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文字数 4,937文字

 寝入りばな、突然目を見開くと、恵介はベッドの上でガバッとばかり上体を起こした。廊下の先、暗闇の中で鈍く光るドアノブを見つめながら、彼は声に出してつぶやいた。
「あれは――、彼女があそこまで、あんな人気のないところまで見送ってくれたのは、『キスしてもいい』って合図だったんじゃあ……。そ、そうじゃなきゃ、あんなところまで、彼女が先導する形で見送るだろうか? いや、おかしい。わざわざ見送る必要性がない。男女が逆ならまだしも。結局おれは、彼女が駅に入るところまで、ひっそり見送ることになったし。それに、なにより、『さようなら』を告げたときの間が――うっ……ちょっと待て! も、もしかして、おれが、おれが誘いさえすれば、彼女は家まで来てくれるつもりだったんじゃあ、ないだろうか? だ、だとすれば、今頃は、このベッドで――ば、バカ、この破廉恥漢め。彼女が、長田真実がそんな女性のはずがないじゃないか。手を握られるのですら、異常なまでに恥じらったのに。案外、本当に、ただ単に、見送りに来てくれただけかもしれないな。天真爛漫な女性って、そういうとこあるからな。へたに唇を突き出さなくてよかった……。『あのときとは事情が違うでしょ!』って横っ面張られてたかもしれないし……まぁ張られてもいいけど。で、でも、おれ、彼女と付き合ってるんだよな……。本当かな、今でも信じられないや。いま電話しても、怒られないんだもんな。いや、それは怒るか? 当たり前だな、午前二時だもん。それにしても、今夜の電話で彼女に言ってもらえてよかった――『無理しないで、これまでのようなお付き合いを続けましょうね』。そうさ、まさにおれも、何よりソコをいの一番にお願いしたかったのさ、真実ちゃん、いや、真実さん。ン、この場合、どっちなんだろ? まぁそれは後々ゆっくり考えるとして、ともかく、おれが彼女を束縛するのはもってのほかで、休みの日として彼女に割り振られている週末のどちらかの半日を除いて、きみを一分一秒邪魔だてしたくはないからね。それにおれのほうもちょっとは忙しくなるだろうし、執筆に関しては気分屋の面が否めないけど……(ベッドに仰向けになりながらも、省察は続いた)……で、でもさ、話を蒸し返すようだけど、おれ、やっぱり、一応、彼氏になったんだし、部屋を見せるくらいは、逆にしておいたほうがいいんじゃないかな。部屋を見れば、その人の人間性がわかるって言うし。いや、誰の言葉かは知らないけど……。ただね、おれってほら、変な趣味持ってそうに思われるからな。いや、別に誰かにそう言われたわけじゃないけど……。すれ違う女子高生の視線がたまにちょっと……。もちろん何もしないさ。より一層紳士的に振る舞ってみせる、うん。でさ、そういうときって、どう切り出すんだろ。『おれの部屋に来ない? 絶対なにもしないからさ』――ゲスの極みだな。まず、おれって人間をアピールして、そして、そして……なに言おうか考えとこう。そういや、今日――じゃなく昨日は、記念日ってやつになるんだろうか? 覚えておいて損はないな……むにゃむにゃ」

 翌週末、デート帰り――。
「わたし、こんなに身体を動かしたの、久しぶり」
「卓球があんなに上手だなんて思わなかったよ。ぼくはごめん、バッティングセンターでちょっと本気になっちゃった」
「ううん、すごくカッコよかった。みんなも恵介さんのスイング見てたよ。わたしも彼女として、鼻高々だった」
「へへ――真実さんは、卓球部だったの?」
「いいえ。高校一、二年の頃は、友達に誘われて色んな部活動を見に行きましたけど、結局は入らなかったんです。早いうちに決めちゃえばよかったんでしょうけど、誘ってくれた友人たちに申し訳なくなって。そんななか、卓球部だけは顧問がいないも同然で、部員でもないのに、よくお邪魔してたんです」
「でも、驚いたな。由緒ある天満宮を参拝したあとに、『行きたいところがあるの』って言うからついて行くと、アミューズメントパークなんだもん」
