5-2

文字数 5,662文字

「そ、そういやさ、柊一の妹って、いくつなの?」
「麻美? え~と小四だから十歳かな」
「へ~、その……か、かわいいよな」
「そうかな。ああ見えて、すごいお転婆なんだぜ。変わったのは、ぼくが入院してからなんだよ。それまで大変だったんだから。近所のガキ大将も真っ青のお嬢様ぶりでね。むろん、育ちはお嬢様じゃないが」
「か、勘違いするなよ。おれがガキが好きとかそういうんじゃないぜ。ただ単に――」
「なんなら、恵介があいつを嫁にもらってくれるかい?」
「バ、バカ、なにを言いやがる! おれは、その――」
「ハハ、赤くなった。赤くなった。……でも、ぼくが知らない人より、知ってた人のほうがいいな」
「はぁ? なに言ってやがる。誰だって結婚する相手は、事前に兄貴に紹介するもんさ」
「そうだね――なんて噂してたら本人が現れたよ。ア、ほら、行くなよ、恵介」
「そんじゃな、柊一。おれは忙しい身の上なんだ。そ、それじゃあね、あ、麻美ちゃん」
「サヨナラ。ねぇお兄ちゃん、見て見て、テストで百点とったのよ」
 恵介はその嬉々とした声を背中に浴びながら、病室を出た。
「ああ、すごいな。でも、麻美、挨拶はなおざりにしてはいけないよ」
「だって……だって、あたし、あの人、嫌いだもん」
「どうしてだい?」
「せっかくのお兄ちゃんとの時間を邪魔するし。それに、坊主頭で、おデブだし、お兄ちゃんとは見た目も性格も正反対だから」
「簡単に好き嫌いを判断するのは、愚かな人間のすることだよ。ほら、突っ立ってないで、こっちにおいで、麻美。恵介はね、いいやつだよ、ぼくなんかよりよっぽど純粋だしね。どれ、どの教科で百点をとったんだい、見せてごらん」
 このときまでわずかに開いていた病室の引き戸が、音もなく閉まり、悄然とした音を立てながらスリッパが離れていった。
「それにね、あたし、お兄ちゃんの友達、みんな嫌い。最初は担任の先生がクラス全員ひきつれて見舞いに来てくれたのに、そのうち親しい友人だけになり、クラブ仲間だけになり、学年が上がると、もう誰も来なくなった……。あんなにお兄ちゃん、人気者だったのに……。バレンタインのチョコだって、いっぱいもらったのに……うっうっ」
「……みんな、塾やなんやで忙しんだよ、私学なんだから。そういえば、あのとき、麻美、トリュフチョコを立て続けに食べて、鼻血出したよな。原因を問い詰められて、お母さんに大目玉食らったっけ」
「んもう、ヤなことなのに、ぐすん、覚えてるんだから。……ねぇ、お兄ちゃん」
「なんだい?」
「どうして、その眼鏡いっつもかけるようになったの? 前は本を読んだり、テレビを見たりしたときだけだったじゃない」
「麻美の顔をちゃんと見ておきたくてね。父さんも、母さんも、多賀先生も、看護師さんも、恵介も、みんなの顔をさ。それとも、この眼鏡、似合ってないかい? 目立たないように縁なしにしたんだけどなぁ」
「ううん、そんなことない。よく似合ってる、けど……」
「じゃあ、麻美と二人だけのときは外すようにしよう。ただし、今みたいに近くにきて、ちゃんと顔を見せてくれよ」
「うん!」

