感情は目的の後についてくる?

文字数 2,807文字

前回、感情は身体の興奮とその理由付けの二つの段階で成り立っているという話をしたけど、今度は感情にまつわるもう一つの考え方を紹介するわね。目的論と呼ばれているものよ。
目的? というと、動物が敵と戦うとか、逃げるとか、そういう働きのために感情がある、みたいな話ですか?
前回はそういう話だったけど、今回採り上げる目的論は違うものよ。

元々はアルフレッド・アドラーという精神医学者が主張した説。アドラーは、以前紹介したフロイトと並び称されるほどの業績を残したんだけど、フロイトとは大きく違う考え方をとったの。

というと?
私たちは、例えばすれ違いざまに肩がぶつかったとか、そういう原因によって怒りの感情が引き起こされた、と考えがちよね。でも、怒らない人もいるし、同じ人でも怒るときと怒らないときがある。なぜ?
その人やそのときの機嫌が違うからでしょうか?
そう、それがポイント。

アドラーは、まず人間には「怒りたい」みたいな目的が先にあって、そこに理由になるものが現れたときに、怒りという感情が起こる、という順序を考えたの。

機嫌が悪ければ、それを発散したいという目的があるから、些細なことでも理由にして怒りを表してしまう……みたいな感じでしょうか。ということは、感情って手段なんでしょうか。
そうね。感情は「使うもの」だという考え方はできるわ。

悲しみを表せば、憐れんでもらえたり、便宜を図ってもらえたりするかもしれない。

怒りを表せば、相手が自分に従うかもしれない。

そういう意味では、感情は手段なのよ。道具と言ってもいいかもね。

感情が手段や道具だというのはなんとなくわかりました。でも感情を使っていく目的のほうは、どうやって形作られるんでしょうか?
目的は大きく3つに分けられているわ。

生き物として生き延び、子孫を残すこと。これが生物学的目的。

人間同士の関係の中に入り、所属すること。これが社会学的目的。

人間関係の中に、その人らしく所属すること。これが心理学的目的。

もちろん、これらのバランスにも個人差があるだろうし、「その人らしさ」とは何かってことは、一人一人が見出していくしかないから、目的は一人一人違ったものになるでしょうね。

みんながみんな同じ目的を持っていたら、今みたいな多様な世の中にはなりませんよね。
そうね。あと、アドラーは、人間が目的を持ち、感情を手段として使っていく上で、「劣等感」が重要だと考えたの。
劣等感、というと……私身体硬いんですよね……みたいなのですか?
ちょっと注意が必要よ。自分の身体が硬いことに不満を持たない人もいるからね。身体が硬いことそのものは「器官劣等性」、自分の身体が硬いことについて「もっと柔らかいほうがいい」と思うことが「劣等感」、というような区別がされているわ。
自分の身体は硬いから、もっと柔らかいほうがいい、と思うなら……身体を柔らかくするためにトレーニングをしよう、みたいなことになりますよね。
ええ。人間関係の中に「身体が柔らかい人」として所属したいという目的と、そのための行動が生まれるわ。

でも、劣等感は、行動をしない理由になってしまうこともある。ルールを呼び出して味方につける言葉の話をしたときに、久恵里ちゃんが「俺バカだから」という例を出してくれたでしょ。おさらいがてら、どんなルールを誰が味方につけようとする言葉か整理してみてくれない?

あ、はい、「俺バカだから」という言葉は……「バカは難しいことを理解しようとしなくていい」みたいなルールを呼び出して、「理解しようとしない俺」の味方につけようとする言葉です。
きれいにまとまっているじゃない。で、こんなふうに、劣等感を行動しない理由にしてしまうことを、「劣等コンプレックス」というの。私たちが普段の会話で「劣等感」というときは、この劣等コンプレックスのことを指していることがよくあるから、注意して区別したほうがいいでしょうね。
でも、単に行動しない理由になるだけだったら、その人にとって「行動しない」ことのほうが目的だったということで済むのではありませんか?
それで劣等感がなくなってくれるならよかったんだけどね……でも結局、自分の劣等感から目をそらしているだけなのよ。劣等感が見えないようにするために、自分から見て「上」にいる人を引きずりおろそうとしたり、「下」にいる人を踏みつけたりとか、そういう人間関係を悪くする行動につながってしまうことがある。
あれ? ということは、「あたしおかあさんだから」に怒っている人は、自分の劣等感を棚上げして、作者の成功を妬んで、引きずりおろそうとしている、という解釈もできませんか?
否定はできないわ。他にも、「育児の苦労を他の人にも負ってもらいたい、自分のために何かをしたい」という目的を持つ、母親たりえる人が、「あたしおかあさんだから」に対して怒る理由を見出してしまった、という筋道を考えることもできる。
……。
でも、逆の立場にも近いことは言える。

「育児の苦労を負いたくない、自分のために何かをしたい」という目的を持つ、でも母親たりえない人にとっては、あの歌詞は、とても「ありがたい」もののはずよ。

それに、「全力で育児をしようとしない母親」を自分より「下」に置いて踏みつけることで、自分が「上」に立った気分になりたいんだ、と解釈することだってできる。

……なんだか、げんなりする話になってしまった気がします。希望はないんでしょうか?
そうね。大事なのは、ネガティブでもポジティブでも、自分のでも他人のでも、感情に出会ったときに、「その感情の目的は何か? その目的を叶えるために、もっといい方法はないか?」と考えてみることだと思うわ。

そして、アドラーは人間が集まってつくる共同体を重要視していた。

共同体?
「身体が硬いからもっと柔らかくなりたい」という劣等感も、自分よりも身体の柔らかい他人がいなければ成立しない。人の目的を形作り、行動につなげるためには、人間同士の関わりがなくてはならないの。

でも、皆が劣等コンプレックスに縛られて足の引っ張り合いをしていたら、皆が目的から遠ざかってしまう。

たとえ、一部の誰かが目的に近づいても、それで他の誰かが目的から遠ざかるなら、後者は共同体に所属する意味をなくしてしまう。

いずれにせよ、共同体それ自体も壊れてしまうわ。

はい。
目的を持つにしても、叶えるにしても、共同体が必要。人間の生き方の基準が共同体にあると言ってもいいわ。さっき、「その目的を叶えるために、もっといい方法はないか?」と考えることを勧めたけど、何に照らして「もっといい方法」なのかを考える基準は、「それが共同体にとって良いものどうか」だということね。
感情は道具だけど、言葉と同じように、それに振り回されてしまったら自由ではない。自分の共同体に貢献するために、感情をうまく使っていこう、ということなんですね。
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登場人物紹介

久恵里(くえり)

主に質問する側

せんせい(先生)

主に答える側

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