「課題の分離」って何だろう?

文字数 3,321文字

「あたしおかあさんだから」が世に出てから1月半経ちました。世の中の多くの人は忘れてしまったようですが、忘れられず苦しみ続けて前に進めない人もいるようです。何をしたらよいのでしょうか。
私から提案するのは「課題の分離」。
課題の分離?

それってたとえば「カレーライスを作る」課題を、「炊飯器にお米と水を入れる」「野菜と肉を切る」「炒めて水を加える」……と分けていくようなものですか?

それはちょっと、割と違う気がするけど……。

感情は目的の後についてくるという話で出てきたアドラー心理学の言葉よ。

ただ、ラカン派精神分析なんかに比べたらずっと明快なアドラー心理学の中でも、課題の分離は難解な概念らしいの。研究者や実践者によって言っていることがバラバラだったりするし。

えー……そこまで難解なものが役に立つんでしょうか?
だから今は、「本来の課題の分離とは何なのか」を考えるんじゃなくて、「課題の分離として示されているものをどう役立てるか」を考えていきたいのよ。

それで、役に立つものはないか探してみたんだけど、IDEASITYというブログの記事がアドラー心理学を図でまとめていたので、お手本にさせてもらうわ。

えっと、図によると、課題の分離とは……。

「自分と相手と境界線引く。相手の課題に干渉しないし、自分の課題に干渉させない。」

あれ? なんかすごくシンプルに見えますけど。「ぼくに構わないで!」ってことですか?

ところがそう簡単にはいかないのよ。誰もが誰もに不干渉だったら、社会そのものが成り立たないでしょ。だから、人と人とがつくる共同体が重要になってくる。

前にも話したとおり、アドラーは人間の生き方を共同体と結び付けて考えていた。さっきの図でも、一番上のゴールが「共同体感覚」になっているでしょう。

共同体感覚は……。

「他人からの見返りを期待せず、他人にどう思われるかを気にせず、共同体への貢献をする。貢献は自己満足。共同体感覚があれば自己満足≠自己中心的。」

とありますね。

アドラー心理学では、人間は共同体に貢献することで幸福を得る、と考えるの。ここで気をつけなきゃいけないのは、貢献することで共同体から見返りがもらえるから幸福なのではない、ということね。
えー、でも、貢献って、他人が「よかった」と思ってこそなところがないですか?
もちろん、他人が「よかった」と思うかどうかは、何が貢献かを量る上で重要な指標ではあるわ。でもそれだけが貢献とは限らない。

久恵里ちゃん、もし今私のうなじに蚊がとまろうとしていたらどうする?

叩きます。
えー、叩かれるの痛いし苦痛なんだけど。
でも、血を吸われなくて済みますよ。
そう。今の久恵里ちゃんは、「蚊に血を吸われないようにすることが貢献である」と認識していたからこそ、「せんせいを叩いてでも蚊を退治する」という選択をしたのよ。そのことで私に苦痛を与えて、私から嫌われるリスクだってあったのに、そのリスクをあえて引き受ける勇気が久恵里ちゃんにはあったということ。
ちょっと大げさな気もしますが……他人から「よかった」と思われるだけが貢献じゃないってことはわかりました。ただ、そうなると、「これが貢献だ」という思い込みのままに他人を害してしまうことはありませんか?
そこで課題の分離が出てくるのよ。共同体への貢献は、一番上のゴールだよね。そこに辿り着くための、何が貢献なのかを見出していくためのステップの一つに、課題の分離があるの。
「自分と相手と境界線引く」が貢献につながるんですか?
そうね。ちょっと要約しすぎな感じがするから、私なりにまとめてみるね。えーと……。
(BGM:イェッセル「おもちゃの兵隊の観兵式」)
キユーエー3分課題分離~!
!?
今日は「ある本に出てくる子どもが虐待されているかもしれない」という課題を分離していきます。用意するものはこちら。

・「ある本に出てくる子どもが虐待されているかもしれない」という課題 1個

・共同体を構成する人々(自分を含む) たくさん

は、はあ……。
用意した課題を、共同体を構成するそれぞれの人と突き合わせて、「その人にとってはどんな課題なのか?」を考えていきます。
えっと、たとえば児童相談所の職員にとっては「事実関係を調べて、必要ならその子を保護する」という課題になるんでしょうか。
そうなるわね。あとは、「児童相談所に通告する」という課題になる人も。まあ共同体にも色々な人がいるわけで、「別に関係ないし、玉子丼を食べて寝る」みたいな人が多くなるでしょう。

そして最後の仕上げは!