「柊一、その、おれ――」
「おめでとう、退院が明日に決まったんだってね」
「そ、そうなんだ……。つったく、がっかりだよ。隣のじじいのいびきこそうるさいが、まぁまぁのリゾート気分だったのによ。練習と宿題が待ち受ける、あの地獄の日々に舞い戻らなけりゃならないんだからな」
「そこが本当の居場所なんだから仕方ないよ。でも、いきなり無理はさせないんじゃないの、きみの言う鬼監督だけど」
「柊一、おまえはやつの恐ろしさを知らないんだ。あいつは、隠れたものの、くしゃみして居場所が見つかり、殺されたっていう落ち武者の生まれ変わりさ」
「な、なんだいそれ?」
「おれもよくわからないが、とにかく、この世におそろしく恨みを持ったやつなんだ。玉拾いや草むしり、ボール磨きなんて、行ったその日に平然とやらせるだろうな、この八日で三キロ落ちた病み上がりに」
「だ、だけど、もう少し特別扱いしてくれるんじゃないの。恵介はレギュラーなんだし」
「ん? あ、ああ――」
「アッ、ごめん、勝手にそう思っちゃって。そ、そうだよね、ぼくたちまだ二年なんだし」
「お、おれが未来の松井秀喜――いや、松井二世って呼ばれているのを知らないな。三年生を差し置いて、四番打つこともあるんだぜ。守備はセンター。でっかいやつは内野に不向きっていう、やつの浅はかな申し付けでね」
 実際は、八番ないし九番バッターで、守備はライト、せっかくたどり着いたレギュラーの座も二試合を経て、降格となっていた。
「あ、あのさ、きみも負けず劣らぬ鬼球児だよ。それはそうと、レギュラーだとは思っていたけど、そこまでとは思わなかったよ。麻美にも『恵介はすごい選手なんだよ』って教えてはいたんだよ」
「お、おうよ」
「すまない、テニスは個人競技的な要素が強いから、野球のような団体競技のことはうとくて」
「いいって、気にするなよ。大体なにに謝ってんだよ。おれはレギュラーだって言ってるだろ。それよか、おれ、退院後も会いに来るつもりだけど、構わないよな?」
「ハハ、きみらしくもない、なに気を遣ってるのさ。いつでもおいでよ。果物くらい出したげる。でも……無理、しないでいいから」
「友達んとこ行くのに、無理するやつがあるか。なぁ、柊一、おまえが退院したら、おれにテニス教えてくれよな。野球でよければ、いくらでも教えてやるからさ」
「きみがそんなにテニス好きだとは思わなかったよ、フフフ。じゃあ、ぼくも頼みがある。いつか……いつか二人でキャッチボールしたいな」
「キャッチボール? そんなことなら、今、済ましちまおうぜ」
「エッ、い、今! でも、どうやって?」
「そこのオレンジをくれ。いや、渡すんじゃなく、そこから投げるんだ、下からな」
「お、おい、離れないでくれよ――はい!」
「じゃあ、今度はおれから――ほい」
「ど、どこまで行くんだよ――はい」
「ドアんとこまでだよ――そら。よし、ここからは上から投げるんだ」
「エエッ、落ちたら、オレンジが潰れちゃうよ」
「搾ってジュースにしたらいいだろ。ほら、投げろよ」
「わ、わかったよ――えい! アッ、ごめ――やっぱり、すごいや、恵介は」
「天井がちょっと汚れちまったがな――ほら」
「おっとっと――それ」
「うまいうまい、ちょっとスピード上げようぜ――そら」
「イタタ――えいっ」
「なるほど、球慣れしているだけのことあるな――それ」
「よし――はいっ」
「これ、最後な――よいっと。柊一、すげぇよ。上半身だけで、それだけ投げられるんだからな」
「あ、ありがとう。夢が……夢が一つ叶ったよ」
「こんなちっちゃなやつ、夢なんて言うなよ。よし、これからはおれが、ドラえもんばりになんでも解決してやっから、やりたいことがあったら、何でも言うんだぜ」
「ありがと……」ジンジンしびれる両手を見下ろしながら、言葉を詰まらせた柊一であった。再び顔を上げたとき、その表情は実に晴れ晴れとしていて、目元だけがかすかにキラキラ光っていた。「でも、見た目は、ジャイアンなのにね」
「あー、言ったなぁ!」

「ヨッ、柊一、来たぜ」
「あ、学ランだ。学校帰りに寄ってくれたの?」
「ああ、軽いランニングも兼ねてな。カバン、入口に置かせてもらうぜ」
「右足の付け根の調子はどう?」
「あの腫れがうそだったみたいだよ」
「学ラン――似合うね。でも、だいぶ背が伸びたみたいだね」
「履きっぱのアンダーストッキングが丸見えだろ。自転車に乗るともっとひどいんだぜ。去年も仕立て直したんだけどなぁ」
「今度はきっちりじゃなく、長めにしてもらったらいいよ」
「まったくだ。覚えていよう。悪りぃ、柊一。今日は帰って、借りたノートを写さなきゃならないんだ。明日、また来るからよ」
「……恵介」
「オ――なんだ?」
「明日は、検査なんだ……」
「そっか。でも、午前だろ?」
「いや、明日は午後遅くからなんだ」
「なんだよ、そうなのか。じゃあ、明後日来るからよ。んじゃな」
――――
「あーこの扉、重い。ねぇねぇ、聞いて、お兄ちゃん。お母さんたらね――アレ? なにこれ?」
「どうした?」
「学校で配るプリント用紙が落ちてる」
「どれ、見せてごらん」
「待って……」背中を向けた麻美が、凱歌を上げるように叫んだ。「アーッ、やっぱりそうだ!」
「何がだい? 早く持っておいで」
「あいつ、やっぱり、うそついてた。レギュラーとか、見栄張っちゃって。あたし、この字知ってるもん。『ホケツ』って読むのよね。その欄にあいつの名前が書いてあるもの」
 柊一は滅多に見せない厳しい口調で、妹を急き立てた。
「麻美! いいから、持って来るんだ」
「ごめんなさい。はい、これ」
 柊一はプリントを一読すると、反応をうかがう麻美に視線を向けた。
「……もし、恵介に会っても、このことは言ってはいけないよ。プリントが落ちてたこともね」
 麻美はすっかり鼻白んで、唇を尖らせた。嫌いな男の弱みを自らの手で掴んだ麻美は、鬼の首でも取った気でいたのだ。
「だって、だって……それに、そのプリント、大事なものかもしれないでしょ」
「書いてあるのはすべて名字だけだし、確認事項のようなもので、特に大事な書類でもないよ。だから、カバンの外側のポケットにでも入れておいたんだろう」
「アアッ」
 麻美が不本意そうに声を上げたのは、柊一がプリント用紙を両手でくしゃくしゃに丸め、自分しか手の届かないゴミ箱に捨てたからであった。
「なかったんだよ。いいね、麻美」
「……どうして?」
「恵介はね、つきたくてうそをついたんじゃないんだから」

