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文字数 5,213文字

 市崎恵介は、低血圧には程遠い人物である。瞬きもなく仰向けの状態で目覚めた彼は、枕の上で首を回し、覚醒一番頭上にあたるベランダ窓に目を向けた。目こそ充血していたが、目覚める十分前から微動だにせず、さながら身体のほうは準備ができていて、そこに意識の到来だけを待ち構えていたかのようであった。遮光カーテンの端から漏れる朝日の加減で、時刻と空模様を読みとった彼は、ハンカチほどの大きさで身体を覆うタオルケットをはぎとった。折った肘を伸ばしてムクリと上半身を起こす。身体をベッドの側面側に向けて、裸足の足を床についた。椅子やソファのないワンルームの室内、コタツの不要なこの時期には、ココが部屋にいるときの彼の定位置となっていた。それから、腰をベッドからわずかに浮かせ、ローテーブルに手を伸ばし、コオロギを捕まえるカメレオンさながらにテレビのリモコンをつかみ取るや、中腰だった姿勢から、いきなり両足をなぎ払われたかのように、再びベッドに腰を落とした。そうして足を前に投げ出した状態のまま、テレビの電源を入れた彼は、股のあいだにリモコンを持った両腕を垂らし、予想した時刻の答え合わせをした。起床の際の、くだらぬ楽しみの一つであった。
 七時四十七分――思っていたよりも十五分ほど早かった。時計の目覚まし機能を使わなくなって一年半になる。一日中部屋で過ごす生活を続けることで気づかされたのは、睡眠時間の規則正しさであった。昨夜はいつもより十五分早く布団に入ったのを、彼は思い出した。これという理由はない。小説を読むなり、テレビを見るなりしているときに、あくびが二回でたら、寝ることに決めているのだ。
 カーテンを開き、眩しいというよりもうらめしそうに、降水確率一〇パーセントの青空を睨みつけると(つけたテレビの画面の隅っこに、そう表示されていたのである)、冷蔵庫から二リットルサイズのミネラルウォーターを取り出して、ラッパ飲みした。冷蔵庫の上には鏡が乗せてある。無精ひげを濡らした男が、自分を見つめていた。
「わかってる。わかってるさ。そんな目で見るなよ。おれだって、この状況に甘んじているわけじゃないんだ……確かにそう見えなくもないがね」
 ここで彼の日常について、もう少し付言しておくと、ここ最近では生き甲斐どころか、何一つとして得るもののない空疎な毎日を過ごしていた。金銭的なものを含め生産性のあるものはなく、自己開発意欲さえ失い、ほぼ食べて寝るだけのデカダンな生活であった。たとえば、部屋を掃除したとしたら、たとえそれが三十分のことであろうと、その日の寝る間際、『充実した一日だった』と思い返す――そんな無益な日常だった。窓枠を拭くだけでも、『まぁやるだけのことはやった』と思ったことだろう。彼の嫌いな床屋にでも行こうものなら(というもの、おでこが広いためか、はたまた頭の形か、あるいは前髪の軽いくせ毛が原因なのか――本人が疑わしく思っている髪を伸ばし始めたのが遅かったからというのは理由にはなるまい――、いつも七五三よろしく坊ちゃん頭に仕上がってしまうからだ)、一月分の仕事をやり終えたような心持ちになったに違いない。
 市崎は、小説家を志す、今年で二十八になる青年であった。そんな彼も、二年前までは人並みに会社勤めをしていた。そのとき、仕事上これといったきっかけもなく、突然会社を辞めて、誰にも内緒で小説家になることを決意したのだった。あいにく、辞めること自体にも、周囲の驚きを買うことはなかった。
 むろん、彼の中では一大決心があった……。ともかく、その契機となり得たのが、そのまた半年前、地元の公益財団が主催する文学賞の短編部門で(そのとき長編部門はなかった。しかも短編といっても、原稿用紙二十枚程度の超短編の部門であったが)、仕事はそっちのけで、一週間寝る間も惜しんでしたためた彼の作品が、最終候補に残ったことであった。たまたま寄り道した本屋で、その広告紙を見つけ、締めきり二週間前にもらって帰ったのだった。それから五日ものあいだ、裏返ってこそいたが、そのビラは捨てられることなく、テーブルの上にあり続けた。