母親と子の関係ってムズカシイ?(後編)
文字数 1,337文字
す、すいません……やっとクールダウンしました……。
お疲れ様。それじゃあいよいよ、「あたしおかあさんだから」をラカン的に見ていくことにしましょう。
言葉によって、とらえどころがなかった母親の欲望というものに区切りがつき、あやふやだった自分と母親との区切りもつく、というお話でしたよね。
そうね。そこでもう一つ、ラカンの考え方を要約したものを取り入れていくんだけど。
言葉は、「何かが足りないこと」に対して現れるのよ。
そうね。生まれたての赤ちゃんは、欲求が自動的に解消されていたわけだけど、やがてそうではないことに気づく。お乳が飲みたいけど母親が自分の前にいない、ということが起こる。そういう状態に対して、お乳のもと、つまり乳房か母親ということになるけど、それを指し示す「ママ」という言葉が現れる。
そんな説明がされているわ。
これはラテン語を共通言語にしてきたヨーロッパの考え方だから、日本語話者にはわかりづらいんじゃないかしら。mammaはイタリア語なら「母親」だけど、「乳房」という意味もあるからね。
えっと、英語だと……。
mammalは哺乳類だし、
mammographyは乳がんのレントゲン検査ですね。
そうね。ただ、日本語で「まんま」といったら「飯」のことになるから、ある程度共通点はあるかもしれない。
赤ちゃんだったら、お乳がないからママという言葉が現れる、というのは大体わかりましたが、大人ならどうですか?
えっ、だって、大人にとっての言葉にも同じことが言えるか、わからないじゃないですか。
「大人の言葉も欠如によって現れるのか」という問いに対する答えの欠如が、今の久恵里ちゃんの言葉に現れているわけよ。そしてその欠如を埋めるために私のこの言葉はある。
「
ルールを呼び出して味方につける」という話を前にしましたけど、味方がいないからこそ、「あたしおかあさんだから」という言葉によって呼び出さねばならなかった、という解釈もできますね。
ええ。「あたしおかあさんだから」という言葉を、「あたし」が発するものとして捉えるならば、そう言えるわね。でもなんだか、言えば言うほど欠如が深くなっていくような気もするわ。
言葉にすればするほど嘘に思えてしまうって、ありますよね。
言葉をいくら積み重ねても、それは「存在そのもの」にはならないものね。結局のところ、言葉って空虚なのよ。
でも、言葉の作用がなかったら、母親と自分を区別することもできない……。言葉って、厄介だけど、必要なものなんですね。
そうね。
ここまで色々なことを考えたから、まだ頭がごちゃごちゃしてると思うけど……。
ラカンは生涯の中で色々なことを言ったから、ラカンの言葉を使ってまた別の解釈も色々できるだろうけど、今は私の頭もごちゃごちゃしてるから、この話はここまでということにさせてちょうだい。
そうですね。でも、母親と子と言葉の関係って、人間のおおもとに関わる重大な問題で、必要だけど厄介で、だから色んな考え方ができてしまうんだってことは、わかってきました。
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