あの曲と似てる? 違う?(承認欲求編)
文字数 2,987文字
なるほど……ちょっと「闘え!サラリーマン」の歌詞を見てみましょう。
久恵里ちゃん、ここから「辛い現実」に当てはまりそうな言葉を、そうね、5つくらい抜き出してみて。
オーケー。次に、「あたしおかあさんだから」の歌詞からも、同じように「辛い現実」を抜き出してちょうだい。
なんで? 子供と遊ぶの楽しいときもあるし、子供番組って案外味わい深いのよ。苦手なものに挑戦するのは成長の機会にもなる。5時起きで眠いかもしれないけど、「つらい」とは言っていない。「あたし」がおかあさんとしての生活を「辛い現実」と認識していることを示す言葉は、歌詞の中に明示されてはいないのよ。
「不遇を言葉にできていること」それ自体が一つ目の仕掛けよ。歌詞を仮想的な人格として捉えるとすれば、その歌詞が「不遇を不遇と認識できている」なら、聞き手は、この歌詞には自分と似たような感情があるんだろうなと想像することができる。
それで、二つ目の仕掛けは「オレ達」という言葉なんだけど、歌詞のどこにあるかな?
何かを「あえて言おう」とするのは、その「何か」を他者から見たら大げさだったり的外れだったりするかもしれない、という認識の表れよね。それでも、賛同してもらいたい、受け容れられたい、そういう願いがあるからこそ「あえて言おう」とするんだわ。
「言ってくれよ」も、その後に続く「社会はオレ達が回してんだ!」という声明を他人と共有したいからこそ出てくる言葉よね。独り言を繰っているのなら、誰かに何かを言ってくれと望んだりはしないもの。
そしてこのときだけ、歌詞の与える視点は「オレ」から「オレ達」にシフトしているわけ。
「格闘ゲームのパイオニアー イー・アル・カンフー ヤー!」(作詞:ヒャダイン)
それを頭に入れてタイトルを見直すと、「闘え!サラリーマン」は、ゆでたまごの漫画「闘将!!拉麺男」のパロディーであることがわかるわけよ。
まあね。ただ、歌詞の中にはもっと露骨なホモソーシャルが表れているわ。
男性のホモソーシャルに見出される傾向として、「女性を軽んずる」つまりミソジニーと、「男性を性的嗜好の対象にしない」つまりホモフォビアがあるそうなんだけど。
そういう観点から見ると……
「あの会社の受付嬢はカワイイ」も、女性の価値を「カワイイ」でしか見ていないミソジニーだし、「仕舞に可愛い同僚 部長と逃避行」にもそういう傾向がありますね。
で、「一度は美人秘書連れて移動」は、同性愛者でないことを確認し合うためのメッセージになっている。
というわけで、ホモソーシャルというのは決して褒められたものじゃないんだけど……今までの三つの仕掛けをまとめると、現実を辛いものとして表す言葉や下ネタを互いに認め合い分かち合う「オレ達」を作り出すように「闘え!サラリーマン」はできていることがわかるわね。
アドラー心理学の話をしたときに、「人間の生き方の基準が共同体にある」と言ったのを覚えてるかしら。人は、自分を認めてくれる他人とのつながりによって自分を見出していくのよね。
おそらく、その質問はとても重要よ。
「子供が承認する」と考えるなら、「子供に負い目を負わせることになる」という感想を抱くだろうし、
「おとうさんが承認する」と考えるなら、「そのおとうさんとやらはどこへ行ったんだ」という感想を抱くだろうし、
「作詞者が承認する」と考えるなら、「あんた関係ないやん」という感想を抱くだろうし。
怖いのは、「あたし自身が承認する」という考え方ね。その「あたし」はもう他人と共同体を築くことができないんだから。