歌の歌詞として批評すると?(緊張と弛緩編)

文字数 3,390文字

久恵里ちゃんにずっと黙ってたことがあるのよ……。
なんですか改まって?
実は私、半分は人間なんだけど……。
……。
もう半分も人間なの。
(ズコー)
今の一連のギャグはどこが面白いのかというと……。
説明を要する時点でギャグとしては失敗です!
ごめんごめん。でもこれは、「緊張と弛緩」の理論に基づいているのよ。
緊張と弛緩……ですか?
さっき私が「半分は人間」と言った時点で、「もう半分は人間ではない」という心構えを久恵里ちゃんは持ったわけでしょ。じゃあ何だろうと気になって、続く話に注意を向ける。そこに緊張が生まれるわけだけど、「もう半分も人間」という当たり前の結論に心構えを崩されて、緊張が壊れた。これが笑いのポイントなのよ。
う、う~ん……。
「笑いとは何か」ということを論じている哲学者って案外多いのよ。ドイツにはカント、イギリスにはスペンサー、フランスにはベルクソンがいるわ。今は詳しくは見ないけど、面白そうな論文を見つけたから興味ある人は読んでみてね。
あの、それで、なぜ笑いの話なんでしょうか?
この「緊張と弛緩」は、笑いだけじゃなくて、色々な表現に応用がきくのよ。それこそ音楽にもね。特に歌曲は、歌うという身体の運動を伴うものだから、身体の緊張と弛緩を通してみると、色々見えてくるものがあるはずよ。
うーん……もっと具体的な話になりませんか?
あー……具体的……そうねえ……山崎まさよしの「セロリ」を流すから、ちょっと聞いてみて。
はい。
最初、「イナメナイ」「しょうがない」というところで音程が高くなっているでしょう。高い音を出すと身体は緊張する。しかも否定的な言葉だから、「互いに嫌な気持ちを抱いてるんじゃないか」って予想も立てられる。聞き手の心が一度揺さぶられるのよ。
それから、どうなりますか?
「何がきっかけで……出逢ったんだろう」というのも、迷いのある言葉で、やっぱり不安定なんだけど「いっしょにいたいのさ」という言葉が現れて、「あ、この二人、案外うまくいってる?」と、ふっとバランスが崩れる。

でもそこで「がんばってみるよ やれるだけ」という元気のある言葉を、一番高い音で力強く歌って、ポジティブなテンションが上がって「つまりは」で最高潮になるんだけど、「単純に君のこと好きなのさ」で力が抜けて安定する。この力の抜けた安心のような感覚と、「セロリ」のいう「好き」の感情は重なっているというわけ。

んー……そう言われればそんな気もするような、しないような……。
あくまで、「緊張と弛緩」に注目していくとそういう捉え方ができる、という話よ。でも、歌をどうやって読み解いていくかという、一つの方法にはなるんじゃないかしら。
じゃあ、次は、「あたしおかあさんだから」の中の「緊張と弛緩」を紐解いていこうということなんですね。
もっと「セロリ」について語りたいけど、主旨を見失ってはいけないわね。

さて、「あたしおかあさんだから」なんだけど、言葉を取り去ってメロディーだけを聞いていくと、緊張と弛緩を作り出すために努力と工夫がされているのはわかるのよ。

具体的にはどのあたりですか?
「あたしよりあなたのことばかり」の前の行の「だから」の部分がわかりやすいわ。「だ」の音がソより半音上がっていて、「か」が一番高い音になっている。ここに力が集中するようになっているの。「セロリ」の「つまりは」のような役割を持たせているのね。
次に力を抜いて安定させるために、予備動作として緊張を置いているんですね。
……なんだけど、「あたしよりあなたのことばかり」の後で、また「あたしおかあさんだから」が出てくるでしょう。緊張の役割を持っていた言葉が、今度は弛緩の役割を持たされている。これって変だと思わない?
リスナーの耳は、緊張したらいいのか、弛緩したらいいのか、混乱しちゃいますね。

サビの最後の行をもう一回繰り返すというのはJ-POPでは常套手段で、音楽プロデューサーの亀田誠治はこれを「一行返し」と呼んでいる。例えばDREAMS COME TRUEの「未来予想図II」の最後の行みたいなのね。