「あんちゃんが先かと思ったら、じいさんが退院してらあ。いよう、柊一。ところでさ、おれ、この前来たとき、この辺になんか落とさなかったか?」
「よく来たね、恵介。『なんか』ってなんだい? それがわからないと、答えようがないよ」
「いや、なけりゃあ、それでいいんだ。どうせ、風で飛ばされちまったんだろう」
「グローブかい」
「おいおい、そんなもん風で飛ばされるわけねぇじゃねぇか。いや、いいんだ。忘れてくれ。オッ、なんだ、そいつは。ほら、窓辺にいる小鳥さ」
「ハクセキレイだよ。ご飯粒を置いておくと、たまにこうしてやってくるんだ」
「へ~、尻振って歩いてやがる。こんなに近づいてるのに、案外逃げないもんだな」
「ぼくはね、恵介、たまにコイツと入れ替われたらと思うよ」
 ふとノスタルジーに浸る柊一の横顔を眺めたあとで、恵介は突然、自分でも興奮を抑えきれぬまま声を荒らげた。
「……バ、バカ言うな! ソイツだって――いま飛び立っちまったアイツだって、一生懸命生きてるんだぞ。大きな鳥に襲われる恐怖や、カラスにつつかれたり、雨に打たれたり、風に流されたり、寒さに震えたりしながらな。そう簡単に替わりたいなんて言うんじゃねぇよ。替わっちまったら、一大事じゃねぇかよ。麻美ちゃんはどうするんだよ」
「……うん、そうだね。軽率なことを言った、ごめん」
「お、おれにじゃなく、ハクセキレイに言えよ」
「うん、今度会ったら言おう。ときに、恵介――麻美をよろしく頼む」
 何の脈絡もない申し出に、恵介は不満そうな上目遣いで、柊一を見つめ返した。
「『よろしく頼む』ってなんだよ」
「よろしく頼むのさ」
「へ、おあいにく様、おれは、あの子に嫌われてるよ」
「じゃあ、好かれる努力をしてくれ」
「ナ、なんだよ、そりゃあ。笑っちまったじゃねぇか。『ぼくがあいだに立つから』とか言うんならまだしも。それに、おれが嫌われてるのは、織り込み済みなんだな」
「あの子は思ったことを包み隠さずしゃべるたちでね。それにぼくもそこまで構っていられないよ」
「ちょ、冷たい兄貴だな」
「それに友達甲斐もない?」
「し、柊一。おまえ、勘違いしてるぞ。おれ、別に麻美ちゃんに気があるとか、恋人にしたいとか言った覚えはないぞ。事実そんなつもりもないしな。そもそも十歳児だぞ。おれは『かわいいな』って言っただけだろ」
「あの子が十六、きみが二十歳になっても同じセリフが言えるかな?」
「おい、柊一。おまえ、どうしたんだ? 今日おかしいぞ。昨日の検査で何か言われたのか?」
「いや、昨日の検査は中止になったんだよ。しかし、今日のぼくは、確かにおかしいね」
「ははぁ~ん、わかったぞ。もうしゃべるな。みなまで言うな。今度、おれのクラスの写真を持ってきてやる。性格は悪いが、きれいどころがいるぞ。それにな、これは大きな声では言えないんだが、水着写真もあるんだ、全身のやつだぞ。撮られた女子たちが買った男子全員に返せって迫ってるんだが、おれは持ってるんだ。おれだってピンボケの横顔が小さく写ってるんだぜ。買ってしかるべきだし、学校で販売され、正規に買ったものを、どうしてタダで渡さなくちゃならないってんだ。どうだ、柊一、今度持ってきてやろうか?」
「うん、見てみたい。お願いするよ」
「へへ、いい子だ。素直は美徳って言うからな。い、いや、おれが勝手に思いついただけだけどさ」

「ねぇ恵介、いま代表のメンバー選出で騒がれている、サッカーはやったことある?」
「もちさ。野球部のくせに、昼休みはそればっかやってるよ。先輩の目が気が気でなかったら、同じグラウンドで先輩もやってんだもんな」
「あれってさ、どうして、ペナルティーキックになったとき、別の選手が蹴るんだろうね。ファウルを受けた人が蹴ったらいいのに。そうじゃなきゃおかしいよ。それに、そのほうがきっと盛り上がるはずなのに」

「ねぇ恵介、スポーツでも格闘技でも、高見に登りつめた人の引退時期って、いつがいいと思う? ぼくが絶対に許せないのが、チャンピオンのまま引退するやつだよ。自分勝手すぎるよ。後進のことは何も考えちゃいないんだ。ぼくがそういった立場になったら、ズタボロになるまで戦うね。一回り以上年の離れた若手選手に、どうあがいても勝てないと気づいたとき、引退するよ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み