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文字数 2,971文字

 空くことになった日曜日は、前日の寺塚翼からの誘いもあり、午前中は早起きして勉強に勤しみ、午後は息抜きがわりに翼と天神を街ブラしたあと、一緒に夕食をとり、夜にまた問題集とにらめっこするつもりでいた。
 パスタの店に入って、注文を終えた段階で、麻美は今日、翼と会ってからずっと気にかかっていたことを切り出した。
「もう、なんなの。わたしの視線を避けるように溜息ばかりついて」
「ううん、別に――」
「なに? もしかして、会社で好きな人ができたとか?」
「女ばかりの職場で、どうして彼氏ができるのよ……」
「だったら、受講生は? 英会話教室の受講生なら、仕事で海外に行くエリートサラリーマンも学びに来るんじゃない?」
「わたし、事務だから関係ないし」
「そ、そっか」
「でも……講師の外国人には、よく食事に誘われるけど」
「なぁんだ、ほら、やっぱりそうなんでしょう。どこの国の人よ、ほらほらぁ」
「みんな既婚者だから、ついて行くはずないし」
「そ、そう……なんだ」
「男の話が出たついでに……あなたはどうなのよ」
「エッ、わたし?」
「その『わたし』以外、ここに誰がいるの」
「別に、あの人は彼氏といっても……」
「あのね、麻美。もう十分なんじゃないの? きっと、あなたのお兄さんも、そう思ってくれているはずよ」
「うん、わかってる。それに、あの人をあざむき続けるのはよくないことも……」
「『始めるのは易し、終わるのは難し』って言うでしょ」
「エッ? なにそれ、いま初めて聞いたけど」
「じゃ、じゃあ、覚えておきなさいよ。なんだってそうなんだから。あっ、パスタが来たわ。続きはあとね。いただきましょう」
 そこからは、麻美のほうがうつむき加減になって、店内を眺めながら溜息をつくことが多くなった。麻美のフォークが進まないのを見て、翼が話しかけた。
「ねぇ、平丘のこと、覚えてる?」
「ええ、あなたの初恋の人でしょ」
「厳密には初恋じゃないんだけどね」
「あ、だまされた。初恋だと思っていたのに」
「わたしの初恋の人だろうとなかろうと、平丘はもはや『麻美にぶたれた人』で通ってるわよ。わたしね、その恩義――ずっと感じていたのよ」
「バカね。そんな必要、これっぽっちもなかったのに。ぶったのは、純粋に腹が立ったからで、あなたを思いやってのことではなかったのだから」
「うそね。確かに、当時言われれば、そう信じたかもしれない。でも、あんたをよく知る今は、あれはわたしのことを――少なくとも半分くらいは――想って、ぶってくれたんだってわかるもの」
「三〇パーだったかもしれないわ」
「それでもいいわ。あの頃は、顔見知りでしかなかったから。ともかく、恩義を感じていたわけ。それでね……実行することにしたの」
 その決意表明じみた発言に、麻美はただならぬ胸騒ぎを感じて、上げたフォークを下ろして聞き返した。
「エッ、何を?」
「あいつにすべてを教えてやったのよ」
「あ、あいつって?」
「なんにも知らずに、自分はモテ男だと思い込んで、あんたをもてあそぶだけもてあそび、早くねんごろの仲になろうと舌なめずりしている男よ」
 パスタ皿を脇にどかし、腰を浮かせて、麻美は迫った。
「か、彼に何を言ったの?」
 さも当然のことのように、翼は答えた。
「あんたが、長田真実なんかじゃなく、小笹麻美だってこと――それ以外にないじゃない」
 即座に麻美は親指の爪を下唇に当て、考え込んだ。これは幼き頃、母親に叱られた彼女の古い癖だった。このとき、麻美の動転を抑え込んだものの中には、『いつでも言えば終わらせられる』といった、初期の頃から持ち続けている自分自身への言い訳めいた思い込みが働いたからであった。それに他人が手を貸しただけ――そう受けとめられた。だが、その思い込みは、いつしか、二人の時間を重ねるにつれ、次第次第に思考の片隅へと追いやられてしまっていた。いまや視野にも入らぬ、引き出しの中に収まっているといったような、一応は知っている、ただそこにあるというだけの存在になり変わっていた……。
 最初に引っ掛かった事柄が、口からほとばしった。
「ま、待って! その前にどうやって? どこで会ったの?」
 翼には麻美の態度が予想外だった。彼女は束縛された縄をほどいてあげた気になっていたのだ。
「どうしたのよ。ちゃんと説明するから落ち着いて……そう、そこに座って。電話よ。わたしんちで鍋したときのこと覚えてる? あのあと、あなたが洗いものをしてくれてる最中に、あいつから電話があり、わたしはその場で番号をメモしておいたの。そう、こんなこともあろうかと思ってね」
「じゃあ……すべてを話したのね……」無意識に憂愁に沈みそうになるも、息を吹き返した彼女は、死に物狂いで意識の水面に浮かび上がった。「そ、それでいつ? それはいつの話なの?」
 緊迫した様子の麻美に気圧されながら、翼は答えた。
「げ、月曜日よ」
 指折り数え、六日前だと気づくと、麻美は席を外した。
「ごめん、ちょっと電話してくる」
 戻ってきた麻美は、上着とカバンを持って、翼に告げた。
「ごめん、先に帰るね」

 麻美はタクシーを捕まえ、恵介のアパートに直行した。
 すでに日は沈んでおり、住人が帰宅しているいくつかの部屋には、明かりが灯っていた。小説の山場を執筆すると話していた(厳密には山場を迎えたと言っただけだが)恵介の部屋は、暗いままだった。嫌な予感がしてならなかった。彼女は階段を駆け上がり、インターホンを何度も押した。ノックをして、名前も呼んだが、応答はなかった。麻美は再びアパートの玄関前に立ち、ベランダが見える今のアパートの道路を挟んで向かいに位置する、階数の多い横向きのマンションに駆けこんだ。そして、階段を最上階いっこ下の踊り場までたどり着くと、呼吸を整え、勇を鼓して恵介のアパートを振り返った。恵介の部屋のベランダを見たとき、彼女はワッと声を上げ、泣き崩れた。カーテン一つない空き部屋になっていたのだ。

 月曜日、配達最終の二十時、麻美に手紙が届けられた。
 宛先は小笹麻美、送り主は市崎恵介で、送り主に住所の記載はなかった。封を開くと、三つ折りの紙が一枚だけあり、一言『ありがとう』と書き記されていた。言葉の重みを知る小説家ゆえの一言かもしれない。その言葉はいっさいの疑問を残さず、すべての想いを語り尽していた。その文字を指先でなぞると、彼女の目から音もなく涙が伝った。

 ドアを開け、仕事帰りの寺塚翼が部屋に入った。翼が見る限り、麻美はダイニングテーブルにきちんと腰かけ、考え事をしている様子だった。靴を脱いで、部屋に入る。
「いったい、どうしたのよ。何度も電話したのに、なんでかけ直してくれなかったの……」
 麻美が電話に見向きもしなかったのは、それが恵介からの着信音ではなかったからだった。電話といえば、朝方一度だけ、公衆電話からワンコールだけの着信があった(約束を果たすためである)。
 廊下からダイニングに入ったとき、翼にもただならぬ雰囲気を感じ取ることができた。
 翼はその場に立ち止まると、後悔に胸が押しつぶされた。
「ごめん、麻美。もしかして、わたし、いけないことした?」
 麻美は首を振ると、気丈な笑みを見せて振り返った。
「いいえ、あなたは正しかった。間違ってたのは、わたしのほうだから」
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