でもこれは、最後の最後で使うから効果の出るものよ。連発したら逆効果になるし……それに、このときの「あたしおかあさんだから」は隙を生じぬ二段構えでしょう。だからきっちりと〆ることができなくなってしまった。結局、もう一度緊張させて、また弛緩させるという、余計なプロセスを経なければならなかったのよ。同じ「あたしおかあさんだから」という言葉でね。

言葉が変わらないまま、緊張と弛緩が繰り返される……。
聞き手として率直な感想を述べさせてもらうと、徒労感が半端なかったわ。メロディーがなんとかして緊張と弛緩を作り出そうとしているのに、言葉が全くそれに応えていないんだから。

あと、これとは逆に、言葉が余計な緊張をもたらしてしまっている部分がある。

余計な緊張、というと?
今まで、高い音や強い音が緊張を作ると言ってきたけど、他にも緊張の作り方はあるわ。それは「早口」。
「皆に忘れ去られた時心らしきものが消えて暴走の果てに見える終わる世界...『VOCALOID』」

みたいなやつですね?(cosMo「初音ミクの消失 -DEAD END-」)

ああ……「セロリ」の……「毎回毎回そんなにいつも会えないから」を言おうと思っていたのに……。おっといけない主旨主旨……。

「あたしおかあさんだから」にも、早口になっている部分があるよね。

「甘いカレーライス作ってテレビも子供がみたいもの」の部分が早口ですね。
この部分は、「ヒールはいてネイルして」の11音と同じメロディーラインに26音を詰め込んでいる(筆者調べ)から、聞き手の注意を自ずから引くことになるわ。でも、そうして緊張をもたらしているわりに、内容は曲の他の部分と似たような、事例の列挙でしかないのよ。こう、視点とか感情とかの変動を伴っていないわけ。
これも、「緊張し損」になってしまうということでしょうか。
ええ。細かい部分ではあるけど。

でね、私の推測なんだけど、あまりこういうことがある歌詞に対しては、「作曲者は何かしらのリテイクを求めたのではなかったか?」と思えてならないのよ。

どういうことですか?
歌曲が出来るまでには大きく二つの道筋があるわ。

歌詞が先に書かれて、それにメロディーやアレンジメントをつけていく「詞先」と、メロディーが先に書かれて、それに歌詞をはめこんでいく「曲先」がある。

書店や楽器店で売られている作詞の指南書には、曲先を前提として書かれたものが多い。

なぜ曲先が多いんですか?
そのほうが需要が大きいんでしょうね。先に作曲家が音楽の形を作って、作詞家がそこに言葉を載せていくという作り方が多い。すると作詞家も楽譜の読み方とか音楽的素養が必要になるし、そうした内容の本は音楽の教科書みたいで書きやすいんでしょう。

で、これは断言しちゃうんだけど、「あたしおかあさんだから」は曲先ではないわね。

もしメロディーが先にあったら、そこにいきなり2倍以上の音数を突っ込んだりはしないだろうし、もしどうしてもしたいなら、作曲家にお伺いを立てなきゃ。

そうですよね。そこは人と人との協業ですし。
そう、協業。作曲家もプロだから、クライアントの要望には応えなきゃいけないけど、それでもプロとして「音楽としてよりよいものにするために、一緒に歌詞を見直していく」ことを提案する機会はあったんじゃないかと思うの。
でも、「あたしおかあさんだから」は、この形で放送されたわけですよね……。
作曲家の気持ちを「忖度」するつもりはないけど、この現状には、とても嫌な感じを覚えているわ。
***おまけ***
なんか重苦しい話で緊張しちゃったから、弛緩させるために一曲流しましょう。

鼠先輩の「六本木~GIROPPON」よ。

ネ、ネズミセンパイ? ギロッポン? このムーディーなおじ、いや、おにいさんは一体?
最後まで聞いて。聞けばわかるわ。
あ、転調した。ここでテンションをかけて終わるんですね……ってまた転調!? また転調!! しかも歌詞が「ぽ」だけ……あ、終わっtぽーーぽーーー!! なんなんですかこの歌!?
「エンドマークが出ているのに終わらない」というのは、ギャグとして徹底すれば効果的ってことね。

でも、自分がまじめなつもりなら、やるべきではないわ。

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登場人物紹介

久恵里(くえり)

主に質問する側

せんせい(先生)

主に答える側

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