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文字数 5,515文字

 それは魔法としか思えなかった。心を覆っていた暗雲が、一陣の風にさらわれ、一気に取り払われたかのようだった。心の状態はお日様の照る快晴とは言わないまでも、星の瞬く夜だった。その夜と次の朝で、彼は何度鏡を見たかしれない。顎を下げても上げても、斜に構えるように頬骨を片方ずつ突き出してみても、大したことのない十人並みの顔である。痩せていた小学生の頃は、少しだけもてた経験もあるが、それも低学年までだった。高校の頃、それまで日常会話を一度も交わしたことがなかった女子に、「市崎君って、横顔がタレントの誰某に似ているよね」と声をかけられたが、机に頬杖をついた状態で、グループでの話題が途切れたついでに言われただけだった。「そう? あ、こっちを向かないでよ。あ~、ほんとだ~」と、数人の女子が追随したが、その話題は二分と続かなかった。そのタレント――俳優とは、若かりし頃、国民的人気を博し、高視聴率を収めた警察ドラマの一刑事役を務めた伊達男だったが(それとて彼らが生まれる前――つまりその時点でも、中年男の話である)、その当時は丸々と太り、バラエティ番組専門のタレントになり変わった役者であった。しかし、顔そのものは、いまだ端正であることは確かである。ところで、揶揄した彼女たちが、その俳優を二枚目どころか、役者とみなしていたかどうかも怪しいものである。
 話を戻そう。あのとき、恵介も、長田真実から電話番号を教えられたわけだが、とてもじゃないが、彼のほうからかけられなかった。
 『きっと今にも死にそうな顔をしていたんだろうな』家に帰りついたあと、しばらくして彼はこう考えた。『あのときは、同等の兵力だったのに、相手の予期しない戦略で、壊滅的打撃を受けた敗軍の将のように、頭が混乱して、死というものにさえ考えが及ばなかった。もうしばらくあの場にたたずんでいたら、はたと気づき、どういう死に方が無様で、あるいはそうでないか、思い巡らせたに違いない。あの体勢に、この概念が抜け落ちていたのが不思議なくらいだったからな。あの姿そのものが生き恥で、彼女はきっと、おれより早くそのことを察したのだろう。だからこその、あの口づけだった――に違いない。おれは今日、奈落に突き落とされ、泥まみれになって打ちのめされた。にもかかわらず、今はこうして人生を賛美しかけている。しかし、きみは一体どうして……。そういえば、大学生の頃にいたな、どうしようもなくボランティアが好きな女性が。おそらく過去、テストに名前を書き忘れ、単位を取り損ねた彼氏を同じように元気づけたことでもあったんだろう……フン』恵介はベッドに座っていた姿勢から、腕枕をして横になった。うつらうつらしながらも、その口元には笑みが浮かんでいた。「『深く考えないで』か……妖精の世界から来たのかい、きみは?」
 彼女からの贈り物――彼は当然それを非公式に受けとめた。秘した宝石のように、いつか別のガラクタの記憶とともに引っ張り出されたとき、ひそかに楽しむものとして、心の奥底に埋没させた。なぜなら、さすがに妖精と人間とは言わないまでも、今までとは違い、彼女とはもう完全に、住む世界が隔たってしまったのだから……。彼はあの小説に全人生をかけていた。そういっても過言ではなかった。彼女と出会い、その思いは一層強まった。あの小説に未来を託し、過去は捨てる所存だった。そう、勝算があった分、打ちのめされ方もひどかった。つまり、その戦いに敗れた今、その手には何も、何ひとつも残されてはいなかった……。
 何かが鳴っている……けたたましい目覚まし時計ほどではないが、リズムのあるやかましい電子音……それが電話の音と気づいたとき、ベッドの上で寝ていた彼は、ビーチフラッグスのスタートさながらの勢いで跳ね起きた。
 部屋が明るい。目には電気がついたままの蛍光灯が飛び込んできたが、それ以前にカーテンを半分開けたベランダ窓から、燦々とした日光が差しこんでいた。朝になったのだ。昨夜は風呂に入らず、着替えもせず、ベッドに身を投げ出したまま、眠りに落ちてしまったらしい。テーブルで鳴っている携帯電話を取り上げるとともに、恵介は時計で時刻を確認した。カーテンが明けっぱなしだったため、机の上の液晶時計の時刻が読み取れた。それは、ちょうど午前七時になったところであった。正確には九秒過ぎていた。
 彼はろくに相手先の番号も見ずに、通話ボタンを押した。着信音を長々と流しているのは、好まなかったのだ。ことに最近は聞き慣れていなかった。ただし相手が携帯電話からであることくらいは確認した。親からの電話であれば、固定電話からだから、十中八九間違い電話であろうことは、すぐさま憶測が働いた。彼の番号は最後の桁が揃い目になっているため、よく間違い電話がかかってくるのである。ちょっと前まで、震える手で通話ボタンを押すこともあったが、今やその期待もなくなっていた。
「はい、もしもし」
「あっ、市崎さんですか?」
 早くも予想が外れた。しかし、彼はまったく動じなかった。となれば、何かしらの勧誘の電話に決まっている。ついこの前も、いかにも怪しい繁華街の夜の集まりに誘われたばかりだ。当然そのときも若い女性からだった。彼はぞんざいに返した。一瞬ではあるが、会話に神経が向いたことで(予期せぬ起床という理解力に乏しい状態も手を貸し)、彼の頭から朝の七時という時間の感覚が喪失していた。
「はい、そうですけど、おたくさんは?」
「あの、わたし、長田です。長田真実ですけど、わかります?」
 恵介は思わず、電話機を取りこぼしそうになって、片手で左耳に当てていたものを、両手持ちにした上に、わざわざ右耳に当て替えた。
「お、長田さんって、