「だって、行きたかったんだもん」
「いや、ぼくのほうこそ、厳粛なスポットが続くより、あんなところが好きで、ありがたかったくらいなんだ」
「じゃあ、今度は、恵介さんがプランを立ててください。どこでもいいですよ。わたし、自分のところのレンタカーを用意して待ってますから」
「ぼくが? わ、わかった、死ぬ気で考えてみるよ……」
「あのね、恵介さん。前もって断っておきますけど、わたし、死ぬ気で考えたコースなんて行きたくありませんからね。適当な、前に恵介さんが行ってみたかった、見てみたかったところで構いませんよ。巨石パークとか――これはさっき看板が見えただけで、わたしはあんまり行きたくないですけど」
 二人は笑い合った。
「うん、そうだね。思い出してみる」
「お仕事に支障をきたさない範囲で」
「うん――あ、あのね、火曜日から執筆に入ったんだよ。一応、ご報告までにと思って」
「がんばってられるんですね。……あの、わたし、過去の作品で構わないから、恵介さんの書いた小説、一度読んでみたいな」
「うん……そうだよね。当然思うことだよね。でも、過去の作品はやっぱり未熟なんだ。もちろんいつかは見せてもいい。でも、最初にそれを見せるわけにはいかない。アレは今のぼくより、だいぶ劣った人間が書いたやつだから。だから――その、今回の小説ができあがったあかつきには、きみに最初に読んでもらいたいと思ってるんだ」
「うれしい! きっとですよ」
「オホン……(第三章にて、満を持して登場予定の、身近すぎるヒロインに驚かなきゃいいけど)」
「どうかしました、恵介さん?」
「ううん、きみのことを想いながら、きみが楽しめるようにがんばるよ」
「エッ――、ありがとう……」
 その夜、執筆を切り上げた恵介は床に就いた。
「読んでみたい――そうだよな。部屋を見るより、はるかに書いた人物の人柄・嗜好・性癖にいたるまで物語っているものな、小説ってやつは。その他の一般人、つまり小説なんてのに手を染めない人との違いは、臆病者であるか否かに尽きる。臆病者は言いたいことを抱え込む。そのはけ口がものを書くことにつながり、ひいては小説になる。比喩や誇張や潤色は、作者の性格を如実に表す拡大鏡のようなものだ。ちなみに、好んでテレビに出る小説家は例外だ。いくら斯界に名を馳せようが、どのくらい連載を持ってようが、あいつらは所詮、小説家を上がっちまった人間なんだ。そんなことをしたって、邪魔な仕事が増えるだけなんだから。あんなやつを見て、小説家になりたいと思う若者が出るわけでもなし。小説家を漫画家に代えたって同じことさ。いかん、話がだいぶ逸れちまった。要するに、そんな分不相応な嫉妬心も、小説家の素質があるゆえんなのだけど。ほら、よせと言ってるだろ!……たとえばその人が、目の前で他人の落とした小銭を拾ってあげる人かどうか――、たとえばその人が、三回連続の間違い電話にも怒鳴らずにいられる人かどうか――、たとえばその人が、友達だからお金の貸し借りをありとする人か、なしとする人かどうか――、たとえばその人が、愛する人を失ったとき、身も世もなく泣き崩れる人か、言葉少なく忍従する人かどうか――、たとえばその人が死ぬ間際、恵まれぬ人生を呪って死ぬ人か、惨めな人生すら賛美しながら死ぬ人かどうか――が、読むほどにあけすけに見えてくる。それは初期衝動に駆られた、稚拙な作品ほど顕著に読み取れるものだが、安心立命となった大家の境地こそ、実は油断ならない――政治家の失言なんてのもそうだ。当人は、そんなことを言ったことも、書いたことも全然気づかない。自分がそのとき、どんな行動をするかなんて、考えたこともなければ知りもしない。でも、小説を読んだ人にはわかるのだ。……ちぇ、くだらないこと考えるから、眠れなくなっちまった……。ン? そういや、いくらそういう流れになったとしても、出来過ぎてなかったかな。『わたし、過去の作品で構わないから、恵介さんの小説、一度見てみたい』――もしこの言葉の裏に、別の意味があったとしたら? しかも今回も、おれが降りる駅が先にあり、もうまもなく着く頃合いだった。