土曜日の雨降りの午後、午睡から目覚めた彼は、コップの下に敷かれたその存在にあらためて気づき、手に取って、募集要項を詳しく読みなおした。振り返ると、不思議でならなかった。あのとき彼には、買う予定の本などなかったのだから。そもそも、この数年はビジネス書を読むことはあっても、小説からはすっかり遠ざかっていた。話を戻すと、なにはともあれ、四年勤めた会社で、実際には受賞を逃したとはいえ、そのような好成績を収めたことが一度としてなく、毎回ノルマを達成できるか否かを繰り返していることこそが、その流れを導いたともいえた。残業のない仕事終わり、彼が辞表を提出した際、上司に驚かれこそしたが、儀礼としてでさえ引き止められることはなかった。友達とであれ、仕事であれ、彼は『信頼』との意味で用いられる『見返り』を求めるやり方ができなかったのだ。去りぎわ「いい決断かもしれないな」そう投げかけられた言葉の意味を、彼は何ひとつ良いほうには受けとめなかった。それも当時、一度として好成績を収められなかった一因と言えよう。彼がもう少し言葉数多く仕事をし、職を辞する際も上司に「小説家になろうと思います」と一言触れていたら、上司は断固として彼を引き止めたに違いない。上司は二十六の彼に、そんないばらの道の転職を容認したわけではなかったのだから。それどころか、実際には転職を容認するくらいには彼を買ってくれていたのである。
 その後の二年間で、恵介は長編二作・短編一作をしたためた。中編寄りの長編・短編・長編の順である。三ヶ月前、懸賞に応募した長編はともかくとして、他の二編は懸賞の一次審査すら通らなかった。しかし、それもこれもすべては今回の(三ヶ月前の)小説の布石であったと考えるようにした。今回の小説に限っては、それほどの自信が彼にはあったのである。
 さて、朝のささやかな恒例行事を済ますと、起床後数分にして恵介は、生理的な欲求に襲われた。横腹は、相変わらずスウェットの腰ゴムの上でぷっくりと膨れているが、前部が凹んで、悲鳴を上げ始めたのである。肩をならすように腕を振り回すと、彼はだしぬけにズボンを脱いで、着替えを始めた。ジーパンにベルトを通すと、Tシャツはそのままに、顔を洗わず、歯さえ磨かず、サンダル履きに適した裸足のまま、玄関へと向かった。ズボンに入ったままの鍵でドアを施錠し、徒歩でアパートを出た。運動不足な男の唯一の運動――それは、朝食のためのファストフード店通いであった。ソーセージを挟んだマフィンとコーヒーのセットが二百円で済むので、自ら用意するよりよっぽど安く済むのである。
 大股の早足で歩きながら、深い腹式呼吸を試みる。そうやって彼は、まだ起きぬけ状態の身体の各部位を内と外から目覚めさせるのだった。ファストフード店までは、まず大通りの県道に出るまで四百メートル、そこから県道沿いに三百メートルの距離であった。どうやってやりくりしているのかわからない時計屋と、いつも辺り一帯を水浸しにする花屋、婆さんが通行人に睨みをきかす主に漬物と練り物、それに手当たりしだいの雑貨を売る店の前を通る。表通りに出たところで、信号を待って、横断歩道を渡ってから右折をした。あとは信号のない道を直進すれば、すでに見えているファストフード店の看板の下にたどり着く。
 車線の多い県道沿いだけあって、道の途中には小学校(その小学校の奥隣には中学校もあった)や屹立する高層マンション、いくつもの事務所を構えるオフィスビル(地階はテナントで、彼には一生縁のなさそうなこじゃれた美容院が入っていた)、ほかにも中古車ディーラーの店などがあった。その中古車ディーラーの前に来たとき、彼は駆け寄ってきた女性に声をかけられた。長めの髪を後ろで束ねた、背の低い、スカート姿の若い事務員だった。
「あの、すみません。今から車が出ますので、ちょっとだけお待ちいただけますでしょうか?」
 女性と会話したことといえば、直近では六日前、病院の薬局から出てきたばかりの老婦人に、バレーボールをしている高校生の孫としつこく間違えられたくらいだったので、朝一にきれいな女性と会話できたのを幸甚に思いながら、行く手をさえぎられたのだから『しょうがない』とばかり無言で承諾すれば済むところを、彼はわざわざ返事までして応じた。
「ええ、どうぞどうぞ」
