「課題の分離」って何だろう?
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それはちょっと、割と違う気がするけど……。
感情は目的の後についてくるという話で出てきたアドラー心理学の言葉よ。ただ、ラカン派精神分析なんかに比べたらずっと明快なアドラー心理学の中でも、課題の分離は難解な概念らしいの。研究者や実践者によって言っていることがバラバラだったりするし。
だから今は、「本来の課題の分離とは何なのか」を考えるんじゃなくて、「課題の分離として示されているものをどう役立てるか」を考えていきたいのよ。
それで、役に立つものはないか探してみたんだけど、IDEASITYというブログの記事がアドラー心理学を図でまとめていたので、お手本にさせてもらうわ。
えっと、図によると、課題の分離とは……。
「自分と相手と境界線引く。相手の課題に干渉しないし、自分の課題に干渉させない。」
あれ? なんかすごくシンプルに見えますけど。「ぼくに構わないで!」ってことですか?
ところがそう簡単にはいかないのよ。誰もが誰もに不干渉だったら、社会そのものが成り立たないでしょ。だから、人と人とがつくる共同体が重要になってくる。
前にも話したとおり、アドラーは人間の生き方を共同体と結び付けて考えていた。さっきの図でも、一番上のゴールが「共同体感覚」になっているでしょう。
そう。今の久恵里ちゃんは、「蚊に血を吸われないようにすることが貢献である」と認識していたからこそ、「せんせいを叩いてでも蚊を退治する」という選択をしたのよ。そのことで私に苦痛を与えて、私から嫌われるリスクだってあったのに、そのリスクをあえて引き受ける勇気が久恵里ちゃんにはあったということ。
(BGM:イェッセル「おもちゃの兵隊の観兵式」)
今日は「ある本に出てくる子どもが虐待されているかもしれない」という課題を分離していきます。用意するものはこちら。
・「ある本に出てくる子どもが虐待されているかもしれない」という課題 1個
・共同体を構成する人々(自分を含む) たくさん
そうなるわね。あとは、「児童相談所に通告する」という課題になる人も。まあ共同体にも色々な人がいるわけで、「別に関係ないし、玉子丼を食べて寝る」みたいな人が多くなるでしょう。
そして最後の仕上げは!
他人の課題がどうなっていくのかをいくら気にしても、それが他人の課題であることに変わりはないわ。むしろ、そうしている間、自分の課題をなおざりにしてしまう。自分の課題に取り組むことで共同体に貢献していく、その機会も遠ざかっていることになる。
助言や忠告もしてはいけない、というわけではないわ。でも、相手がその通りに動かなくても、そこでおしまいにする。今の自分ができる貢献をしたと思えるなら、結果はどうあれ納得できるはずよ。でももしそこで、ネガティブな感情を使おうとする自分がいるなら、赤信号。
最後に、「あたしおかあさんだから」にまつわるどんな課題があって、それをどう分離していくかを考えてみましょう。東大卒ママのコラムにわかりやすい例があるから、それで。
文句を言われる、というのは、他人が自分の課題に干渉してきている状態よね。少なくともここで、「ああ、自分の課題に干渉されているんだ」と思うことができる。それだけでも、いくらか気が楽になるでしょ。それに、「私の子育ては私自身の問題ですので」と発言したっていい。
ええ。「嫌われる勇気」というタイトルの本が書かれるくらいだからね。
でも、自分に文句を言ってくる人たちによく思われようとしたって、虚しいでしょ。
自分だけの課題に自分なりに取り組むのに、他人の目を気にする必要なんてないんだから。
そう考えると、なんだかできそうな気がしてこない?