10(回想)

文字数 3,902文字

 一昨年、柊一の祥月命日――。
 同じリンドウの花を見たのは、二回目だった。墓前で美しく咲くリンドウの花をつぶさに観察した麻美は、それが当日ではなく、前日に供えられたものであろうと推測した。大切な兄の墓に、突然供えられるようになった花――。それもわざわざ命日を避けるようにして――。麻美としては、誰がどういう意図でおこなっているのか、確かめておかずにはいられなかった。

 それから一年――正確には一日足りない――が過ぎ、彼女は朝から霊園の管理事務室で、兄の命日前日に墓参りする謎の人物を見張ることにした。めったに見ない紺一碧の空だった。明日の命日はあいにくの時雨だという。柊一の墓は休憩室の窓からぎりぎり目の届く場所にあった。すぐそばに桜の木が植わっていたので、列を間違えることはなかった。まだ若木だったが植樹された桜の木を見て、すぐに麻美が『ここがいい』と懇願し、別の場所に決まりつつあったものを取りやめて、墓地が決まったのだった。
 命日は毎年必ず、お盆やお彼岸、正月にもよく墓参りに来る麻美は、常駐している職員とすっかり顔なじみであり、事務室と隔離された休憩室で『人を待つ』ことを職員は快く承諾してくれた。
 今日は平日である。事前に、コンビニでパンとコーヒーを買って、なんなら閉園ぎりぎりまで粘るつもりでいた。居づらくなれば、車で待っていればいいのだ。駐車場からでは、柊一の墓は見えなくなるが、その近辺で青いリンドウの花を持っていれば、きっとその人物に他なるまい。麻美はそのくらいの覚悟でいたが、あにはからんや、その者は彼女が休憩室の長机の角に着席して、四十分で現れた。
 社用車のような白のステーションワゴン車が目前の道を通り抜け、駐車場へと入り、その方角から、ジーンズにハーフコート姿の背の高い男が、地面を踏みしめるような神妙な足取りで現れた。その手を見たとき、彼女は思わず立ち上がった。記憶にあるのとそっくりの、五角形の真っ青なリンドウが、包装紙に巻かれて握られていたからである。その、終始うつむき加減の若者が、まさに彼女のいるガラス張りの休憩室の目の前を横切り――彼女の人影を感じたのか、男は軽く頭を下げた――、事務室前に並べてある手桶と柄杓を取って、柊一の墓前へと向かっていった。むろん、彼女は休憩室を飛び出して追いかけた、相手に気づかれぬように。
 しかし、追いかけるうち、彼女はその男が誰であるか、うすうすとだが、勘づき始めた。彼女が知る中学時代の後ろ姿の面影と今の男のものとが、がっちり一致したとき、麻美ははたと立ち止まり、もう少しで相手を振り向かせるほどのジャリ音を立てるところだった。そのあとは、理屈抜きに、本能の赴くまま、彼のあとを追い、桜の幹に身を隠した。
 男は――市崎恵介は、柊一の墓石に柄杓でたっぷりと水をかけ、花立の水を替えて、リンドウを供えると、片膝立ちになって、深々と合掌した。そして手を解くと、じっと墓を見つめたまま、まるでそこに人がいるように、声に出して話し始めた。
「おはよう、柊一。……今回も、小説、ダメだったよ。短編とはいえ、小手調べの一作目とは違い、本気だったし、自信もあった。完成する頃には、何をするにもブルブル震えてさ。きっと脈拍も相当上がっていたに違いない。さいわい、あれ以降、歯科医を除いて病院の世話になったことはないがね。原稿を送ってからは、電話がかかって来るたびに、心臓を縮み上がらせたもんだ。それなのに……結果は、一次審査すら通ってなかった……。去年はここで、『次こそ!』と奮起して見せたけどさ。さすがに、今回は……な。柊一、おれ、会社を辞めないほうがよかったのかな? 辞めずに書き続けられたかな? いや、無理だろう。それにやっぱり辞めてよかったよ。あの場は居たたまれなかった……。仕事そのものは好きだったんだけどな……。八方ふさがりだった現実に対して、小説の中だけはのびのびと生きられた。うん、ともかく、そのことだけは感謝しているよ――皮肉を言ってるんじゃないぜ。ところで、やい、柊一、おまえ、本当に空から見守ってくれているのか? 書いてみて、やっぱ気づいたが、おれに文学的素養なんてねぇぞ。だいたいな、雲の形から、その来歴を適当に語ってみせたくらいで、どうしてそうなる? 何?――『人物の背景が深まる』だと? へぇ、その発想はここに来るまでなかったな……。しかし、深まるもんか。おれの登場人物には影さえありゃしないんだからな。『影』か……ふむ。それはそうと、おれが今、何をしているか、知りたいか、柊一? ヘッ、何もしてねぇのさ。毎朝のハンバーガー屋通い以外はな。何もやる気が起きないんでな……。そういや、昨日の朝、店に行く途中、おれの顔をかすめて飛び去ったハクセキレイ――あれ、おまえじゃないよな?」恵介は自嘲とも見えるもの悲しそうな笑みを投げかけると、ゆっくり立ち上がった。「さて、もう帰るよ。今回は愚痴ばかり言って悪かったな。そうそう、もう半年も前の話だが、おまえが写真を指さして『この子かわいいね』って言って、おれが『こいつはよせよせ』と言った、ぱっつん前髪に後ろ髪が腰まである女の子いたろ。結婚して三ヶ月で別れたよ。手を上げたからなんだと、彼女がな。おれ……もう小説を書くのは止めようかと思っている……。じゃあ、なにはともあれ、来年また来るよ」
