13

文字数 4,809文字

 市崎恵介は、一旦麻美を街路樹の根元にもたれかからせると、通りがかりのタクシーの前に飛び出した。一幕あったが、乗客の厚意で、タクシーを譲ってもらい、麻美を抱いて乗り込み、柊一が入院していた総合病院へと車を向かわせた。
 タクシーの運転手が、渋滞する幹線道路をクラクションと手信号を使って、無理を押して突き進んでくれたため、この時間帯では一時間はかかる道のりを、三十分弱で走り抜いてくれた。
 病院の受付は終わっていたが、診察はまだ続いていた。タクシー運転手が、自動ドアが開く位置まで車を寄せてくれたので、奥に下がった受付係が『何事か』と姿を見せた。一方、恵介は車内で彼女を抱きかかえ、ドアが開けられるのを、ゲートが開くのを待つ競走馬さながらに待ち構えていた。ドアが開くなり、彼は病院に駆け込み、息せき切って叫んだ。
「多賀先生を、神経内科の多賀先生を呼んでくださいッ」

 五分後、空いた診察室に、白衣の裾をはためかせた多賀医師が現れた。事前の内線で、小笹柊一と同じ病気を発病しているとの報告を受けていた。
 多賀は、献身的に麻美の汗をぬぐう恵介を脇にどかし、簡易ベッドに横たわる麻美を一通り検分すると、まぶたを開いて、対光反射を確認し、口の渇きをあらためつつ、恵介に問いただした。
「なぜ、この女性が柊一君と同じ病気にかかったとわかる?」
「この人は、彼の妹なんです」
「なるほど」すでに勘付いていたらしく多賀は納得した。「時間は? いつ、こんな状態になった?」
「約三十分前です。正確には――、すみません、三十七分前です」
「そうか。で、きみは?」
 眼光鋭く恵介を睨みつけたが、質問中も多賀の手が休まることはなかった。
「あ、兄代わりのようなものです……わたしなんかより、早くその子を!」
「安心しろ」多賀は、遅れて駆けつけた別の医師に指示を出し、女性看護師に麻美を処置室に移して着替えをするよう申しつけると、初めて表情を緩めた。「むろん病気を確かめる必要はあるが、あの病気に関してなら、発症後六時間以内なら間違いなく治る特効薬ができたんだ。先ごろ承認されたばかりでね。きっとあのとき病理解剖を申し出てくれた、この子の兄、柊一君のおかげだよ」

