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文字数 3,523文字

 なぜ『マリンワールド』を選んだかといえば、恵介はそこしか、行楽地として思い浮かぶ場所がなかったためであった。実のところ、そこは一度訪れたことのある、いわば経験済みの場所でもあった。埋め合わせに誘う――恩返しに接待するには、必須の条件といえよう。とはいえ、訪れたのは、かれこれ十年以上も前の話であった。彼が高校二年生のとき、自分たちの男子グループが、修学旅行先で親しくなった同じ高校の女子グループを誘って、集団デートを敢行した場所だった。グループはイベント開催時間に合流することを条件にペアを形成するようになり、当時イガグリ頭だった彼の前にも、気づけばおさげ髪でうつむきがちな女子が留まることとなった。お互い居残り組だった……と、その先は、またの機会にということにして――、ともかく、電車を降りた段階で、恵介が気づいたのは、『マリンワールド』は、これまでと異なり、明らかなデートスポットだということで、見渡すかぎりがカップルもしくは家族連れであった。はからずも彼は、長田真実をデートに誘ったことになってしまったのだった。
 しかし、真実はつゆとためらうことなく、他のカップルと一緒になって、展示会場で珍しい海の生き物の説明を聞いたり、パノラマやトンネルの巨大水槽をはしゃぎながら見渡したり、アシカやイルカのショーといったものまで、ほとんどデート形式で楽しんだ。イルカが水しぶきを飛ばしたときなど、恵介の腕にすがりついて、しばらくは腕を組みっぱなしだった。恵介が感じるかぎり、彼女はなんら警戒心を抱くことなく、心から楽しんでくれたようだった。
 恵介が先導する形でメイン施設のスタート地点からテーマごとに区切られたコースを巡り、ゴールが近くなったときである。あるいは心理効果として、最後にそういう演出もあったのかもしれない。進路が突然、海底洞窟を思わせるエメラルド色の、幅が狭く細長い通路になり、周囲に人気が途絶え、騒ぎ声も聞こえなくなった。聞こえるのは、安らぎを感じる気泡が浮かび上がる音だけである。
 横並びで、歩みがまったく同じになった刹那であった。恵介の左手が真実の右手に触れた。『もう耐えられなくなった』との表現が正しいのかもしれない。恵介はそのときのことを今でも、いや生涯忘れることなく覚えているだろう。次の瞬間、天井の照明がカーテンのように降り注ぐさまを見上げていた真実は、まるで電気でも走ったかのように、壁側に飛び退き、触れられた右手は胸の中央に引き込まれると、すかさず左手が覆った。まるで、蛇がいると教えられた場所で、得体のしれない何かに触れたときのようだった。あんなに楽しそうだった彼女の表情が、一変、無表情に凍りつき、顔は斜め下を向き、場所柄真っ暗になった。
 恵介はサッとその場から身を引くと――背中が壁にぶつかった――、思わず両手を上げて謝った。
「ご、ごめん!」言い訳はしなかった。すべてを認めた上での謝罪だった。「今日は、そんなんじゃないのにね。ごめん」
 どちらかと言えば、立場を明白にしてくれたことへの感謝すらあった――『馬鹿野郎。おまえってやつは。あれほど住む世界が違うと言ったろうに! 何だと? 〈これまで、一緒に出かけたり、食事をしたから、そろそろ……〉だとう? それが何だって言うんだ。すべては、おまえを励ますためにやってくれてることくらい、おまえだってわかっていたろうに。現におまえは、彼女をヒロインのモデルとして新たな小説の構想を練り始めたじゃないか。それをなんだ、今度は逆手にとって、デートになんか誘いやがって。〈そんなつもりはなかった……〉だと? 言い訳するんじゃねぇよ。それこそ彼女のセリフだ!』。
 猛省を促す、そんな声が聞こえた。うつむく顔を上げると、相手もバツが悪そうに上目遣いで彼を見つめていた。
「わたしのほうこそ、ごめんなさい。これは、市崎さん、いえ、恵介さんが言う意味の『ごめんなさい』じゃないの」彼女はゆっくりと通路を横断し、彼と靴先がぶつかるくらいの場所に立った。必然彼女の顔は上を向いた。「驚かせたことへのごめんなさい。わたし、こう見えて怖がりなんですよ。今後もちゃんと覚えておいてくださいね」
 真実の両手が恵介の左手を包み込み、右手と左手の指同士がしっかり組み合わされた。余った手が離れると、一本につながった腕が引っ張られた。
