文字数 2,415文字

 一ヶ月後――。
 残照に染まる夕暮れ時、駅に向かって帰宅の途についていると、駅前のマンション街の一角に設けられた、申し訳程度の公園のベンチに、肩を落としてうなだれる男性の背中を見つけた。最初は特に意識もせず、ビル間にひらけた三つの遊具しかないわびしい公園を見流しただけであったが、その背中に引っ掛かるものを感じて、間隔の狭いタイサンボクの切れ間から、ベンチに向かって目を凝らし続けた。――と、長田真実は、突然靴を鳴らして、その場に立ち止まった。彼女は、その理知的な、大きな瞳でしばらく夕闇迫りくる光景を眺めたあと、肩にかけていたカバンを手に持ち替え、極力足音を控えて、背後よりその背中に近づいていった。何をしているのか知りたくもあり、あわよくば驚かそうという狙いもあったが、どうするかは決めかねていた。ただ、その背中になにやら胸騒ぎめいたものを感じたのは確かだった。
 丈の低いベンチにお尻を突き出すように座った男の姿勢は、九回裏一点差一死満塁、バントを警戒する三塁手さながらであったが、首だけは曲がるだけうなだれていた。彼の見つめる先にあるのは、地面の砂だけであった。いや実際には、それさえも見えてはいなかった。
 いたずら心を失った彼女は、カバンを肩にかけ直し、しばらくそばにたたずんだあと、意を決して彼に呼びかけた。
「こんにちは」
 身体に微弱な電流が走ると、恵介は顔をもたげた。
「やぁ、きみか……」
 顔を向けた人物が放つ雰囲気に、彼女は思わず身震いし、息を呑んだ。ようやくこの場所にたどり着いたが、精も根も尽き果てた――といったような脱力しきった男の顔つきであった。この公園が、駅から彼のアパートへの通り道にあたるのは相違なかった。
「こんなところで、何をしてるんですか?」
「うん、ちょっと、家に帰りたくない気分だったんでね」
「何か、あったんですか?」
 彼女の視線をいなすと、彼は対面の遊具を見つめた。
「……不思議だね。さっきもきみのことを考えていたんだ」
「エッ」
「朝食を変える決意とともにね」
「あ、あの、何を言ってるんですか?」彼女は肩にかけたビジネスバッグを地面に下ろすと、同じベンチの隣に座った。「こっちを向いてください、市崎さん」
 彼は彼女を一瞥したが、やはり見続けることはできなかった。
「今……そこの書店で確認してきたんだ。今回もダメだった。笑ってくれよ、あんなに自信満々だったのに、一次審査すら受かってなかったんだ……。やはり、ぼくは向いていないんだろうな……。実は、書きあげた当初、もっと競争率の高い、名の知れた懸賞に応募しようと目論んだこともあった。そうすれば、きみのお店の中堅どころの車だったら、即金で買えたわけで――『そうしておけばよかったな』なんて、この前会ったあと、ひそかに後悔したもんさ。だが結局のところ、レベルを落とした懸賞にさえ、箸にも棒にもかからなかった……」
 太ももに押し当てられたこぶしが固く握りしめられるのを、彼女は見つめていた。
「届いてなかった……原稿がちゃんと出版社に届いていなかったってことはないんですか?」
 即座に彼は首を振った。
「ないよ。届いたかどうかの情報を追跡できる、伝票番号が付いた専用封筒で送ったから。最初に応募したとき、同じことを考えて、次から確認できるものに替えたんだ。バカだよな。くだらないことに神経をとがらせて。せめて、運送業者が荷物を失くす以上に、当選する確率のあるものを送らないと。そうじゃなきゃ疑いをかけた運送会社に失礼さ」
 生気を失った彼の顔に、不気味な自嘲の笑みが浮かんだ。
 またもやうつむく彼。彼女は先ほどまで彼が眺めていた正面にある鉄棒を見つめた。沈黙が支配するなか、真実が口を開いた。
「信じないんですか?」
 目をしばたたかせた彼が問い返した。
「ん、なにを?」
「『文学の才能がある』って言葉」
「きみは知らないが、遠い昔の話なんだよ、それを言われたのは」
「そんなの関係ありません。いえ、遠い昔ならなおのことです」
 そう、あのとき、意識も予期もしなかった言葉だからこそ、自分を形作る金型の一つとして彼の心に永遠に刻まれることになったのである。
「……あるいは、彼の言葉もきみの発言も正しいのかもしれない。だが、人間が変わってしまったんだよ、あの頃とは」
「ねぇ、市崎さん」
 間髪入れず尋ねた彼女の声色の違いにも気づかず、恵介は呼ばれるままに振り向いた。
「ん、なに――」
 しかし、その続きは口から出ることなくふさがれた、同じ彼女の唇で。唐突過ぎる口づけであった。思わず、恵介が身を引いたため、すぐに唇は離れた(正確を期すなら、コンマ数秒そのまま身をゆだねかけたが、ハッと正気に返ったのだった)。彼は危うく手の甲で唇をぬぐおうとして、すんでで止めた。こんなにも温かで、柔らかいものがこの世に存在することが、彼には信じられなかった。むろん、目の前の現実をも疑ったが。
 一人、閉じた瞳を開いた真実であった。
「元気、出ました?」彼女に何か特別なことをしてあげた様子はなく、今日ここで会ったときと同様、優しく微笑んでいた。「市崎さん、人って、見かけはともかく、内面を変えることなんてできませんよ、特に才能なんてものに関しては」
「き、きみ、あの……」
 ろくに返事ができずにいる彼をベンチに残して、真実は立ち上がった。
「深く考えないでくださいね。どうしても元気が必要みたいだったから。それにね、これは世界中の女性になり変わってという思いもあるんです。一ヶ月くらい前の『傘』の一件――わたし、アレ、回送移動中のレンタカーの中で見ていたんですよ。で、どうです? 元気出ました? そう、よかった。でも、このまま帰っては、わたしの沽券に関わることですから、最後に一つだけ、お願いがあります――」彼女はカバンの中を探ると、手帳を取り出して一ページ抜き取った。「電話番号を教えてください」
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