母親と子の関係ってムズカシイ?(前編)
文字数 2,655文字
これまで、ルールを呼び出して味方につける言葉の問題、うつろいゆくものを幸福の根拠にする問題、物語が持つ共感の力の問題を扱ってきましたけど、「おかあさん」というテーマに限った問題ではなかったように思います。何かこう、「おかあさん」ならではの問題があるんじゃないかと思うんですが。
当たり前ってことは、揺るがないってことよ。そこから考えれば思考がブレにくいわ。
それに、地球上には何十億人も人間がいるのに、一人の例外もなく母親から生まれているっていうのは、ちょっとすごいことだと思わない?
ええ。少なくとも今(2018年)のところ、女性の身体にある自然の力に頼らなければ、人間は生まれ出ることができないんだもの。そして、多くの人が母親のもとで育てられる以上、母親という存在はとても特別視されやすいと言えるわ。
えっ……そうね。以前、ステレオタイプの話をしたことがあったけど、母親を特別視するのも一つのステレオタイプかもしれないからね。「そういう考え方がある」というふうに一歩引いてみる必要があると思う。
だいたいそうなんだけど、母親がすべての欲求に応えてくれるとは限らないわよね。他の仕事があったり……辛い話だけど、育児の意味を見失ってしまう人もいるわ。
それを赤ちゃんの視点から捉えると……生まれてからしばらくは、不満(お腹がすいたとか、肌が濡れているとか)が自動的に満たされていたのが、ある時点から、そうではないということに気づく。赤ちゃんと母親が別の人間であることを理解するタイミングが訪れるということになるわ。
元々は精神科医のジークムント・フロイトが患者を治療しようとする中で見出していった「精神分析」という考え方を、私なりに要約したものよ。
フロイトの考えでは、子ども、この場合男の子は、母親を自分のものにしたい、という願望を抱くことになる。元々すべての欲求を満たしてくれた存在だものね。
「あたしおかあさんだから」の作詞者自身がそういう絵本を書いてるくらいだからね。
でも、大抵の母親にはもう夫がいるわけだし、元々生物学的にも別個の人間なんだから今更一つになれるわけはないし、母親を自分のものにしたって、所詮は人間、すべての欲求や欲望を自動的に叶えてくれるはずもない。
そこで男の子は「母親を自分のものにしたい」という願望を壊すことで、母親とは違う、別のものを求めて成長していくことができる、とフロイトは考えた。それでこの子どもの心の働きを、神話になぞらえて「エディプス・コンプレックス」と呼んだわけ。
そうとも限らないわね。あくまで、「こう考えていくと、患者の症状をうまく説明できますよ」という話。フロイトは精神科医だから、正しさを求めることよりも、患者の苦しみをなんとかすることを優先していたんでしょうね。
言葉はリミッターになる。たとえば、「ママはボクに服を着替えてもらいたい」という言葉での理解があれば、「服を着替える」ことをすればその欲望は満たせたことになるでしょ。そういう区切りをつける働きが言葉にはあるのよ。