「ほら、もう出口はそこですよ。さ、行きましょう。早く出ないと、窒息するかもしれませんよ!」

 もうひと駅先に彼女の家はあるのだが、真実はわざわざ駅を出てまで、見送ってくれた。駅前だが、マンション街の細い道をちょっと入っただけで、人通りはなくなった。先導していた彼女が、靴を揃えて振り返った。
「この辺りでいいですよね。今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「う、うん」
「もちろん、電話くれますよね。あ、今夜はわたしからおかけしますから」
「あ、あのさ……」
「どうしたんです? 帰りの車中もずっと考えごとされてるみたいでしたけど」
「回りくどい言い方が苦手だから、正直に言うよ。おれ、今日で、きみと一旦サヨナラしようと思っていたんだ。それがきみのためであり、おれのためでもあると信じていたから。慈悲深い神様より遣わされた天使としての、きみの役目は終わった。これ以上、きみを自分だけのために束縛してはならないってね。しかし、そんなおれの信念はきみの笑顔ひとつで、もろくも崩れ去った……。きみを忘れることなんてできない――そのことを今日になって思い知らされた。そしたら、そうしたら、きみも天には帰らず、居残ってあげると言ってくれた。しかし、それはそれとして、どうしてもわからないことがあるんだ。どうか、今ここで、それだけは教えてほしい。なんで……なんで、おれなんかに、こんなに優しくしてくれるんだい? おれにはもう何もないんだよ」
「『何もない』? 恵介さん、あなたには輝ける未来があるじゃないですか。それにわたしが天使だなんて――」
「その未来だって、全然保証されたものじゃない。なんなら宝くじを買うようなものなんだよ。それに……おれをよく見ろよ、長田さん。きみのような美人と釣り合いのとれるような男じゃない」
「……じゃあ、わたしも、正直に言います。だって、ほうっておけないじゃないですか。ふふふ、笑ってごめんなさい。わたし、あなたみたいな性格や容姿の人、好きですよ。わたし、チビだし、恵介さんみたいな背の高い人には、ずっと憧れを抱いていたくらいですから」
「ほんとうに?」
「本当です!」
「でも、あの海底洞窟のところで――」
「ねぇ恵介さん。手を握るって、女にとっては一大事なんですよ。大切なことを承諾した証でもあるんですから。もう、その瞬間から友達としての関係ではなくなるんですからね」
「……『友達でなくなる』……長田さん、怒らないで聞いてほしい。おれ、きみの呼び方替えるべきかな?」
「ウフフ、替えるべきでしょうね」
「ま、真実さん」
「なぁに、恵介さん?」
「おれは――ぼくは、絶対にうそはつかない。だから、きみも正直に何でも打ち明けてほしい。名字で呼びたくなったら、名字で呼んでかまわない」
「ねぇ恵介さん。実は、わたしも今日ずっと聞きたいことがあったの」
「な、なんだろう?」
「どうして、恵介さんは、施設の複雑なコースやトイレの場所まで熟知してるのかなーってこと」
「あ、あの、それは、高校時代に同学年のグ、グループ同士で一緒に来たことがあって。ショーの空き時間だけ強制的にカ、カップルを作らされて。一人の女子生徒と親しくなったんだけど。な、なにするわけでもなく五日後には振られちゃって。それ以降は女性と付き合った経験もなく。だから……」
「ププッ、本当に正直なんですね」
「そうなんだ。まったく、自分が呪いたくなるよ、バカ正直をね」
「呪う必要なんてありませんよ。わたし、今日聞いた天使って言葉、わすれません。案外、堕天使じゃなきゃいいんですけど」
 恵介は声を上ずらせてまで、これまでのことを含める形で、彼女を擁護した。
「そ、そんなことはない! 真実さん、今のきみはぼくにとって天使以外のなにものでもない。それだけで十分だよ」
「うれしい。うれしけど、今のは、恵介さんが褒めすぎるから、言ってみたまで、だったりします」
「アッ……ごめん……」
「じゃあ――わたし、帰りますね」
「うん……」
「さようなら」
「さようなら……あっ、あの」
「エッ、なんですか?」
「い、いや、何でもないんだ。そ、そうだ、少し、いや、だいぶ早いけど、おやすみ。あ、いや、まだ寝ないで……電話待ってる」
「はい。必ずします」
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