7(回想)

文字数 4,122文字

 給食後の昼休み、教室に留まった生徒たちは、斑模様にグループを作って、それぞれの話題で各々語り合っていた。その一つ、窓側の前から二番目の席の生徒を囲うように、四人の男子が歓談していたが、次第にその声が大きくなり、別のグループの注意をひくようになった。
「行けって!」
「行ってこいよ、平丘」
「馬鹿言うな、なんで今!」
「そういう約束だったろ?」
「ちょうどいらっしゃるじゃねぇか」
「今日、払ってもらいたいんだろ?」
「別に……おれは来週でいいさ」
「強がんなって」
「おまえな、この場面で使う言葉じゃないぞ」
「いいから、いいから。こいつはほっとけって。ともかく、今日言うなら、今しかねぇぜ」
「そうそう、帰りがけより、今のほうが断然ましだからな、見てる生徒の数からいって。それによ、今言っとかないと、伝えにくくなる一方だぜ」
 うち一人が、現状教室にいる生徒の人数を数え始めた。
「余計な計算するんじゃねぇよ。チェッ、クソッ……」座っていた男子が憤然と席を立つと、にやける三人をねめつけ、一人を脇にどかし、教室の後ろに向かって歩き出した。足取りは重く、三歩ほど進むと、振り返って、捨てゼリフを吐いた。「きっちりもらうからな。びた一文まけねぇぞ!」

 寺塚翼の机の前に、一人の男子が立ちはだかった。平丘という男子生徒で、鼻が秀でた細面は、学年でも一、二を争う美男子といって差し支えなかった。翼は、隣席の友人と話をしながら、彼が近づいて来るのを視界の端にとらえると、にわかに青ざめ、相手の女子のブレザーのワッペンに視線を定めてしまうと、すっかり固まってしまった。
「ねぇ、翼ったら、どうしたの? アレ、何、平丘君」
「悪い。ちょっと、寺塚と話がしたいんだ」
「エ――、うん、どうぞ」
 現時点で、教室のざわめきは消え、居残った生徒全員が、好奇の目で平丘の言動を注視していた。
「なぁ、翼――」
 その名を呼ばれたことで、翼の胸は緊張と興奮で張り裂けんばかりになった。それはお互い、学校では言ってはならぬ呼び名としていたからだ。あるいは、つい出てしまったのか? それにしても、みんなのいる前でいったい何の用だというのだろう?――困惑する思考を抱えながら、とにかく取り乱すまいと翼は努めた。
「な、なに? 平丘君」
 そんな彼女の狼狽を気にとめる様子もなく、平丘はあけすけに語った。
「あいつらに言ってやってくれよ。おれたちが昨日、おまえんちの前の曲がり角で、キスしたこと」
 周囲のそこかしこで――主に女子のよる――驚きの声が上がった。しかし、継続中の舞台を邪魔してはならぬとばかり、再び教室は静寂に包まれた。廊下でしゃべる声がやかましいくらいだった。一方、翼のほうはそれどころではなかった。取り乱すのを越えて、ぼう然となっていた。その姿はあたかも、何千という観衆がいる舞台で、まったく予定にないセリフを聞いた女優を想起させた。
「え、え……なに……でも……どうして……」
「一種のゲームだったんだよ、ゲーム」
「げーむ……?」
 翼には言葉の意味が理解できなかった。このとき、どんなカタカナ言葉を聞いても同じように繰り返したに違いない。
「そ、ゲーム、あいつらとのね。きみとじゃないよ。どうか悪く思わないでくれ。おれはきみを今も好きだし、これからも付き合いたいと思ってるんだからさ」
 気の早い女子の冷やかしの声――しかし、翼の耳には聞こえなかった。
「あの……わたし、なにがなんだか?」
 平丘は、もはや内々に終わらせることを完全にあきらめた様子で、衆目を背中に感じつつ、一席ぶつように語り出した。
「つまり、こういうことだったのさ。二週間前、『このクラスの女子であれば、誰とでも、喜んで付き合える』っておれが宣言したところ、あいつらがおれをうそつき呼ばわりした。おれが説を曲げなかったんで、それなら言ったことを証明しろと迫り、このクラスで一番貞淑そうで、奥手っぽいきみに白羽の矢が立った。だが、きみは断じてブスではないし、眼鏡を取った顔はすごくきれいだった。だけど、きみが男子と話している姿を誰一人見たものがいなくてね。証明といえば数学的帰納法――これはおれたち高校生には逃れようのないサガでね。もしきみと付き合えたら、『おれらも負けを認めてお詫びする』と言うんだ。その付き合った証というのがキスをすることでね。おれは、これも付き合うきっかけとしては悪くないと思ったわけさ。きみもそう思わないか、翼。ナンパにしろ、見合いにしろ、同じことだろ。付き合ってみて、結果を決める。おれの結果は、今後もきみと付き合いたいってこと。だが、その前に一つだけ、あいつらに昨日キスしたことを認めてやってくれ」
 話は戻るが、弁舌が終盤に差し掛かったとき、教室の真ん中で小さなささやき声が上がっていた。
「ちょ、ちょっと、麻美っ」
「よしなって!」
 席についていた一人の女子生徒が身体を横向きにし、椅子を引かずに立ちあがると、友人たちの制止も聞かずに、平丘の立つ場所へ毅然と歩み寄っていった。
 平丘が話し終えるのと、彼女が真横に立つのは、まったく同時であった。
「ねぇ」
 そう呼びかけられ、何気なしに振り向いた平丘の頬に、鮮やかな平手打ちが決まった。一瞬何が起きたかわからなかった平丘は、傷みよりもその衝撃から自分で背後に飛びすさって、椅子の足につまずき、三台の机をなぎ倒しながら、教室中に轟く音を立てて、床に仰向けに崩れ落ちた。仲間の三人が、あわてて駆け寄った。倒れた男の介抱のためであった。少なくとも彼らは、今、教室内が自分たちにとって不穏な様相を呈してきたことに気づいていた。
 傲然と仁王立ちで構える女子生徒が、平丘に向かい吐き捨てるように言った。
「あんた、最低ね」
「な、なんだと、てめぇ」
 平丘は素早く立ち膝になって、ぶった女子生徒に挑みかかろうとした。むろん、女子生徒相手に手を上げるつもりはなかった。現状まだ事態を把握できていなかったが、男としてのプライドが汚されたのは確かであり、反射的に行動に出たものの最低限の理性は保っており、言うなれば性差を見せつけるべく威圧的に掴みかかろうとしただけだった。が、それより早く彼は仲間の三人に覆いかぶされるように制された。その間、女子生徒はといえば、身じろぎ一つしなかった。
「やめろ、平丘!」
「どう考えても、分が悪いのがわからないのか」
 教室内を見回したとき、自分が限りなく劣勢な四面楚歌にあるのに、平丘は初めて気がついた。あざける野次すら聞こえなかった。こんな冷めた目でみんなから見られるなんて、彼は夢にも思わなかった。そのせいか、のちに似た夢を繰り返し見ることとなる。決して容姿にあぐらをかかず、目立たぬところで誰からも嫌われぬよう尽くしてきた自分が――気のない相手に対するホワイトデーのお返しはもちろん、愚鈍な男子にすら(相手を喜ばせるため)たまにの声掛けを怠らなかったほどの自分が、である。居残るみながみな、ビンタした女子生徒の味方をし、なんなら彼女をジャンヌダルクのごとく讃えていた。あるいは、彼女さえ現れなければ、彼が思い描いた悪ふざけの一つとして誤魔化せていたのかもしれない。しかし今、彼の罪には、執行猶予もなく、最初の罰が下された。
 返す言葉を飲み込まざるを得なかった平丘が視線を逸らすと、それを受けて、彼女は顔を背けるように振り返り、元の席へと戻っていった。産声を上げるようにざわめきが湧き起こり、教室が息を吹き返したとき、昼休み終了の鐘が鳴った。