 ところが、そこから十五秒、二十秒……三十秒経っても、車が出てくることはなかった。事務所の入り口の前にはエンジンをかけたままの車が停まっているのだが、運転手は窓越しに男性の事務員を呼び戻し、新たな話題を持ちかけているのだった。事務員のほうは膝に手を置き、お尻を突き出して、相手に目線を合わせながら接客していた。運転手がたまにフロントガラスのステッカーを指差しているところを見ると、車検の話をしているようである。二人とも、彼女が先走って、出庫の準備をしていることに、気づいている様子はなかった。
 つまるところ、彼女は出てくるタイミングを読み違えたようである。どうやら、彼女はまだ、入社したての新人のようであった。あたふたした様子で、戻って接客に加わるべきか、この場に留まるべきか、肩幅に開いた黒いパンプスの各々に重心を移して悩んでいたが、結局はあきらめたように肩を落とし、靴をそろえて、彼を振り返った。
「ごめんなさい、まだ来ないようでした。どうぞ、お通りになってください」
 そのとき恵介はといえば、若くして、気品ある顔立ちをした女性のすぐ背後に立つことを許され、彼女の横顔と後姿(特に野鳥の長い尾羽を思わせる艶のある美しい後ろ髪)に見入っていたので、そもそも時間の概念など吹き飛んでいた。目を合わせたときの第一印象で気づいたことがあった。彼女はモデルであり、歌手でもあり、最近はバラエティ番組にも登場し、時には司会の手腕を発揮するマルチタレントの女性に、そっくりなことであった。唯一の違いは、彼女はそのタレントに比べ、おそらく十五センチは背が低いことであった。加えて言うなら、彼女の丁寧な言葉遣いの中にあって、どこかしら、そういうタレントが私的な、撮影以外のときに見せるような、若干険のある雰囲気すら備えていた。しかし、彼の彼女に寄せる好感には、別のものもあった。それは、もてなすべき相手に対する積極的な気配りである。道をさえぎられたとはいえ、彼にはどちらかと言えば、快く思えたくらいであった。会社員時代、よく彼もそんな空回りをやらかしたものだった。
 労わりの笑みを返して、彼は言った。
「いや、かまわな――アッ、それより、車が出るようですよ」
 身長差からして、まったくその必要はなかったが、恵介は首を伸ばして、女性の背後に注意を誘った。そのときになって、ようやくギアをドライブに入れた車が、門戸から進み出た。
 彼女は気持ちを取り直し、出てくる車の方向指示器の向きを確認すると、歩道と車道のきわに立って、運転手に背を向け、両腕をL字に伸ばした。明らかに、彼以外の歩行者も、車の往来もそのときはなかったのだが、あえてそうまでしたのは、出庫する運転手の警戒心を解き、心地良い出発を演出してあげるためであろう。何より立派なのは、恵介がそばに居てなお、気恥ずかしさの欠片も見せなかった点である。
 整備され、洗車をし、朝一番に納車されたスポーツワゴン車(傷の修理かなにかで預けられていたのだろう)は、歩道で一時停止することなく、後輪をきしませながら道路に乗り入れ、信号でできた渋滞の隙間に猛スピードで割り込んだ。その際、軽いホーンを鳴らしたのは、彼女のためというより、事務所の門前に立つ男性従業員に向けられたものだろう。その担当員の高らかな感謝の挨拶とともに、その場で彼女も最敬礼をし、渋滞の列に隠れた車に深々と頭を下げた。八メートルほど離れた位置で、従業員二人は目を合わせると、男性のほう(恵介と同世代か少し上の年齢に思えた)は、奇妙な生き物でも見るように恵介を眺め、彼女をうながすように、顎を払い、無言で事務所に戻っていった。
 彼女は振り返ると、丁寧に頭を下げた。
「すみません。お待たせしてしまって。ありがとうございました」
「いいよ、どうせ時間は有り余ってたから」
「エッ?」
 彼女の驚き顔は次第に困惑顔へと変わっていった。
「いや、ごめん……」彼女への心遣いのつもりで余計なことを口走ってしまった彼は、下を向いたまま歩きだし、すれ違いざまに言い残した。「がんばりなよ、きみには素質がある」
 なにせ彼女には、彼にはなかった愛嬌が――万人受けもする愛嬌があるのだから。
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