 柊一の病室だった個室、のはす向かいにある個室――。
「ふ~む、しかし、驚いたよ。小笹柊一君と同じ病気と聞いて、階段を駆け下りてくると、その 柊一君に見まごうばかりの男が立っているんだものな」
「エッ、そう、見えます? いや~、まいったな。パソコン仕事に没頭してたら、髪はぼさぼさ、体重は激減、目は悪くなっちゃって。先日生まれて初めて、眼鏡を買いに行ったんですが、目立たないよう縁無しの眼鏡にしたんです」
 早速、医師の立場を取り戻した多賀の目が光った。
「とはいえ、こうしてよく見ると、柊一君のほうが、少年ながらにきりっとした目元だったがね。あ、それからきみも、できたら人間ドックを受けたほうがいいかもしれないね」
 多賀は、恵介が書き込むことになった麻美の問診票に目を落とした。
 懐かしむように同じ内装の部屋を眺めながら、恵介は述懐した。
「多賀先生、実は私も、こちらに入院したことがあり、そこで柊一と知り合ったんですよ」
「ほう。で、あなたの名前は――市崎恵介」それから恵介の顔を一瞥したが、二度見してまで驚いたのは、顔ではなく、問診票に書かれた代筆者名(彼の名前)のほうだった。「ん、ちょっと待ちなさい! もしかしてきみは――」と、ここで、この瞬間の恵介の内心を吐露しておくと、『ああ、バレたか』というものであった。なぜかといえば、彼は半年前、彼女と別れたあと一年を要し、彫心鏤骨で書き上げた長編小説が、新人賞を受賞し、授賞式の模様は雑誌等に取り上げられ、出版された単行本の売り上げもよく、先日増刷が決まったばかりだったのだ。もっとも、世間的ニュースからすれば取るに足らない、ごく限られた世界の瑣末な出来事に過ぎなかったが。ところで、多賀医師の続きは、思いもかけないものだった。「白金高校出身ではないかね?」
 恵介は目をパチクリさせて多賀医師を見つめ返した。彼がここに入院していたのは、まだ中学生の頃だったから。
「ええ、でもなんで?」
 多賀はしたり顔で熱弁をふるった。
「わたしは高校野球が大好きで、地元大会も欠かさずチェックしているんだが、『白金の市崎』と言ったら、新聞に載るほど有名だったじゃないか。そうだ、確かに恵介という名前だったよ。四番センターは珍しく、あの頃は『松井二世現る』なんて評されてな。もっとも松井が高校の頃は三塁手だったんだがね。そうそうあの試合――力戦奮闘の延長十二回、奇跡の満塁ホームラン、よく覚えているぞ」
 顔を真っ赤にすると、穴があったら入りたいというように、恵介は大きな身体をもぞつかせた。
「本当によく覚えていますね。でも、あれは、悪い試合ですよ。完全に無駄なホームランでしたし」
「そう言っては身も蓋もないがね。われわれのような大向こうをうならせる、高校野球ならではの掉尾を飾るいいゲームであったことは確かだよ。ところで、きみは今、何をしているんだい? プロでは活躍しなかったみたいだけど」
「それがですね――」
 そのときである。ノックがあり、部屋のドアが開かれ、一人の女性看護師が入ってきた。多賀に検査結果らしき青と黄色に塗り分けされた用紙を二枚手渡し、立ち去りかけたが、何を思ったか、急に恵介の顔をじろじろと眺め出し、いきなり素っ頓狂な声を上げた。
「あ、やっぱそう、市崎恵介だ!」
 『まいったな。今度こそかよ』――そう確信した恵介であったが、素知らぬ顔で聞き返した。
「な、なんです?」
「『なんです?』じゃないわよ。この、いたずら坊主さん――わたしのこと忘れたの?」
 髪をかき上げ、軽くしなを作ってみせる看護師を見て、ようやく彼にも思い当たった。
「あ、あなたは、あのときの!」
 そう『彼氏がいなくてピリピリしていた』看護師だったのだ。抱き合いかねない二人であったが、多賀が咳払いをして、厳しく二人をいさめた。
「静かにしなさい。ここがどこだと思ってるんだ。ただでさえ、患者が目の前で眠ってるんだよ」
 二人はせめてもの気持ちから、両手でがっちり握手をし合い(彼女の手には結婚指輪がはまっていた)、彼女はその場を離れた。それから恵介は、多賀医師に、自分が小説家であること、麻美とは、夕方柊一の墓前で見かけ、その様子がおかしかったのであとをつけていると、突然腹を抱えてうずくまり、ここまで連れてきたことを明かした。
「そうか。では、あとはきみに託そう。彼女が目を覚ましたら、きみがボタンを押して呼んでくれ」
「はい」
 部屋は二人だけになった。
 恵介は麻美の足もとのひだになった布団カバーを伸ばしてやり、備え付けのタンスを開けて、洋服が斜めにかかってないかや、ここに来るまでの過程でバッグに傷が入っていないかを確かめた。そして、一通り問題ないことを確かめると、彼は病室のドアに足を向けた。と――、その背中に声がかかった。
「どこに行くの?」
 恵介は天を仰いで長大息をもらすと、がっくり肩を落として見せてから、左の手を腰にやり振り返った。
「寝たふりをしたな」
 身体は淡い麻痺状態にあり、首だけ起こした麻美は、驚いた様子で、恵介を見つめ続けた。
「今の一緒……柊一兄ちゃんの反応と、まったく一緒だった……」
 恵介は麻美のベッドのそばに行き、目線を合わせるため、腰を折って膝に手を当てた。
「麻美ちゃん、もう大丈夫、きみは助かったんだ。それから、今後はおれのこと、兄さんのように思ってくれて構わないから。安心して、きみが目覚めるまでどこにも行くつもりはなかったよ。来られるはずのご両親が病室を探してないか、廊下を確認しようとしただけだから。でもきみが目を覚ましたことだし、ちょっと出てくるよ。とりあえず、きみの会社が、きみに何をしたのかを確かめてこなければね」
 つまり、今度は恵介が、自分が兄の墓前で語った話を聞いていたことを麻美は知った。そして麻美は、やっぱりあの場所にお墓を移動しておいて本当によかったと思った。しかし、それも意識の端で感じたことで、彼の発言は彼女の耳を素通りしたかのようだった。彼女は以前とは違う恵介の相好に見入っていた。確かに見違えるようだったが、麻美の目には二年前とちっとも変らなかった。ちなみに、押す約束だったナースボタンのことを恵介が言わずに留めたのは、麻美が話したいことがあれば、それを聞いてから押そうと思ったからである。
「……全然違う。多賀先生も言ってたように、あなたは柊一兄ちゃんとは似ても似つかないわ。それにあなたは『兄さん』にはなれない。だって、わたしのお兄ちゃんは柊一兄ちゃんだけだもの」
「多賀先生はそこまで言わなかったがね。しかし、きみの言うことが確かだ。じゃあ、そのボタンをひと押しして、先生を呼んでくる。それだけならいいだろう?」
「そのまま行くつもりでしょう? 『呼んでくる』『確かめてくる』でも、あなたはもう帰ってこないつもりだわ。ね、そうなんでしょう?」
 麻美にはどんな言い訳も通用しない。彼は観念して認めた。
「……うん、そのつもりだった」
 付き合っていた頃のように、麻美は呼びかけた。
「ねぇ、恵介さん。これが、あのとき最後の電話で話した『埋め合わせ』なの?」
 麻美は恵介と交わしたどんな片言隻語も忘れずに覚えていた。ましてや、あのとき真の意味もわからず彼女が耳にした『埋め合わせ』は、彼の発言の中で唯一まだ実行されていない言葉であった。
「よく覚えているね。いや、そうじゃないよ。これは埋め合わせには当たらない。なぜなら――」
 話の先を折って、麻美が早口に言葉を引き取った。
「あなたはわたしの命を救ってくれたのよ。それでも違うの?」
 勇み立つ患者を落ち着かせるように首を振ってから、恵介は話しかけた。
「違うよ。ぼくがきみを救ったんじゃない。治る薬ができたのも、ぼくをあの場できみと引き合わせてくれたのも、柊一――きみの兄さんのおかげなんだから」
「そう。なら、よかった。だって、『埋め合わせ』には全然足りないもの、たとえあなたがわたしの命を救ってくれたとしても、あの一回すっぽかされた