仕上げは?
「自分は自分の課題に取り組み、他人は他人の課題に取り組む」これで完成です。
え、それは……当たり前では?
それが案外できていないものなのよ。むしろ、テレビのワイドショーなんかは、「他人の課題と自分の課題を混同する」ことで成り立ってるフシがあるし。
確かに、不倫報道とか、その人たちにしか解決できないことなのに、放送してるわけですもんね。
他人の課題がどうなっていくのかをいくら気にしても、それが他人の課題であることに変わりはないわ。むしろ、そうしている間、自分の課題をなおざりにしてしまう。自分の課題に取り組むことで共同体に貢献していく、その機会も遠ざかっていることになる。
課題の分離が共同体感覚へのステップだというのは、そういうことなんですね。
それに、自分が他人の課題をどうにかしようとしたり、他人が自分の課題をどうにかしようとしたりすると、争いが生じることになる。自分の意に沿わない相手を従わせようと怒りの感情を使ってしまったり、とかね。
じゃあ、他人の課題には一切関わってはいけないんでしょうか。
助言や忠告もしてはいけない、というわけではないわ。でも、相手がその通りに動かなくても、そこでおしまいにする。今の自分ができる貢献をしたと思えるなら、結果はどうあれ納得できるはずよ。でももしそこで、ネガティブな感情を使おうとする自分がいるなら、赤信号。
わかりました。
最後に、「あたしおかあさんだから」にまつわるどんな課題があって、それをどう分離していくかを考えてみましょう。東大卒ママのコラムにわかりやすい例があるから、それで。
「我慢や自己犠牲が美徳だという育児観を広められると、真に受けた人が斜め上から文句を言ってきて疲れるのでやめてほしい」

と書かれていますね。

久恵里ちゃん、この文を自分の課題と他人の課題に仕分けてみて。

はい。

「文句を言われて疲れる」が自分の課題。

それ以外は他人の課題です。

文句を言われる、というのは、他人が自分の課題に干渉してきている状態よね。少なくともここで、「ああ、自分の課題に干渉されているんだ」と思うことができる。それだけでも、いくらか気が楽になるでしょ。それに、「私の子育ては私自身の問題ですので」と発言したっていい。
うーん、もっと文句言われそうじゃないですか? 「まーっなんなんざましょ、アタシの老後をどうしてくれるのよ」とか。
それこそ課題の分離の本領発揮よ。「あなたの老後はあなた自身の課題ですよね? あなた自身どうやって老後に取り組んでいくのですか?」と問い返せる。それでも文句を言われるなら、もう距離を置いたほうがいい。
確かに、そういうことを言うのは、勇気が要りそうですね。
ええ。「嫌われる勇気」というタイトルの本が書かれるくらいだからね。

でも、自分に文句を言ってくる人たちによく思われようとしたって、虚しいでしょ。

自分だけの課題に自分なりに取り組むのに、他人の目を気にする必要なんてないんだから。

そう考えると、なんだかできそうな気がしてこない?

そうかも、しれません。
そして、ここまで述べた課題への取り組み方には、「あたしおかあさんだから」の歌詞や作者をどうにかする、というものは一切含まれていない。
あ、本当だ。他人の課題として分離することができたんですね。
「この課題は、自分にとってどんな課題なのか? 自分はこの課題にどう取り組むのか?」という視点を持つことで、それまで解決策だと思っていたものが解決策ではなく、もっと別の、共同体に貢献する方法としての解決策が見えてくることもあるはずよ。
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登場人物紹介

久恵里(くえり)

主に質問する側

せんせい(先生)

主に答える側

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