「他人の物語」を自分と切り離せる?
文字数 1,886文字
「あたしおかあさんだから」の歌詞について、一人の女性を主人公にした物語を歌っているだけで、誰に何の強制もしていない、と擁護する人が何人かいました。
その人たちは、物語の力を意識する機会に恵まれなかったのね。
ええ。それも、思いのほか強い力がある。
そして、現代の世の中で、その力を使いこなそうと研究を重ねている人たちがいるわ。
そう言われると、物語みたいな広告って、テレビや新聞でよく見る気がします。
でも、そういえば、物語ってなんだろう……?
色々な捉え方があるけど、さっき載せた論文では、こんなことが書かれているわね。
「I: t1時にAはXである。
II:t2時にAに出来事Yが起こる(もしくは、AはYを行う)。
III:AはX'である。」
これはジャン=ミシェル・アダンの「物語論」に出てくる表し方だそうよ。
具体的に「あたしおかあさんだから」を当てはめてみたらいいんじゃないかしら。あ、「t1時」より「t2時」のほうが未来だってことだけは気を付けてね。
えっと、
「I:おかあさんになるまえ、「あたし」は痩せていて、おしゃれをして、仕事をしていた。
II:(あるとき、)「あたし」はおかあさんになった(もしくは、子どもを産んだ)。
III:「あたし」は、Iでしていたことを全部やめて、いいおかあさんでいようと頑張っている。」
これでいいですか?
ちょっとびっくりするくらい綺麗に当てはまったわね……。どうやら、「あたしおかあさんだから」は物語であると言えそうね。
下村教授は重要なキーワードとして「共感」を挙げているわ。
消費者が登場人物に共感することが、広告やブランドへの好意的な態度につながると考えているわけ。
でも、「あたしおかあさんだから」は広告じゃありませんよね?
確かに広告ではないけれど。でも、商業広告が現れるよりずっと前から、人類は物語の力を使っていたの。アイソーポス……イソップ寓話は知ってるでしょ?
「アリとキリギリス」や「オオカミ少年」がそうですよね。
なんで、物語なのかしら?
「普段から働いていないと、いざというときに苦しみますよ」とか、
「普段から嘘をついていると、いざというときに信じてもらえませんよ」とか、
言いたいことをそのまま言えばいいじゃない。
それはそうですけど……それだと、話しにくいというか、聞き入れにくいというか……。
久恵里ちゃん、その感情はとても大事よ。
物語には、話しにくさや聞き入れにくさの壁を超える力があるってことだからね。
私たちが登場人物に共感することで、その力は働くの。
今この会話を読んでいる人も、久恵里ちゃんの考え方や説明の聞き方を見て、それに共感することで、理解に近づいているのよ。それが私たちが会話をする理由。
ああごめんなさい。
物語は共感を通して力を持つっていう話だったわね。
そういえば、「あたしおかあさんだから」にも、共感したという人は少なくなかったです。
物語の型……構造を持っているのだから、共感を通して人を動かすのは当然と言えるわね。
ただ、その共感の力が悪いほうに働いてしまった、という面もあると思う。
前々回にも触れたとおり、「あたしおかあさんだから」と唱えてコンフリクトを解決しようとするような歌詞が何度も繰り返されているわけじゃない。それに共感するということは、「おかあさんになるまえ」対「おかあさん」の戦いを何度もさせられているようなものよね。
しかも、
前回触れたとおり、その戦いに決着をつけるルールは「子どもがいれば幸せ」みたいな、うつろいやすいものでしかなかったわけで。そういう在り方に向かって共感させるように物語が働いているのよ。
それは……いくら物語に共感させる力があるといっても、限度がありますよね……。
しかも今は、メディア・リテラシーやクリティカル・シンキングの考え方が普及してきて、広告を批判的に読み解こうとしたり、私たちの物の見方・考え方のクセを知ろうとする営みが広く行われている。
そんな中で、物語に力があることを知っている人にとっては、あの歌詞は、「物語の力を使って人を操ろうとしている」というように読めてしまうものでもあると思うわ。
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