 翌日の放課後、友人の誘いを断れず、部活の見学に行った麻美が戻ってくると、彼女の机の横の席に、座席の女子とは違う女子生徒が座っていた――寺塚翼だった。
 麻美が机の上に置いていたカバンに手をかけると、翼は礼儀正しく姿勢を横向きに変えて、話しかけた。二人はそれまで、挨拶くらいはするが、さほど親しい間柄ではなかった。
「あの、小笹さん」目を見て言おうと決めていたのに、翼はどうしても相手の顔をまっすぐには見上げられないのだった。「……友達になってもらえる?」
「友達? ええ、構わないわよ」麻美はというと、まじろぎひとつすることなく相手の目を見つめて――『どうして遠慮するの、遠慮なんて必要ないのに』というように――応じた。「でも、その前に、あなたも彼をぶったらね」
 思わぬ切り返しにたじろいだ翼は、悄然とうつむいた。
「それは……できない……」
「なんで? あなた、ゲーム感覚でもてあそばれたのよ」
「……信じてもらえないかもしれないけど」
 もったいぶった言い方になったことが、かえって麻美の怒りを買った――『彼には一言も言い返せないくせして、わたしには遠回しにものが言えるってわけ?』。
「どうしてわたしが信じないなんて勝手に思うの? 信じるわ、だからなに?」
 翼は麻美側の机上の一点を見据えたまま、か細い声で言った。
「わたし、あの人のこと……入学したときからずっと好きだったの……」
 一分以上ものあいだ、麻美から翼へ、突き刺すような視線が注がれ続けた。翼は黙ったまま、おずおずとした上目遣いで麻美の顔を見返すことしかできなかった。
 突如、麻美が口を開いた。その声は、長い年月を経て大河を下ってきたかのように、角が取れ、すっかり丸みを帯びていた。
「そっか、わかった」
 そう打ち明けられても、翼には麻美がいったい何をわかったのかがわからなかった。翼はとにかく言っておかねばならないと思ったことを言ったまでだったのだから――『信じてもらえないかもしれないけど』のくだりも、なぜ麻美が腹を立てたのか翼にはわからなかった――。しかし、自分でも気づかない何かを、麻美はわかってくれた気がした。翼は不思議そうな、一方で感涙を催した目で、麻美の慈母のような柔和な顔を見つめ返した。
 そこにもう一人、別のクラスの女子生徒が現れ、麻美のそばに駆け寄ってきた。
「なぁんだ、麻美、まだいたんだ。これからファミレスでダベらない。あんたを紹介してほしいって子もいるし」
 身を引こうとする翼の腕を、麻美が掴んだ。
「ごめん。今日は寺塚さんと一緒に帰るから」
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