 麻美はうっかり最後まで聞き届けてしまったために、その場から離れる機会を失ってしまった。が、小柄で細身の彼女は木の幹に沿って隠れることで、どうにか男をやり過ごすことができた。恵介が柄杓を入れた手桶を事務所へ返しに行くまにまに、彼女は母親の軽自動車に乗り込み、エンジンをかけるとともにギアを入れ、先に霊園を飛び出した。職員に挨拶もせず、この場を去ったのはこれが初めてだった。どうせ明日も来るのだから気にしなかった。駐車場から出る際、見失わぬよう男の車のナンバープレートを控えておいたほうがよいかもしれないと手帳に手を伸ばしたが、すぐにその手を止めた。一番奥に駐車しておいた彼女には、手前に停まった彼の車の後部ハッチが、大きく凹んでいるのが見てとれたからだ。これならたとえ車通りの多い場所に行き、よく見る同じ商用車が現れても、見間違えることはないだろう。麻美は、裏道を知る地元住民でもない限り通らざるを得ない国道への通り道の先で停車して、どちらの方向に行こうと、追跡できる状態で待ち構えた。
 この、もともと予定になかった、不可解きわまる探偵行為の原動力がなんであったか? おそらく、このとき待ち伏せする麻美本人に尋ねたとしても、と胸を突かれたように『本当だ……』とばかり動揺するであろう。しかし、まだ表層にはいたらない彼女の深層心理は、いっさいあわてることなく、その動機を提示することができた。
 一つは、幼き少女だった彼女は、何の罪もない兄にくだった死という無慈悲極まりない天の裁きがどうしても無抵抗には受け入れられず、兄の死の責任を誰かに転嫁せざるをえなかった。そのとき白羽の矢が立ったのが、親族でも医者でもない、第三者である彼――市崎恵介であった。彼女は兄を看取った瞬間から、恵介を死神の手先のように嫌忌した――彼が現れたから兄は死んだのだと。彼女は中学生になって以降、そのことを思い出すたび、恐ろしい後悔の念に駆られたものである。もう一つは、いくら親愛なる兄の死という絶望的状況に見舞われようと、彼女には心の痛みを共有し、分かち合える両親がいた。しかし、親友を失った彼は、一人孤独にもがき苦しむほかなかった。そして最後に、いっさいを見通していた兄から『彼の力になってほしい』と頼まれていたにもかかわらず、手を貸すどころか、目の前でうずくまる人間を目をそらして通り過ぎたこと――それらが三つ巴となって、消えることなくいつまでも彼女の脳裏に居座っていたのである。
 その日彼女は、彼の会社員時代の知り合いの家を経由して(その人物に車の鍵を借りたのだった)、恵介の住むアパートと彼の部屋がある階数を探り当ててから、家路についた。帰りついた麻美は、仏壇の前に座ると、拝むことなく、兄の遺影を見続けた。
「あの人はいい人かもしれない。でも、そのうち、お兄ちゃんと出会ったために人生が狂わされたなんて言い出すかもしれない。そんなこと言わせるもんですか! お兄ちゃん見てて。まだ、間に合うよね。わたし、がんばるから」

 現実(いま)に話を戻す。
 麻美の携帯電話が鳴った。恵介からである。『もう今週末のデートコースが決まったのかしら?』そう思って電話に出ると、思いがけない申し出を受けた。
「あ、真実さん、こんばんは。実はね。今週から、書きかけの小説がちょうど山場を迎えててね、なかなかうまくいかないもんだから、申し訳ないけど、今週末のデートは見合わさせてもらえないかな。次のとき、きっとこの埋め合わせをするからさ。それでね、本当に集中したい時間は、電話の電源を落としてしまうけど、気にしないでいいからね。月曜日に必ずかけるから、それまで待ってもらえるとありがたい」
 注釈を加えるなら、彼の小説は、ある種、確かに山場を迎え、現になかなか(というよりもうまったく)うまくいってはいなかった。
「うわー、作家さんって本当にそういう状況になるんですね。わかりました。わたしも邪魔しないように努めます。ちょうどわたしのほうも、そろそろ自動車整備に関する資格の準備を始めなきゃと思っていたところだったんです。お互いがんばりましょうね!」
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