長田さん?」
 彼女はクスクスと笑った。
「ええ、

長田です。おはようございます」
 彼は無意識に、画面を見るなりして、手に持つ携帯電話が本当に自分のものか、確かめたい衝動に駆られたが、新たな別の強い衝動が、その電話を耳から離すのを許さなかった。
「お、おはよう、ございます……それで、あの、どうしたの、かな?」
「いえ、ちゃんと、お元気になられたかと思いまして――つまりはその、確認です」
「か、『確認』?」
「ええ、市崎さんもするでしょう? 外出前に、忘れ物や失念していることがないかを確かめること」
「うん、する……いや、会社員の頃はしていたけど……」
 恵介が会社勤めの頃は、すべての用意をし終え、靴を履き終えても、すぐに玄関を出ることはせず、その場に立って、部屋を見返しながら、必ず一分間は、昨日の仕事と今日の予定を振り返ったものである。むろん、今に関していえば、そんなことに一分どころか一秒とかける必要性もなかったが。
「お元気そうでよかったです。昨日は別れたあとも、ちょっと、その、変な気を起こされないかと心配になっていましたので」
「ありがとう」恵介は心より感謝を述べた、眠る間際の取りとめのない想念が頭に蘇ったので。「あのとき、きみがいなけりゃあ、今だって本当にどうしていたことやら」
「あのう……」真実は決意を固めたように呼びかけた。「市崎さん。一つご相談があるんですけど」
「うん、なんだい? おれにできることだったら、なんでもするけど」
「今夜、ご予定あります?」
「いや、ないよ。昨日を機に、今のところ永遠に予定はなくなっちまったからね、はは」
「あの、よかったら……モツ鍋、食べません?」
「ヘッ?」予期せぬワードに、恵介は声を裏返らせ、聞き返した。「モ、モツ鍋?」
「実はわたし、常々食べたいと思っていたんですけど、さすがに一人じゃ食べに行けなくて」
「か、構わないけど……でも――」
 彼がつぶやきかけた言葉は、彼女の歓喜の声にかき消された。
「よかった! わたし、一度でいいから食べてみたかったんです。ついでにもう一つ、市崎さん、おいしいモツ鍋が食べられるお店、ご存じありません?」
 彼は会社員時代、上司に連れて行ってもらった店を紹介した。彼はそれがどの辺りにあるかを伝え、何時にどこで合流するかが決まり、すべてはベルトコンベアーに乗せられたように進んだ。箱詰めにされ、結束バンドをかけられ、倉庫に収められて、しばらくして、電話が切れていることに気づいた恵介だった。

「シメのチャンポン麺まで、すごくおいしかったです。何より驚いたのは、市崎さんの食べっぷりですけど。最初こそ体調悪いのかなと思っていましたら、急に食欲旺盛に食べ始めるんですもの。ご気分よくなりました? 駅まで送っていただきありがとうございます。ところで、市崎さん、今週末のどちらか、午後空いていませんか? あの、わたし最近テレビCMで気になっている映画がありまして。これもその、なかなか一人では観に行きづらいものでして。もしよろしければですけど、一緒に観に行っていただけませんか?」

