁ、だからこそ、三年時には副キャプテンをやらされたんだけど」補足として監督を含め部内満場一致のキャプテン候補だったのだが、彼が固辞し、その代わりに副キャプテンに収まったという経緯があった。自分は高校卒業を機に野球から身を引くと決めていたことのほか、キャプテンという栄誉を野球を続ける仲間に譲りたかったというのもあった。
「すごい、恵介さん、副キャプテンだったんですか。それならなおのこと、もったいない。未練はないんですか?」
「ない! うそみたいにないんだ。もう、野球で果たす夢は叶ったから」
「『野球で果たす夢』って?」
「真実さん、きみにはちょっと理解できないことかもしれないな」
「かまわない。ねぇ、教えて!」
 袖を掴まんばかりに懇願する真実を見て、恵介も仕方なく折れた。照れ隠しに人差し指でこめかみをかいてから、彼は打ち明けた。
「『レギュラーで、四番センター』――どうしてもそういう選手になりたくてね。中学時代は三年生のとき、レギュラーで四番にはなったが、センターはやらせてもらえなかった。鬼監督でね。『背が高いやつは外野だ』って言っておきながら、おれにはデカ過ぎるからって、ファーストをあてがいやがってね。高校二年の秋大会で『レギュラーで、四番センター』の夢は叶ったけど、いくらなんでもそこで辞めるわけにもいかず、高校までは続けることにしたんだ。傑作なのは、こんなおれに大学からスカウトが来たってことさ。監督が相当粘ったが、おれがこんな気持ちだったから、最後にはすっかり仲違いしちゃったよ」

 ある日のデート中――。
 二人が街中を歩いていたとき――彼らは人前で手をつなぐことはなかった。ただし、歩くさなか、互いが互いの視線を感じ、よく微笑み合った――、自転車に乗った小学生の一団が後方の曲がり角から現れ、二人を追い抜いていった。車道側にいた恵介が、建物側に身をずらし立ち止まると、その横を一列になった少年たちが、立ちこぎしながら駆け抜けていった。
 追い抜きざま、一人の少年が顔を振り向かせ、最後尾の少年を悪しざまにののしった。
「バーカ、やっぱトレカ売ってなかったじゃねぇか、あの店。うそつき、おまえなんか死んじまえ」
 うつむくばかりの最後尾の少年だったが、横にいた恵介がその少年に代わって応答した。間髪入れず発せられた声は、少年たち全員に聞こえるまで響き渡った。
「そんなおまえが死んじまえよ」
「エッ……」
 少年たちはとまどいつつ、抜き去ったあとで、塊をなして自転車を停め、おずおずと背後を振り返った。恵介がその場に立ち止まっていたからこそ、彼らも間隔を置いて、自転車を停めることができたのだった。
 発言した男児が、代表する形で聞き返した。
「な、なんだよぅ」
「『死ね』なんて口にするものが誰より先に死ぬべきだ。それに、どうしてうそをついたくらいで死なにゃならん!」
 その剣幕にひるんだ少年たちは、立ちすくんだまま、一言も言い返せなかった。ややあって、『い、行こうぜ』との先頭の少年のささやき声がきっかけで、少年たちは一斉にギアをガチャつかせ、その場から走り去った。最後尾だった少年だけが、何度も恵介を振り返っていた。
 少年らが遠のくと、直立不動だった恵介は、われに返り、あわてて背後を振り返った。
「アッ、ごめん。きみがいることも考えないで」
 彼女を怯えさせたのではないかと危惧した恵介であったが、元来そんなことで怖気づく真実ではなかった。今の一件を、別境地に立って眺めていた真実は、驚きをもって恵介の顔を見上げていた。
「ねぇ、恵介さん。まさか、本当に、うそをつかないんですか?」
「ん、ああ、つかないよ」
 恵介は道路の前後を確認しながら、平然と言ってのけた。
「ずっと?」
「いや、ずっとじゃない。あるときから、つかなくなっただけ」
 こともなげに答える恵介に、真実は驚嘆に畏怖が入り混じった様子で聞き返した。
「だ、だとしても、それをやり通しているとしたら、すごいことですよ」
「そうでもないよ。歩こう、真実さん。そうでもないんだ。うそはつかなくとも、誤魔化すことは許容してるんだから」
 出遅れた彼女は、急ぎ足で彼に追いついた。
「だ、だとしても、すごいことに変わりはありませんよ」
 あたかも達観したように、目をつむったまま、恵介は首を振った。
「人間、まっとうに生きいてれば、うそをつかなければならない機会なんて、そうないものだよ。まぁ、会社勤めの頃は、つらいこともあったけど……。そうだ、タレントの食レポでの発言を思い出してもらうといい。おいしいものは、純粋に『おいしい!』って言うけど、ときには苦手な食材があったり、もとより本人の口に合わないものもある。それでも、彼らは便宜上、おいしそうな顔と雰囲気を演出しなければならない。そんなとき、自らを偽りたくないレポーターは『好きな人にはたまらない味ですね』とか『クセのあるパンチの効いた味ですね』なんて、焦点のすり替えをはかるよね。あれと一緒。おれがよく使っていた手は、一言『そうかもしれない』と、もう一つは『わかったよ。つまりきみは、おれがそんなふうに考えてると思ってるわけだ。で――』というやつだけど」
 珍しくも、真実から恵介の左半身に飛びかかり、二人は腕を組んだ。
「ふ~ん、覚えておこう。ところで、恵介さん、教えてほしいの――わたしのこと好き? 『はい』か『いいえ』で答えて!」

 常態に復するどころか、短時日で、二人は急速に親密さを増していった。真実の冷淡さはあとかたもなく霧散し、丁寧語も年下由来の最低限に留められた。屈託のない心からの笑顔も見せるようになった。恵介は恵介ですっかり素の状態になっていた。先の発言からもわかるように、彼は何一つ彼女に隠そうとはしなかった。彼らはまったく焦っていなかった。『来るべきときが来れば、一線を越える関係になるだろう。だからそれまでは焦らずにいよう』との暗黙の了解ができていたかのようだった。このままであれば、そう遠くない未来、グラスの中で重なった氷が転がるように、その日は訪れるはずであった。このままであれば……。
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