『あなたの家に行ってみたいわ、これから。行けない?』――そういう意図の発言だったんじゃないだろうか。いやいや、待て待て、そうであろうとなかろうと、彼女はおれという人間が知りたいだけなんだ。部屋に来たって、ましてや彼女の部屋に行ったとしても、おれは四つどころか、二十歳は違うジェントルマンであり続けるぞ。う~ん、そうか、いつかはおれも、彼女の部屋に行くことになるんだろうな。一人暮らしって言ってたし、どんな部屋かな、甘い香りがするのかな……。そうだ、今度消臭剤買っておかなきゃ……むにゃむにゃ」

 翌週末、デート帰り、車中――。
「『しっかり歩ける靴でお願い』って、昨夜電話があったときは、どこの山に連れて行くんだろうと思っていましたよ。まさか、天神を渡辺通りに沿って一周するなんて思ってもみませんでした」
「ごめん、後半はオフィスビルばかりで、休めるところもなく、疲れちゃったね」
「いいえ。それに、わたし、あんなところに画材屋さんがあるなんてまったく知りませんでしたし」
「入り口で中を覗くだけじゃなく、入ったらよかったのに。絵に、興味があるの?」
「いいえ、描くほうも観るほうもさっぱり。でも、画材屋さんって色んなものが置いてあるんですよ。クラフトアートに使うものだったり、量販店では見かけない変わった雑貨品だったり。見ているだけで楽しいんです。でも、よかったんですよ、恵介さん。さすがにカップルで入ると、冷やかしとしか思えませんから」
「そ、そうだね。真実さん、ぼくのほうはまったく逆でね。古本なんかを見に、天神の裏通りにはよく行くんだけど、幹線道路沿いにあるファッション関係のビルは、前を通るばかりで一度も足を踏み入れたことがなかったんだ。デパートに関しても、行ったことがあるのは、デパ地下なんて言われる食品街だけだった。昔、テレビで紹介されたクロワッサンを買いにね。味以上に、高すぎて、口に合わなかったけど。だからさ、今回はすごくいい経験をさせてもらったんだ。ぼくの知っている天神は、まったくのところ天神とは呼べなかったよ」
「どこの、古本屋さん? そこも今日、行ってみたかったな」
「真実さん、そここそカップルで行くような場所じゃないよ」
「そうなんですか? そうなんですよね。わたし、そういうことにうとくて」
「よかった。非の打ちどころのないきみに、ぼくで補えるところがあって」
「そんな……わたし、欠点だらけですから……」
「運転だって、二種免許が取れるほど上手だし」
「もうっ、からかわないでください。今日はこのまま、マンション前までお送りしますね」
 恵介の住むエレベーターなしのアパートは、よく言えばマンションと言えなくもない造りだった。
「ありがとう。お店に返す前に、ガソリンを満タンにしなきゃいけないんだよね?」
「いいえ、今日は一目盛も減っていないので、大丈夫です。今度貸し出すときに、事務所にあるタンクから継ぎ足しておきますから。それより今日は、あんなに高いランチをごちそうしていただき、ありがとうございました」
「んもう、あれは言ったろう、ごちそうしたんじゃないって!」
「でも、わたし、この車、タダで使わせてもらってるんですよ」
「いいんだって。もし借りてたら、そんな値段では済まないんだから。そんなことより、あのさ――今度、ぼくのマンションの近くの花屋の隣に、ドーナツ屋さんができたんだ。地元産の小麦だけを使っていてね。若い女性に人気なんだよ。前を通るたびに、すごくいい匂いがするんだ。よかったらだけど、寄ってみない?」
「これからですか?」
「うん。よ、よければ、コーヒーくらいぼくの部屋で用意――」
「あ、あの、今日はごめんなさい。家で、営業先の資料整理と、イベントに向けた準備もしなくちゃならないので」
「そ、そうなんだ。いや、そんな、気にしないで。今度買ってきてあげるから」
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