の『デートの埋め合わせ』には」
 以前、やり直しの意味を込めた恵介の『おれら』――その対となる同義語が、麻美のこの『わたしたち』であった。
「エッ……あの、麻美ちゃん?」
 これが麻美にとっては必要な、第一の、無理やりにも築き上げた(あるいは涙の代償としては正当と言えるかもしれぬ)当事者同士の理由。しかし、それだけではまだ足りなかった。麻美にはもう一つ、誤解のない客観性を持った理由が必要であった――たわみがちな赤い糸をピンと張ったままつなぎ留めておくためにも。
 そう、恵介は麻美の兄にはなれない。彼を知る人たちがこの場に集まり、この瞬間にはきっと小笹柊一もこの場に居て、微笑みながら二人を見届けているはずだから。
「ねぇ、恵介さん、最後に多賀先生が言った言葉、覚えてる?」
「うん? たしか、『あとはきみに託そう。彼女が目を覚ましたら、きみがボタンを押して呼んでくれ』だった気がするけど?」
「それに対して、恵介さんは、なんて答えた?」
「『はい』って……いや、この意味は!」
 恵介は取り乱したが、時すでに遅かった。
 麻美は呪文のように、その言葉を唱えた。
「あなたは託された、わたしのことを。もしこのボタンをわたしが押したら、あなたはもう一度同じ状況になるまで待ち続けなければならない。おわかりよね、そうなる機会が来るまで、


 麻美の顔の横に掲げられた、いまや彼の運命を決するナースボタンは、恵介の目の前で、今、彼女によって押されてしまった。

(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み