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文字数 2,144文字

 柊一の病室、麻美との会話――。
「ねぇ、お兄ちゃん、見て、このバッグ。隣のお姉ちゃんにもらったのよ。新しいのを買ったからって」
「また、もらったのか。麻美がほしいってねだったんじゃないだろうね?」
「ねだってないもん」
「麻美にはちょっと大きいんじゃないか?」
「大きくないもん」
「どれ、ふ~ん、この持ち手の使用感や角の擦れた感じからするとビニールじゃなく本革だな。テニスラケットのグリップでも使用する人がいるからわかるのさ」
「ホンガワって?」
「これは多分、牛革だろう。つまり、牛の皮ってことだよ」
「エッ……コレ、牛さんの皮でできてるの?」
「ああ、そうだよ。高級品なんだから大切にしないとな」
「……麻美、コレ、いらない」
「どうしてそんなことを言うんだい?」
「だって、牛さん可哀相だもん……怖い顔してるけど」
「そうか、麻美は去年の夏、牧場見学に行ったんだったね。だけど、そう思うなら、なおのこと大事にしなければいけないよ。牛の皮をバッグに利用するなんて、人間のエゴだと思うものがいるかもしれない。エゴというのは、エゴイズムのことで、つまるところ思いやりに欠け、自分の利益ばかりを優先させるやり方のことだ。動物の皮というのは耐久性があり汎用性が高く、なにより貴重で、それを身に付けるのは昔の人にとっては強さの象徴であり、現代人にはステータスの証に他ならないからね。だけど、動物や植物を殺すというのは、人間が生きていくためには避けられないことなんだ。命をもらいうけるからには、それを無駄死に終わらせてはならない。だから、一人ひとりが自分のバッグを愛し、長年使い続ければ、それは決してエゴなんかじゃない。皮を提供してくれた牛さんだって、きっと本望に感じてくれるはずだから。そのためにはまず、バッグを作る人が真摯であらねばならないがね。無駄な裁断をし、適当に仕立てられたバッグを地球外生物、つまり宇宙人が見たとしよう。彼らはきっとこう思うだろうな――『人間とはなんて愚かな生き物だ』って。そうは思われたくないだろう?」
「うん、思われたくない」
「じゃあ、大切にしないといけないよ」

「……麻美」
「なに、お兄ちゃん」
「みぞおちが痛くなったりすることはないかい?」
「ないよ」
「猛烈に喉が渇くことは?」
「走ったら喉渇くけど……」
「そうじゃなく、普段生活しててさ。学校にいるときなんかに」
「ないよ。どうしてそっぽ向いたまま、そんなことを聞くの?」
「もし、そうなったときは――いいかい、ちょっとでもそういう感覚を身体に感じたときには、必ずお兄ちゃんに言うんだよ。もしそのとき、お兄ちゃんがいなければ、お父さんやお母さんにでも――」
「どうしてそんなこと言うの! お兄ちゃんが聞いたんだもの。あたし、お兄ちゃんにだけ教えるわ」
「麻美……じゃあ、せめて、ぼくには必ず言うんだよ……(ぼくがおまえの前からいなくなったとき、ぼくはぼくでできうる限りのことをやってみるつもりだから)」

「麻美、バドミントン得意だよな」
「うん! お兄ちゃんとよくやったね。楽しかったなぁ。またやろう、ねっ」
「ああ、やろう」
「きっとよ。約束だよ!」
「約束だ。それでだけど、麻美、まだラケットやシャトルは家にあるんだろう?」
「うん、あるよ」
「じゃあ、それ、今度持って来てくれ」
「エッ、でも……」
「アハハ、そんな見回さなくても、この部屋で無理なのはわかってるよ」
「だったら……」
「ここに道具だけ置いておいてさ、今度恵介と鉢合わせしたとき、一緒に中庭でやったらいいよ。あいつは運動神経がいいから、すぐに慣れると思うよ」
「……いやよ、あんな人……うそつきだし」
「麻美。彼はうそつきじゃないよ。ぼくがうそを言わせてしまっただけなんだから。彼をうそつき呼ばわりすることは、ぼくを責めるようなものなんだよ」
「だって……」
「あいつは、いいやつだよ。それもすごくいいやつなんだ。それにね、麻美たちが遊んでいる姿を見たいんだよ。中庭は、デイルームの窓に面していて、ぼくも車椅子で見に行けるからね」
「お兄ちゃんが見たいなら……やってもいい」
「麻美ももうちょっと話すなりしてみれば、あいつがどれほどいい人間かわかってもらえるのにな」
「別に、わかんなくていいもん。あたしには柊一兄ちゃんがいるから」
「なぁ麻美……とてつもなくつらいことがあったとき、悲しみを誰かと共有することは大事なことだ。だけど、もし共有できない人間がいたときには、手を差し伸べてやることが、優しい人間のすることなんだよ」
「わかんない、なに言ってるの、お兄ちゃん?」
「あいつが――恵介が困っているとき、そういう場面に出くわしたとき、もし麻美が力になれることがあったら、彼に手を差し伸べてやってほしいってことさ。異性とかそんなことは忘れて、居合わせた同じ対等な人間として」
「あー、わかった、お兄ちゃん。そんな難しいこと、あたしに言って、本当はあの人とバドミントンをやってるあいだに、お母さんにあたしが学校でちゃんとしてるか、成績は悪くないか、聞き出したいだけなんでしょ!」
「フフ、バレてはしょうがないな。宿題を忘れた理由を、『お兄ちゃんに会いに行ってたから』ってされても困るからね」
「ベーだ。ちゃんとやってるもん」
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