あの曲と似てる? 違う?(本質主義編)
文字数 2,002文字
以前話したステレオタイプになってしまっているんですね。
それもあるし、本質主義という考え方になってしまっているのよ。
でも、うっかり本質主義的な言い方をしてしまうことって、結構多いから、注意が必要よ。
例えば、「日本人のDNAに刻み込まれている」という言葉。
それに科学的根拠もない。「ラジオ体操」の遺伝子が日本人のDNAにあるっていうなら、そのゲノムを制限酵素で切り出して持ってこいって思うわ。
強いものを呼び出して味方につけたいからでしょうね。「人間の在り方を予め規定するもの」として、「DNA」が強力で便利なカードになってしまっているのよ。かつてその役を負っていた「祖先」とも相性が良かったのね。(まあ、「骨身に染みる」のような慣用句の一種なのかもしれないけど)
でも、「おかあさんとはこういうものだ」という、どんな時代の誰にでもあてはまる仕様書なんてない。そのことを知っている人にとっては、「この時代の誰かが作ったまがいものの仕様書」に見えてしまう、ということでしょうか。
なぜそうした「仕様書」があると思おうとするのか? それは、強いものを作り出して、呼び出して味方につけて、自分や他人をいいように動かすためなんだ。構築主義を知った現代の私たちは、そのように語ることもできるわけ。
それでせんせい、「あたしおかあさんだから」と「おかあさんだもの」の歌詞の違いってなんでしょう?
「女性の身体にある自然の力に頼らなければ、人間は生まれ出ることができない」ですからね。説得力が違うんですね。
もっとも、「生まれた赤子を産んだ女性から直ちに引き離し、隔離して養育する」という社会を仮定することはできるし(あくまで仮定ですよ)その社会には「おかあさん」と呼ばれるべき人はいないことになるから、揺るぎない本質と言うことはできないのよね。
前回触れた「関白宣言」も、「子供が育って年をとったら」と、未来への視点を含んでいたよね。でも、「あたしおかあさんだから」には、破壊により贈与される過去はあっても、未来がない。それで、かえって終わりなき閉塞感を与えてしまったのかもしれないわね。