「まさかの犯人でしたね。市崎さん、気づいていました? ふ~ん、本当かしら? ウフフ、ごめんなさい、言ってみただけです。実はわたし、知ってたんです、犯人が誰か。だって、公開の次の日には、ネットでその情報が出回ってたんですもの。見たくもないのに、目に入っちゃいましたから。いいえ、つまらないことなかったですよ。知っていたぶん、種明かしを見るように面白く観させてもらいましたから。それに、市崎さんが犯人を見抜いていたこともわかっていました。正体が明かされたとき、ニヤリとした横顔をチラリと見させてもらいましたから。それだって、犯人を知っていたからこそです。アッ……その、余計なことを言いました……。もしかして、市崎さんも、そんなような小説をお書きになっているのですか? 『ジャンルで言えば、おそらく違う』ってことでしたら、ちょっとはそういう要素があるんですね。いつか読ませてもらいたいな。『血の滴るホラー小説かもしれない?』望むところですよ。それだとしても、きっと書く人の人柄がでないはずがないですから。アッ……じゃあ、今日はここで結構ですから。また、電話します。さようなら」

「こんばんは、長田です。こんな時間にごめんなさい。かけてすぐ、十一時を過ぎていたことに気づいて。すぐに切ってしまうと、折り返しの電話を求めるみたいで、申し訳なくて。わたし、帰ってきてからも、なんかバタバタしちゃって、さっきお風呂から上がったばかりなんです。起きてました?――って愚問ですよね。今日、楽しかったです。ありがとうございました。あのあと、友達と夕食を共にして、市崎さんのことも話したんですよ。『早めにサインをもらっておいたほうがいいかしら』ですって。えっ? もちろん女の子ですよ。高校の頃からの付き合いなんです。翼っていう、男みたいな名前ですけど。ところで、市崎さん、観たかった映画が他にあったんじゃありませんか? だってチケット売り場で『……コレ? コレが観たかったの?』って、当てが外れたような、残念そうな顔してらしたじゃないですか。ならいいんですけど。……本当は、ご迷惑だったんじゃありませんか。わたしから誘っておいて、結局モツ鍋のときと同様、割り勘になってしまいましたし。――本当に! わたし、いつも自分勝手で、今日も翼に『相手の都合も考えなきゃ駄目よ。あんた接客の仕事をしているんでしょ』って怒られたところなんです。あの……電話、かけてくださって構いませんから。それじゃあ、おやすみなさい」

「やっとかけてくれましたね。こんばんは。だって登録してますから、当然わかりますよ。本当? だとしたら、わたしもうれしいです。今日こそ、どう謝ろうか考えていたくらいなんですよ。『空港に行ってみません?』なんて、よくよく考えたら、おかしな要望ですもの。吹きっさらしの、轟音鳴り響く展望デッキで、一時間ものあいだ、旅客機が離着陸する姿を、柵越しに見ていただけですから。市崎さんが退屈そうになさらなかったのが、唯一の救いで。わたし、飛行機が飛び立つ姿が好きで、何度か搭乗する機会もありましたけど、やっぱりその姿を外側から見ているほうが好きで――って、この話、あそこのレストランでもしましたよね。でも、その途中で、市崎さんがこれまで一度も飛行機に乗られたことがないのを知ったときは驚きました。これからは東京に向かうため、イヤというほど乗らなくちゃならなくなりますよ、きっと。またも自分勝手にお誘いしたことを反省しましたけど、『耳をつんざき、地響きを起こす大迫力――飛行機が飛ぶということがどんなことか、この場所に来て初めて知ったよ』と言ってもらえたときは、うれしかったです。あんなにやかましいのに、わたし、あそこに立つと不思議と心が洗われるような気がするんです。これはお笑い草なんですけど、半年くらい前に思い立って、初めて一人であそこに行ったとき、そこでどのくらい経ったか覚えていませんけど、ふいに係員さんに声をかけられたんです――『何かあったんですか? 相談に乗りましょうか?』って。カメラか双眼鏡でも持っていればよかったんですけど、わたしはあの場の空気感を味わいたいだけだったから、まったくの手ぶらだったんです。おかしいでしょう? エエッ、『新たなものを書く気力が出た』んですか。うれしい! ぜひ頑張ってください。わたしのおかげ? とんでもありません。そんな『埋め合わせ』だなんて。『今度の土曜日』、『午前九時』、『マリンワールド』ですね。わかりました。いえ、行ったことはありません。はい、では、楽しみにしています」
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